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2023年5月28日 礼拝「聖霊降臨の日」使徒2:1~4 ペンテコステ

 今日は、キリスト教会において、ペンテコステとして記念する日です。ペンテコステとは数字の50です。1節では、五旬節の日になってとありますが、50日が満ちてということです。過越の祭りの安息日の翌日の日曜日、その日に主イエスは死者の中から復活されましたが、その日から50日目、7つの安息日を数えた翌日の日曜日に7週の祭りが行われました。イスラエルの3大祭りの一つであり、敬虔なユダヤ人はエルサレムの神殿でこの祭りを祝うことを当然のこととし、多くの敬虔なユダヤ人たちが世界中からエルサレムに集まっていたのです。


 主なる神はこの日を、弟子たちに約束された、助け主の聖霊を与える日としたのです。神の約束の通りに聖霊が弟子たちに臨んだことを、弟子たち自身が確認できるために、超自然的な音と、超自然的な光景を伴わせました。聖霊に満たされるという、今まで体験したことのない出来事が、客観的な事実であることを確認させるために、弟子たちがお互いに、また第3者にも目撃させのです。


 その日の超自然的な現象が2~4節です。2節。突然、天から激しい風が吹いて来たような響きが起こりました。その響きは家全体に響き渡るほどの大きな響きであったということです。だから6節。大勢の人々が集まって来ました。


 3節。弟子たちは、炎のような舌が現れ、一人ひとりの上に留まるのを見たのです。弟子たちは驚き怪しんだでしょう。得体の知れないものが、弟子たち一人ひとりの上に留まりました。不気味ですが、お互いに確認したのです。


 4節。弟子たちは御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことば、外国語を話し始めたのです。炎のような舌が留まり、自分は聖霊に満たされたのだと自覚できるために、また他の弟子たちも聖霊に満たされたことを確認できるために、御霊が話させてくださるとおりに外国語を語り出すという体験をしました。


 弟子たちは約束の実現を待っていました。その約束とは1章4~5節です。聖霊のバプテスマを授けれれるということです。しかしそれがどのようであるかは見当もつきませんでした。弟子たちは、主イエスの復活後40日間、主イエスをその目で見、その手で触り、その耳で主イエスの約束を聞いたので、具体的なことは分からなくてもその実現を待ったのです。14節。弟子たちは祈りに専念しつつ待ちました。そうして10日が過ぎ、約束の聖霊を授けられました。これが聖霊降臨の日であり、私たちは毎年、この日を記念しています。ペンテコステの記念日です。


 改めて聖霊について確認します。ヨハネの福音書14章16~17節。聖霊は助け主です。もう一人の助け主と紹介されました。ここで使われている別のという語は、同質同等であるが別のという意味です。主イエスではないけれど、あたかも主イエスご自身が側にいて助けておられるように助ける助け主です。この助け主、約束の聖霊が来られ、主イエスを信じる弟子たちのうちにおられるので、いつまでもともにいてくださるのです。世は、すなわち神を信じようとしない人々は、聖霊を見ることも、知ることもないので、受け入れることはできません。


 26節。助け主の聖霊は真理の御霊で、すべてのことを教えてくださいます。新約聖書は弟子たちによって書かれましたが、それは彼らのうちにおられた聖霊に導かれて書いたのです。聖書の真の著者は聖霊です。だから私たちは聖書を読むときに、聖霊に教えていただくという姿勢で、神からの語りかけを聞く態度で聖書に向き合うことが大事です。聖霊はすべてを教えてくださいます。


 16章7~8節。主イエスは、自分が去っていくことは弟子たちの益になると言われました。主イエスと交代するかのように助け主の聖霊は遣わされます。聖霊は世に罪について、義について、さばきについて、誤りを認めさせます。


 9節、罪とは悪いことをすることは当然のことですが、それ以上の、根源的な罪は、主イエスを信じないことです。聖霊によって、この罪が分かるのです。


 10節。義についての誤りとは、人々はイエスを罪に定め、十字架で処刑するけれど、三日目によみがえり、父なる神のもとに行かれることで、イエスご自身が義であることが神に認められました。イエスご自身が義であり、イエスを神の子キリストであると信じる者は、主イエスの義に与ることで義とされるのです。主イエスを信じる以外に、私たち罪人が神に義と認められることはありません。


 11節。さばきとは、この世を支配する者がさばかれたことです。主イエスが十字架で処刑されたとき、この世を支配する者、サタンは勝利の宣言をしたと思われます。救い主を抹殺できたと勝ち誇ったことでしょう。しかし主イエスの十字架での死によって、私たちは罪と死の支配から解放されたのです。


 私たちを罪に隷属させていたサタンの目論見、神に聞き従わないで生きることが自由であるとの惑わしを打ち砕いたのです。この世を支配する者は、主イエスの十字架で現された神の愛によって、その欺瞞性が完全に暴かれました。この世を支配する者がさばかれたことを知るのは、聖霊によるのです。聖霊は、私たちに神の愛を知らせ、私たちが、神の限りない愛で愛されていることを知ることで、神を愛する者となり、神に聞いて生きたいと願う者へと変えられるのです。


 ペンテコステの日以来、聖霊は、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせ、人々に、イエスこそ主キリストであると告白させて、人々を神の愛を喜びとする者、神に聞いて生きる者、神を愛する者へと変え続けるのです。


 エルサレムで、神の約束を待ちつつ、祈り続けていた120名ほどの人々に聖霊が臨んだ日に、弟子たちを通して語られる神のことばを聞いた3000人ものユダヤ人が、聖霊の促しを受けて罪の迫りを感じ、悔い改めて主イエスを信じました。


 主イエスを信じるユダヤ人たちが増えるにしたがって、イエスを信じようとしないユダヤ人たちはキリスト信仰者を迫害し始めるのです。そうしてキリスト信仰者は散らされますが、散らされた先々で聖霊によって大胆に主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いを宣べ伝えることで、ユダヤ全域、小アジア全域、そしてローマ社会全体に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせ、迫害が激しくなっても、イエスをキリストと信じる者を起こし続けたのです。そうして300年後には、ローマはキリスト教を国教と定めました。


 2000年に亘るキリスト教会の歴史を振り返るとき、激しい迫害の中で、聖霊はキリスト信仰者を大胆に用い、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しを宣べ伝えさせることで、人々に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせ、イエスを主と告白する者を起こし続けました。そしてこれからも、聖霊は、私たちを用いて、この日本においても、また石垣の地においても、イエスこそ主キリストであると告白する者を起こしてくださいます。期待しましょう。


 鍵は、私たちが聖霊に自分を委ねるかです。聖霊が与えてくださる大胆さを身につけて、聖霊が教えてくださる真理を伝えていくかです。聖霊に満たされることについてはエペソ人への手紙で確認しましょう。5章18節。聖霊に満たされることと対照的な状態は、酒に酔うことです。身体をアルコールに支配させた状態です。そうではなく聖霊に支配させなさいと勧めるのです。私たちは自分の心を何に支配させようとしているでしょうか。聖霊に支配させなければなりません。自分を明け渡す度合いが聖霊に満たされる度合いであり、自分を明け渡す分だけ、聖霊に満たされることになります。完全に明け渡せば、完全に満たされるのです。


 ガラテヤ人への手紙5章16節。御霊によって歩みなさいと招かれています。肉の欲望に隷属されないのは、御霊によって歩むことによってです。御霊によって歩むとき、私たちは神のことばを行う歩みができます。聖霊が私たちを助けて、みことばを生きる者とするからです。その反面の姿が19節以降です。肉の欲求に従うなら、私たちの言動は、悲惨で、悲劇的な結末を生み出すのです。


 しかし22~23節。御霊に満たされるなら、私たちは変えられます。内側から確実に変えられるのです。これらの品性は、御霊が結ばせてくださる実です。私たちの肉の頑張りでは得られない品性です。だから25節。御霊によって、御霊に導かれて進もうではありませんかと促されるのです。


 聖霊は助け主です。助け主は、私たちの自主性、私たちの意思を無視して、強制することはなさいません。私たちが助けを求めることを待って、助けてくださるのです。私たちが聖霊に信頼して、自分を完全に明け渡して、その導きに従うなら、神のことばを生きようと願い、聖霊に助けを求めるなら、神のことばを生きている自分を発見します。聖霊が生かしてくださるからです。


 主イエスの復活の日から50日目、ペンテコステの日に、神の約束の通りに来られた助け主の聖霊は、今、主イエスを信じる者の心に賜物として与えられます。助け主の聖霊は、いつも主イエスを信じる私たちともにおられ、絶えず助けようとしておられるのです。だから私たちは、聖霊に満たされること、聖霊に導かれて歩むことを追い求めることが大事です。そうして一人でも多くの人々が、私たちを通して働かれる聖霊によって、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めて、イエスを主と告白する者、救いに与る者となることができるように祈りつつ、霊的に成熟したキリスト信仰者として歩みましょう。



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