私たちは月1回のペースで使徒の働きを読み進めていて、今日は22回目となります。パウロとシラスによる第2次伝道旅行の出来事に入っていて、パウロはギリシアのアテネでギリシア人たちにまことの神を伝える場面を今日見ます。
前回私たちは、ギリシアの北部、マケドニア州の州都テサロニケでの福音宣教、そしてベレアでの福音宣教を確認し、同じユダヤ人であるのに、方や福音に対して攻撃的になり、方や福音を受け入れるという対照的な対応があったことを見ました。これらの二つの町での福音宣教の記録は、ユダヤ人の会堂に集まる人たち、つまり旧約聖書をよく知っており、約束のメシヤ、キリストを待ち望んでいる人たちに対して語った様子です。テサロニケのユダヤ人たちは、パウロが伝える福音を信じる人たちが増えることに妬みを覚え、町のならず者たちを扇動してパウロたちを攻撃し、町から追い出したのです。
パウロたちはベレアに行き、同じように会堂で福音を伝えました。ベレアのユダヤ人たちは語られる神のことばを熱心に聞き、それが本当に旧約聖書で語られている神のことばかどうかを調べ、そうして多くのユダヤ人たちが主イエスを信じました。しかし13節。テサロニケのユダヤ人たちがベレアにまで追ってきて、攻撃したのです。14~15節。
16節。アテネでシラスとテモテを待っているときに、パウロはアテネの町が偶像でいっぱいなのを見ます。そしてまことの神を伝えなければならないと心に強く思い、ユダヤ人の会堂で、広場で、人々と論じました。そうして、アレオパゴスでの福音宣教の機会が与えられたのが今日の箇所です。
私たちの国日本も、あらゆるものに神がいると考えられていて、そこここに神が作られてきて数多くの神々がいる国となっています。また様々な神があり、多種多様で数多くの神という意味で八百万の神ということばもできました。そのような汎神論が根底にある国で唯一まことの神を知り、主イエス・キリストを信じることができた私たちが、この日本の人々に福音を伝えるときの一つの参考になるのが、今日のパウロによる福音宣教です。
パウロはギリシア人相手に唯一まことの神を伝えようと語り始めました。今日の箇所でパウロは、創造者である神、主権者である神、審判者である神を伝えようとしたのです。
22節。まずパウロはアテネの人たちの実状を指摘します。宗教心にあつい方々だと見ている言いました。町が偶像でいっぱいになっている様子からそのように指摘したのです。そしてそれらの祭壇の中の一つを取り上げることで、唯一まことの神について語り出すきっかけにしました。23節。「知られない神に」と刻まれた祭壇です。
24節。アテネの人たちが知らないで拝んでいる神は創造者であり、この世界とその中にあるすべてのものを造られた神であること。祭壇にまつられている神々は人の手のわざによるものであって、まことの神ではないと伝えました。創造者である神は人を造った神であり、人間が作り出した神々とは根本的に違います。造り主と造られたもののどちらが優れているかと考えたら、自ずと分かります。人間を造られた創造者である神は、人よりも優れています。人間が作り出した神々は、その人間よりも劣っているのです。創造者である神は人間が手で造った宮に安置されるような神ではありません。生きて働かれ、私たちを祝福される神です。確認しましょう。人間が考え出し、作り出した神々は、その作り手である人間よりも劣った存在です。まことの神を知らない人が、まことの神の代用品として作っている偶像です。何もできない、ただ鎮座しているだけの人間による産物です。
25節。まことの神、創造者である神は、人の助けを必要としません。人がお世話しなければ何もできない神々は偶像であって、まことの神ではありません。偶像は安置された場所から動くことができず、その口は語ることをせず、その耳は聞くこともできません。きれいに掃除してあげなければ埃まみれになっていくのです。信仰心を持つのは尊いことですが、的外れの信仰心は、私たちをまことの神から遠ざけるのです。
まことの神は祝福と恵みに満ちた神であり、すべてのものを私たち人間のために、私たちの幸せのために創造した、大盤振る舞いの神です。空気を造り、水を造り、私たちが生きていくために必要なものはすべて、神の創造のわざによって存在しています。
26節。創造者である神は人間を造り、一人の人からあらゆる民を造り出されました。つまりすべての人は同じ価値を持っており、存在そのものに価値があるのです。人間が自分に都合良く差別をもうけてはなりません。しかし人間は創造者である神を自分の神とすることを退けた結果、神の絶対的な基準を捨てて、人間の相対的な基準を設けて、自分たちが優れていることを主張するために、他の民族を差別し、見下しています。当時のギリシア人たちもそうでしたし、ユダヤ人たちもそうでした。罪がもたらす悲しい現実です。
27節。人が作り出した民族、国ですが、その背後に主権者である神がおられ、歴史を支配しておられます。民族を生み出し、国が興り、国が滅ぼされ、新たな国が興るというように、これまでの歴史が進んでいて、今があります。創造者であり、主権者である神は、人間に与えた自由意思による決断を忍耐をもって許可し、ある程度の裁量権を人間に与えて歴史が進むのを許容してこられました。それはまことの神、創造者である神を求めさせるためであり、人間が手探りで求めることがあれば、創造者である神を見出すこともあるからです。私たちは、被造世界を謙虚に見つめるなら、そこに創造者を見いだすことができるはずです。宇宙も地球も、その中のすべてを見るとき、偶然の産物とは言えない神秘さ、緻密に設計され、秩序が保たれていると認めざるを得ないはずです。
パウロはローマ人への手紙で、次のように書き送りました。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。私たちも謙虚になって、神の創造のわざを見て、創造者である神を認めることが大切です。神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられませんとあるように、身近におられる方なのです。
28節。パウロはギリシアの詩人たちのことばを引用します。詩人たちが使う「神」は、ギリシア世界で考えられている神々ですが、パウロは汎神論、あらゆるものに神が宿ると考えられている神ではなく、創造者である唯一、生けるまことの神に結びつけようとして引用しました。創造者である神は遠く離れてはおられない、身近におられる神です。
29節。私たち人間は、この創造者である神に似るものとして、神のかたちに造られたという意味での神の子孫であるから、神である方を人間の技術や考えで造ったものと同じであると考えるべきではないと、伝えたのです。人間を造られた神を、人間が考え出し、作り出した代用品の神々と同じにしてはなりません。それらの神々は神ではないからです。
30節。これまで神は、そのような無知の時代を見過ごしてこられました。まことの神を知ろうとしない、知らないために、代用品としての神々を作ってきたことを見過ごしておられたということです。しかし主イエス・キリストが現れた今、すべての人に悔い改めを命じておられるのです。創造者である神はご自分をいろいろな形で現しておられます。被造世界を通して、創造者である神を知らせていることを一般啓示と言い、直接神が語りかけてご自分を知らせることを特別啓示と言います。預言者などを通して、夢や幻によって神が知らせ、今私たちが手にしている聖書を通してご自分を知らせていること、それが特別啓示です。そして特別啓示の究極が、神が人となられた、主イエスの現れです。
ヨハネの福音書1章1節。ことばなる神がおられ、この方が万物を創造した神です。14節。この創造者であることばなる神が人となられました。主イエス・キリストは神そのものであることを、その生涯を通して示されたのです。18節。神を見た者はいません。霊の存在である神を見ることはできないのです。しかしことばなる神、ひとり子の神が神を説き明かすために、見えない神を見える形で示すために、肉体を取られ、この地上に生まれました。究極の特別啓示です。見えない神を知りたいのなら、主イエス・キリストを知ることが必要です。福音書を通し、聖書を通して、ひとりの子の神を知れば知るほど、見えない神を見ることができるのです。究極の特別啓示がなされた時代になっています。
使徒の働き17章30節。もはや神を知らないと言えない時代となりました。被造世界からでも、創造者である神を見出そうとすればできたのに、神ご自身が人となられご自分を現された今、主イエス・キリストを知ろうとしない態度を問う時代となりました。悔い改めるとは、主イエス・キリストを通して神を知るようにとの招きです。
31節。審判者である神は裁きの日を定めておられます。人となられた神、主イエス・キリストは十字架で、私たち全人類の罪に対する処罰を代わりに受け、赦しを備えて招いておられます。十字架で死に、三日目に死者の中から復活されたのです。復活によって主イエス・キリストは神そのものであることを証明し、罪の赦しは実現したことを公に示されました。神の側での罪の赦しと罪からの救いは完成しています。それを受け取るか拒むかは私たちが決めるのです。創造者である神を自分の神と認めて生きるのか、神と認めずに生きるのか、悔い改めるのか、悔い改めないのかの選択を私たちに委ねたのです。
32節。多くのギリシア人は、パウロを通して語られた創造者である神、主権者である神、審判者である神を知ろうとはしませんでした。これが罪そのものです。ギリシア人は霊魂は不滅であると考えていたので、自分たちの考えに固執することで、死者の復活をあざ笑い、これ以上パウロから聞くことを拒否しました。知ることを止めたのです。
34節。しかし生けるまことの神を信じる者もわずかにいました。私たちの周りも同じです。主イエス・キリストを神として受け入れる者もいますが、多くの人たちは受け入れることをしません。まことの神を知ろうとしないのです。しかし私たち、先に主イエス・キリストを信じた者は、このお方を伝えることが大事です。聞いてもらえないことを恐れるのではなく、受け入れられてもらえないことに気を落とすのでもなく、創造者である神を、そして人となられ、十字架で罪の赦しを備えてくださった救い主、主イエス・キリストを伝えることが私たちに委ねられています。信じるか、拒むかは、私たちの責任ではありません。その人と、神の責任です。私たちには伝える福音が委ねられていますが、救いは神の主権にあるからです。恐れずに伝えることが大事です。
私たちが福音を伝えるために、アテネでのパウロの福音宣教は参考になります。偶像に満ち、汎神論が根底にある日本で、創造者である唯一まことの神を、主イエス・キリストを伝える、そして罪の赦しと罪からの救いを伝えるための、一つの参考になります。伝える人がいて、私たちも生けるまことの神を知ることができ、神の恵みとあわれみの中、主イエス・キリストを自分の救い主、自分の神、自分の主として受け入れることができました。同じように私たちにしか伝えることができない人がいます。その人が受け入れるか、拒むかはその人の問題であり、私たちには責任はないのです。祈りつつ、伝えましょう。
私たちも偶像の神について再確認しましょう。詩篇115篇
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