十字架での死を前にしての、主イエスの弟子たちへの決別のことばを見ています。十字架で処刑される直前であるのに、主イエスには悲壮感が微塵も感じられません。そして弟子たちに希望を持たせようとして語りかけます。弟子たちは、これから起こる出来事を前にして、一時的には嘆き悲しみます。しかしその悲しみは喜びに変わると予告し、さらに喜びが満ちあふれるようになると約束されたのです。
16節。主イエスはこの後起こることについて、弟子たちに覚悟させます。主イエスがまもなく捕らえられ、十字架で処刑されることを指して、もうわたしを見なくなりますと告げるのです。しかし葬られた後、三日目によみがえり、復活された主イエスに会うことになるのです。だからまたしばらくすると、わたしを見ると予告されました。このことは14章19節ですでに語られていました。18~19節。
さて、今日の箇所を見ていきましょう。16章17~18節。弟子たちは、主イエスが語られたことばの意味が理解できず、互いに言い合います。何を話しておられるのか分からないと。自分中心、人間中心に考えている弟子たちには想像もつかないことでした。
19節。弟子たちの様子をご覧になって主イエスは、再度同じことばで語りかけ、これから起こる出来事によって、弟子たちがどのように感じるのか、世の人々はどう思うのかを確認させるのです。20節。弟子たちは嘆き悲しみます。世の人々は喜ぶのです。どちらも神の救いの計画に自分を合わせないからです。世の人々は自分たちが欲する通りに事が進むと期待でき喜びます。彼らが求める救いは、ローマ帝国の支配からの解放であり、イスラエル国家の再興です。そのためのメシヤ、キリストを待ち望んでいました。
この点では弟子たちも同じです。ユダヤ教指導者たちは、人々がイエスに付いて行ってしまっては、ローマ帝国によって完全に滅ぼされてしまうと恐れます。イエスを、待ち望んでいる約束されたメシヤ、キリストとは考えていないので、イエスを中心に集まる者たちはローマへの反逆者たちと見なされ、その鎮圧は自分たちにも及ぶと考えるのです。と同時に、いやそれ以上に、人々がイエスに付いていくことは、自分たちが築いてきた宗教社会が根底から崩され、自分たちが積み上げてきた利権が脅かされることも恐れていました。彼らは、イエスを抹殺することを企み、それが実現することで喜ぶのです。
弟子たちの悲しみも根は同じです。イエスをメシヤ、キリストであると考え、付いてきたのは、やはり地上でのイスラエル国家の樹立であり、うまくいけば君主となるイエスの次の位に就けてもらえるという打算もあったでしょう。主と仰ぐイエスが十字架で処刑されることに、弟子たちが嘆き悲しむのも、自分中心から来ているのです。
しかし主イエスは明確に宣言します。あなたがたの悲しみは喜びに変わりますと。人間中心、自分中心ではなく、神を中心に物事を考えていくとき、同じ出来事を見ていても、そこに現されている真の意味を理解するか、理解しないかに分かれます。十字架の死は、弟子たちに嘆き悲しみをもたらします。しかし復活の主にお会いすることで、十字架の死の真の意味を理解するようになり、十字架こそ、罪の赦しと罪からの救いをもたらす唯一の道であると理解し、受け入れることで、十字架は喜びに変えられるのです。
22節。弟子たちの悲しみを思い、主イエスは再会の約束をします。わたしは再びあなたがたに会いますと。その時、弟子たちの心は喜びに満たされ、その喜びが奪い去られることはないのです。喜びとするその根拠を理解して、喜ぶからです。喜びも自分中心、人間中心であるなら、置かれた状況によって変わりますし、奪い去られてしまいます。神を中心にして喜びを確認するなら、何を喜びとするのかを理解しているので、置かれた状況で喜べなくなることはありません。私たちは、喜びとする者に変えられているので、どのような状況に置かれたとしても、いつも喜びとすることができるのです。
23節。その日とは、復活された主イエスにお会いする日です。イエスの復活を事実と認めるとき、復活の主を自分の主とし、主イエスが生けるまことの神であるとします。そうして主イエスが語られたことばは神のことばであると受け止めることになります。だから何も尋ねる必要はなくなります。神のことばとして受け入れるからです。
まことに、まことに、あなたがたに言いますと、主イエスは語られました。大切な真理を伝えるときに、注意を引くときの語りかけです。わたしの名によって父に求めるものは何でもと言われるのです。何でもです。何でも、父なる神はあなたがたに、求める者たちに与えてくださると約束されたのです。
ここで大事なことは、わたしの名によって、です。私たちが祈るとき、最後に主イエスの名によって祈りますと口にするのは、主イエスの、この指示に従っているからです。名は体を表します。イエスの名によってとは、ただ単に音声にすることではありません。主イエスの権威に自分を従わせるという意味です。主イエスの権威に従う意思を表明して父なる神に求めるのです。そうすると、父なる神は何でも与えてくださるのです。
15章7節。主イエスの名によってが、別の表現で語られています。私たちは主イエスにとどまる。しっかりと主イエスに結びついている。ぶどうの枝がぶどうの木に繋がっている限りにおいて、ぶどうの養分を豊かに受けて、枝は実を結ぶことができます。主イエスはぶどうの木です。私たちはぶどうの枝です。枝である私たちは、ぶどうの木である主イエスにとどまっていて、主イエスのことばが私たちにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めて良いと促されています。祈りの条件が満たされているなら、祈り求めるものは何でもかなえられるのです。
16章24節。繰り返し、主イエスは明確に、誰の名で求めるかを語られました。これまでもユダヤ人たちは主なる神に祈り求めていました。しかしイエスの名によって求めたことはありませんし、そのように促されたこともなかったのです。弟子たちにとっても、全く新しい促しであり、招きです。いよいよ、新たな時代が始まります。主イエスの十字架の死によって、神との新しい契約への招きがなされます。そして新しい契約に入れられた者は、主イエスの名によって父なる神に求めることができる、全く新しい時代となったのです。主イエスは、十字架での死を前にして、わたしの名によって、と繰り返し促しています。14章13節、14節、15章16節。私たちキリスト信仰者は新約に生きる信仰者です。
16章24節。求めなさいと主イエスは招きます。主イエスを信じているなら、主イエスの名によって何でも求めて良いのです。そして主イエスの名によって求めたものは、何でも父なる神は与えてくださいます。その結果は、祈り求めた私たちの喜びが満ちあふれるようになるためと約束されています。
祈り求めたものが、与えられないときがあります。主イエスの名によって求めているのにそうならないのは、父なる神が約束を守らないお方だからではなく、求める私たちが祈りの条件を満たしていないからです。何でもの条件は15章7節です。この条件を満たしていなければ与えられません。主イエスの名によってと音声で口に出しても、イエスを自分の主としていないままでの求めだからです。
ヤコブの手紙4章3節。自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で求めても、それはかなえられません。父なる神は私たちに良いものを与えようとしていますから、悪い結果を及ぼすことになる求めをかなえないのは当然です。私たちを愛しているからです。
私たちは主イエスの名によって求めましょう。主イエスの前で、自分の心を吟味するのです。その求めは、主イエスに喜ばれるか、悲しまれるか、受け入れられるか、拒まれるか、良しとされるか、良しとされないかと考えることで、私たちは闇雲に、自分の要望を父なる神に押しつけることはしなくなります。そうして求めるものは何でもかなえられるという信仰生活へと整えられていきます。それは15章7~8節にあるように、父なる神がほめたたえられるためです。父なる神に栄光が帰せられることに用いられるのです。
主イエスが、父なる神が、喜ばれることを、私たちも喜びとする。私たちの喜びが神中心とされているなら、私たちが求め、そして受けることで、私たちの喜びが満ちあふれるようになるのです。
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