私たちが自分の生涯を振り返って、これまでの主から受けた恵みを、整理してまとめるのは良いことです。これまでの主から受けた恵みを確認し、感謝を新たにして、さらに主とともに歩む決意を新たにするために有効だからです。自分の生涯の折々に、主の恵みを確認し、主とともに歩む決意を新たに繰り返すことは、さらに祝福となります。
私たちはダビデの生涯を見てきましたが、今日が最後となります。次回からはソロモンの生涯とその信仰の歩みを見て、私たちの信仰の歩み、その姿勢を吟味します。
ダビデは数々の歌を主に献げています。その時その時に、主の恵みを確認し、主なる神を誉めたたえているのです。今日の箇所は、サムエル記の著者がダビデの歌を引用したものです。この歌を通して私たちは、主は生きておられること、生きて働かれる主は、私の救いの岩なる神であることを確認します。
1節。この歌の表題です。ダビデがこの歌を作り、それを歌ったのは、主がすべての敵の手からダビデを救い出された日、特に、サウルの手から救い出された日であると記します。主なる神は救いの神であることをダビデは確認し、その救いの中に置かれている自分がいかに幸いであるかを高らかに賛美し、感謝しているのです。
2~4節。ダビデの賛美の初めです。ダビデの生涯は順風満帆ではなく、苦難と苦悩の連続でした。しかしこのダビデの賛歌を見るとき、私たちは安心、安全な日々の中では決して味わうことのできない、主の守りと主の支え、そして主の助けを、苦難と苦悩の直中で味わうことができると分かるのです。ダビデは様々な敵との戦いの直中にあって、主の守りと主の支え、そして適切な助けを味わい続けたのです。戦争という極限状態の中で、死の恐怖にいつもさらされ、また主君サウルに誠実に、忠実に仕えていたのに、その主君からいのちを狙われる苦悩を味わいつつ、逃亡生活を余儀なくされたのです。
しかしダビデは、苦難や苦悩に会わせた神をのろい、不平不満をぶつけることはせず、いつも共におられ、守ってくださる主を賛美するのです。自分が置かれている状況の背後に主のご主権があり、主のご計画が進められていると確信するからです。
2~4節を、ダビデと主なる神ではなく、自分と主なる神に当てはめて確認することは幸いです。ダビデにとってのこの方は、私たちにとっても同じお方です。私たちもこのお方、主に呼び求めることができ、そして敵から救われます。
5~6節。ダビデが被った苦難です。死を覚悟するほどの苦難であり、恐怖でした。なぜこれ程までの苦難がダビデを襲うことを主は許可されたのでしょう。考えられる理由として、主なる神のご計画において、ダビデに委ねられた使命の大きさがあると言えます。来るべきメシヤはダビデの子と呼ばれます。そのようなダビデだからこそ、この世の神と呼ばれるサタンは、神のご計画を阻止しようと様々な攻撃を仕掛けたと言えるし、主なる神はあえてそのような攻撃を許可されたと言うことができるのです。そして主なる神はダビデが耐えられる範囲でのサタンの攻撃を試練として許可し、ダビデが主に助けを求め、主は、そのすべての攻撃からダビデを守り、助け出されたのです。7節。
ダビデはその生涯を通して、主に助けを求めることを学び、そして主が豊かな恵みで応えてくださる体験を積み重ねていったのです。10節。主は天にとどまっておられるのではありません。傍観しておられるのでもありません。私たちの所にまで降りて来られ、私たちと共に歩まれ、様々な困難や危険から守り支えてくださるのです。
私たちは、主は降りて来られたという最も素晴らしい出来事を、主イエスの誕生に見ます。神であるお方が、神のあり方を捨てて肉体を取り、私たちと同じ人となってこの世に生まれました。私たちを罪から救うために、罪の呪いを受け十字架で処罰されるために、私たちの所に降りて来られたのです。私たちはこれほどの恵みを味わっているのです。
主はダビデが危険に遭うことを許可されました。しかしダビデを放っておいて、自分の力で頑張れと傍観しておられるのではなく、ダビデと共におられ、ダビデを支え、あらゆる危険から救い出されたのです。17~20節でダビデは、主がどのように自分を助けてくださったかを証しします。危険の中で、主は私の支えとなられたと言い切るのです。19節。
21~25節でダビデは、主の御前に善と思えることを求め続け、そのような自分を主は受け入れてくださり、豊かに報いてくださったと歌います。24節。この意識は大切です。ダビデは自分が義を行い続けたことを自慢しているのではありません。ダビデが数々の失敗を犯し、罪に陥ったことも事実です。しかしすぐに悔い改めて、主の御前での完全さを求め、罪に陥らない歩みを求めた結果、主の御前での義を行うことができたのです。この事実を感謝し、主はそのような自分に豊かに報いてくださったと告白するのです。
主なる神は私たちに対しても同じ対応をなさいます。26~28節。私たちの主への態度に合わせて、主も私たちに対応されるのです。主は高慢な者を退けます。私たちは主の御前で謙遜でありましょう。主の恵みに憩う者であり、主の完全に近づく者であり、主の聖さを追い求める者となりましょう。そのような私たちに対して、主はさらに恵み深く、ご自分の真実さを全うされ、私たちをご自分の聖さに近づけてくださるのです。
27節にある曲がった者とは、主に対して素直でない者を指しています。主の恵みを感謝しない、主に聞き従うことを喜ばない、主の戒めに耳を傾けようとしない、そのような心のねじ曲がった者に対して、主なる神もまたねじ曲げる対応をなさるのです。これは恐ろしいです。主なる神からねじ曲げた扱いを受けるのです。42節。救いを求め叫んでも、もはや主は答えないと宣告されます。しかし私たちが主の恵みを喜び、感謝して受け取るなら、主に対して素直であるなら、主はさらに溢れる恵みで満たしてくださるのです。
31節。主が語られた通りに事は進みます。みことばの通りが実行されます。主は、主に身を避ける者の盾となられ、すべての敵から守ってくださるのです。今ダビデは、主の恵みの中で、全イスラエルの王とされています。主の恵みに自分の身を委ねる者に対して、主の計画は完全に行われます。その途上においては困難があり、危険が待ち受け、死を覚悟するような危険に見舞われたとしても、主に信頼する者に対して、主のみわざは約束の通り実現します。このお方が私たちの岩となり、しっかりと支えてくださるのです。
ダビデはそれまでの歩みを振り返って、声高らかに告白します。36~37節。神が謙遜であるとの認識をダビデは持っていました。そして神が謙遜であられたので、自分は大きくされたと告白するのです。どこまでも忍耐強く、主なる神は恵みをもって導いてくださるとの意味での謙遜です。主なる神は私たちをご自分のもとへと招いてくださる。その謙遜 す。罪に汚れ、神に敵対していた私たちを、その罪に応じて罰するのではなく、罪の赦しを備えて罪に気づかせ、私たちが自分の罪を認め、赦しを求め、罪を悔い改めて、罪から離れるように招いてくださる、その謙遜です。これほどの謙遜があるでしょうか。
主なる神が謙遜であるゆえに、私たちは大胆に主の御前に出ます。その謙遜のゆえに私たちは主の恵みを知り、その恵みの中を歩めるということです。神が謙遜であられることを心から感謝し、また恐れましょう。その謙遜を踏みにじる者に対して、主の恵みが及ぶことはありません。その人が主の恵みを拒むので、主もまた彼を拒みます。
神が謙遜であることを、私たちはダビデ以上に身近なこととして味わい知っています。主イエスによってその謙遜を知らされています。神であられる方が、神のあり方を捨てて人となりました。仕える者の姿を取り、限りない愛を携えて、十字架の死に至るまで、私たちを愛してくださったのです。私たちに罪の赦しを備えるために、自分を罪そのものとするまでに低められた主イエスの謙遜を、私たちは知っているのです。そのような神だからこそ、私たちは大胆に主なる神に近づくことができます。様々な間違いを犯す私たちでも、罪の赦しが備えられているので、自分の罪を正直に認め、悔い改めて、罪の赦しと罪からの救いを受け取ることができるのです。神の謙遜が私たちを大胆にします。
47節。主は生きておられ、主の恵みの中を歩む者の側に立ってくださいます。38節以降でダビデは、主なる神が自分の側に立ち、すべての敵から守り、勝利を与えてくださったと高らかに歌います。私たちが神と崇めるお方は全能の神です。そのご計画を、ことごと実行される主権者の神です。このお方が私たちの側についてくださることを、私たちも自覚しましょう。私たちの救いの岩となり、すべての困難や危険から私たちを救い出し、溢れるばかりの恵みを携えて導いてくださるお方なのです。
もう一度確認します。主は生きておられます。謙遜の限りを尽くして、私たちを招き続けています。このお方に対してねじ曲がった者となってはなりません。素直な心で主の恵みを喜び、感謝してその恵みの中を歩みましょう。わが岩とほめたたえ、わが救いの岩なる神と崇めて、信仰の歩みを続けようではありませんか。
50節。私たちもダビデと共に主をほめましょう。主なる神に告白するのです。国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌いますと。そしてさらに主の、溢れるばかりの恵みに満たされたいのです。主は生きておられます。生きて私たちの側に立ってくださいます。このお方を敵に回すことがあってはなりません。47節。
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