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2023年6月4日 礼拝「世に勝利して生きる」ヨハネの福音書16:29-33

 十字架での死を前にしての主イエスと弟子たちとの別れの時を見ていますが、主イエスによる弟子たちへの遺言も最後の部分になりました。


 主イエスは、ご自分が世から憎まれたように、弟子たちも世から憎まれることになるという予告をなさいました。15章18~19節。主イエスを信じて神の国の民となった私たちは世のものではなくなりました。世のものではなくなった私たちキリスト信仰者を世が、すなわちまことの神を信じようとしない者たちが憎むことになるのは当然であるとして覚えておくことは大事です。


 16章1~2節。主イエスは弟子たちに、この後起こるであろうユダヤ社会での迫害を覚悟させます。そのときに、つまずくことのないために、です。


 30節。弟子たちは主イエスに対する信仰告白をしました。あなたが神から来られたことを信じますと。弟子たちは純粋に主イエスを信じたのです。そしてその信仰を主イエスは認めてくださいました。31節です。


 しかし主イエスを信じる信仰は純粋でも、肉の頑張りによる信仰では簡単につぶされることを主イエスは指摘なさいました。32節。それは、主イエスを憎む者たちが主イエスを捕らえるときに起こります。主イエスは捕らえられます。十字架で処刑されるためにです。その時、弟子たちは主イエスから離れてしまいます。ペテロは主イエスに、あなたのためなら、いのちも捨てますと言い切りました。このことばに嘘はありません。心の底からの正直な思いです。しかし主イエスははっ きりと予告されました。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。どんなに心からそう思っていても、肉の頑張りでは、その思いを遂げることはできません。だから助け主の聖霊に助けを求める必要があるのです。


 弟子たちがみな去ってしまうので、主イエスは一人残されます。しかし父なる神がともにおられるので、わたしは一人ではありませんと言い切るのです。父、子、聖霊の三位の神は、永遠の初めから、いつも共におられました。私たちは聖書でご自分を現された主なる神に、その通りですと同意することが大事です。父、子、聖霊の三位の神を混同してはなりません。また切り離してはならないのです。


 しかし神の子キリスト、主イエスは、罪の呪いを一身に受けて、私たちの罪の贖いをするために、私たちの代わりに十字架で罪の処罰を受けました。このときだけは父なる神、聖霊なる神から切り離されたのです。罪そのものとなられ、神に捨てられたのです。そして罪の処罰が完了した時点で、父、子、聖霊の三位の神は一つとなられ、永遠をともにおられるのです。


 33節。主イエスを神と信じ、従う者は、世から憎まれ、排除されます。これは避けられない定めです。世は創造者である神、主権者である神を認めようとせず、自分の思い通りに生きようとするので、神に敵対するのです。そのようなこの世において、主イエスの弟子である私たちキリスト信仰者は異質な存在のため、様々な霊的な戦いを強いられます。これは避けられない現実であると受け止めておくことが大事です。その時に慌てふためくことなく、主とともに歩むためにです。


 だから主イエスは明確に弟子たちに約束しました。もう一人の助け主、聖霊を遣わすという約束です。14章26~27節。助け主の聖霊は、主イエスが語られたすべてのことを思い起こさせ、その約束を、そのことばを生きる一歩を踏み出させてくださるのです。主イエスは平安を残されました。わたしの平安を与えますと約束されたのです。主イエスが与える平安は世が与える平安とは全く異質の平安です。世が与える平安は、自分が物質的に満足したと感じるときの平安であり、肉体的に、精神的に満足を感じられなくなれば、たちまち崩されてしまう脆い平安です。しかし主イエスが与える平安は、精神的にも、肉体的にも、この世の物質的な満足がすべて取り去られたとしても決してなくならない平安です。心を騒がせることも、怯むこともない、状況に左右されない平安が私たちを守るのです。


 16章33節。主イエスが十字架の死を前にして語られてきた約束を、私たちは繰り返し確認しておくことが大事です。いつ、自分が置かれている状況が不安と心配を引き起こすものに変わったとしても、私たちは主イエスが与える主イエスの平安の中にとどまることができるからです。


 主イエスは明確に予告されます。主イエスを信じた私たちは、覚悟を決めておくことが大事です。世にあっては苦難があります。多種多様な、強弱もいろいろな苦難に見舞われるでしょう。それは私たちの主イエスに対する信仰を揺るがすためのこの世の神、サタンによる惑わしであり、攻撃によります。心を騒がせてはなりません。怯んではならないのです。勇気を出すのです。自分の肉の頑張りによる勇気ではありません。それは空元気であり、簡単に消し去られる勇気です。私たちが出す勇気は、主イエスにあっての勇気です。主イエスの支配に自分を置くことで与えられる勇気です。主イエスは世に勝ちました。私たちも主イエスにあって世に勝つのです。主権者である神が備えた、この霊的な事実を認めることが大事です。


 世に勝利するとはどういうことでしょう。ヨハネが手紙に書き記した箇所から確認しましょう。ヨハネの手紙第一5章3~5節。神から生まれた者はみな、世に勝ちます。私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とは、イエスを神の御子と信じる者です。私たちキリスト信仰者は世に勝っています。この霊的な事実に同意するのです。神が備えられた霊的な事実に、です。


 2章15~17節。神を愛する者は、世を愛しません。世を愛する者のうちに神の愛はないと言われます。世と、世の欲は過ぎ去ります。それらは一時的であり、永続はしません。しかし神のみこころを行う者は永遠に生き続けるのです。


 主イエスは、あなたがたは神と富とに仕えることはできませんと警告されました。神を愛する者は富に支配されません。富を愛する者は神による支配を嫌います。世に勝つとは、世の支配を受けない、物質的な祝福を求めない、世と世の欲から解放されていることです。物質的な祝福が与えられたなら、素直に喜び、どのように用いることが主に喜ばれるかを考えて、適切に活用しましょう。物質的な祝福が奪われたとしても、それに左右されずに、物質的な祝福を与えてくださる神に信頼して、主とともに、主イエスの平安の中を歩むだけです。


 世に負けるとは、世と世の欲に隷属させられることです。物資的な祝福に依存しているなら、それらが奪われたときに、意気消沈し、絶望的になります。この世を支配する者、サタンとその勢力の支配に自分を委ねて、物質的な祝福を求めて隷属させられているあり方が、世に敗北している状態です。


 私たちは主イエスを信じたときに、創造者である神の側に属する者、神の所有とされ、世に勝つ者となりました。だから主イエスは勇気を出しなさいと言われるのです。主イエスはすでに世に勝っており、私たちも世に勝っているからです。


 弟子たちはなおしばらく、世に勝てませんでした。主イエスから離れてしまい、当局による捕縛を恐れて隠れたのです。しかし復活の主イエスに会い、喜びに満たされ、少し大胆になりました。そして助け主の聖霊に満たされることで、すなわち自分を聖霊の支配に委ねることで、彼らは大胆に主イエスを、その十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いを証しする者とされたのです。


 私たちも同じです。主イエスを信じる信仰によって神の所有とされ、世に打ち勝つ勝利者となっています。しかし自分の肉の頑張りでは、世と世の欲に立ち向かうことはできません。聖霊に自分を委ね、助け主の聖霊の支配に自分を置き、聖霊に助けられて神のことばを生きる一歩一歩を進めることで、世に勝利して生きている自分を見出すことになるのです。真に幸いな信仰者として歩みましょう。



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