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2023年4月23日 礼拝「聞く耳を持つ幸い」マタイ13:1~23

 主イエスは私たち、神のことばを聞く者たちに、豊かな実を結ばせようと招いておられます。実を結ぶことができるか、実を結べないかは、神のことばの聞き方によるのだと。


 今日の聖書箇所は、主イエスによる、種まきのたとえです。この例え話から、神のことばを聞いて実を結ばせる幸いな聞き方について確認しましょう。


 9節。主イエスは、耳のある者は聞きなさいと招きます。これは聞く耳を持つことの招きです。聞く耳を持つなら、神のことばは私たちに、豊かな実りをもたらします。しかし聞く耳を持たないなら、聞いた神のことばをも失うのです。この話は、4種類の土地のたとえですが、実を結ぶのか、結ばないかの、2者択一のたとえでもあります。


 2節。大勢の群衆が集まってきました。それで主イエスはたとえをもって話をされたのです。主イエスがなぜたとえで話すのかは13節以降です。多くの群衆は主イエスを見ているのに、主イエスを神の御子として、自分の主と崇める思いで見ることはせず、また主イエスから聞いているのに、語られることばを神のことばとして聞こうとしないので、悟ることもないと言われます。そのような群衆に、神の国の奥義をそのまま語っても、その態度のままでは神の国の奥義を悟ることも理解することもないのです。


 だから種蒔きのたとえを始め、神の国について、いろいろなたとえを用いることで、群衆の中のある者はその意味するところを考えようとする、それを期待していることが分かります。聞く耳を持つとは、神のことばを神のことばとして聞き、受け取ることであり、神のことばにあるいのちがその人を生かし、豊かな実を結ばせるのです。


 種蒔きのたとえそのものは簡単明瞭です。道ばたに落ちた種は鳥に食べられ、土の薄い岩地に落ちた種は芽を出しても、根が張れないので、太陽の熱に焼かれて枯れます。茨の中に落ちた種は、茨の成長に負けるので、実を結ばせません。良く耕された良い地に落ちた種は、豊かな実を結ぶのです。当たり前の話です。


 18節。種蒔く人が蒔いた種は神のことばがたとえられていて、4種類の土地は神のことばの聞き方がたとえられています。実を結ぶのか、実を結ばせないかの二つです。その違いが語られていますので、聞き流すことはできません。


 14~15節。私たちも注意する必要があります。彼らとは、神の民として選ばれたイスラエル、ユダヤ人たちです。自分たちは神の国に属していると自負していました。しかし実際には、神の民として選ばれたにもかかわらず、見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないのです。ずいぶん厳しい宣言です。冷たいことばだと感じるかもしれませんが、これが彼らの実態でした。では、私たちはどのように聞いているのでしょうか。彼らと同じ聞き方をしていないでしょうか。自己吟味が必要です。


 私たちは何を求めて、主イエスのもとに、父なる神のもとに来ているのでしょうか。肉体的な問題の解決、疲れた心の癒し、精神的な慰めや憩いを味わうためでしょうか。それらの様々な必要が満たされることは重要です。そして主イエスは、そのような必要をも、私たちの益のために満たしてくださいます。


 主イエスは、羊飼いのいない羊のようにさまよっている群衆を見て可哀想に思い、病を癒し、悪霊から解放し、人々の必要を満たす多くのみわざを行われました。しかしそれらは、ご自分が神の子であり、人となられた神であることを示す、しるしとして行われた奇跡の数々です。そして神である主イエスは、彼らを罪から救い出す救い主として来られたことを明らかにされたのです。そして主イエスは、罪人である全人類に罪の赦しを与えるために十字架で死なれました。私たちの罪をすべてその身に負って、十字架で処刑されることで、私たちの処罰の身代わりとなられたのです。


 私たちが主イエスを信じることは、主なる神の一方的な恵みによるのですが、主イエスを救い主として信じ、自分の主と崇めることは本当にすばらしいことです。救われた私たちが、自分の救いとその信仰生活を吟味することは大切です。今日の例え話によって、私たちはどのような姿勢でみことばに向き合うことが必要かを考えたいのです。


 多くの種が蒔かれました。そして良い地に落ちた種は実を結びましたが、道端や土の薄い岩地や茨の間に落ちた種は実を結ばせることはありませんでした。厳粛な違いです。


 種を蒔く人は御国のことば、神のことばを蒔くのであり、4種類の土地は、神のことばを聞く私たちの聞き方がたとえられています。語られたみことばを神のことばとして受け入れるかどうか、聞く耳があるかどうかの違いが例えられているのです。語っておられるのは神ご自身であるとの自覚を持つこと、良い意味で緊張して聞くことが大事なのです。


 神のことばが語られました。神のことばを聞くという時点では皆同じです。この時点での違いは全くありません。聖書はベストセラーだと言われます。日本でも多くの人々に聖書が買われています。買ったけれど読まなかったという人もいるでしょう。聖書を少しでも読んだことがある人も多くいます。神のことばは語られています。しかし聞く耳を持たないために、つまり神のことばとして受け入れることをしないために、神のことばがその人を生かすいのちとはなっていないという現実があるのです。


 19節。道端の聞き方というのは、最初から受け入れる思いがない、あるいは聞き流すということでしょう。人々が踏み固めた道端のような固い心のままで聞いたとしても、神のことばはその人の心に届きません。すぐに忘れ去られてしまうのです。


 20節。岩地のような聞き方とは、自分にとって好ましく思える限りにおいて受け入れる聞き方です。自分が中心であり、自分が良し悪しを判断するのです。自分の心を動かすようなことばが語られ、これは素晴らしいと思い、喜んでも、神ご自身にしっかり根ざさないので、信仰の試練にぶつかると身を引くのです。自分に都合の良い部分だけは受け入れるけれど、それが得られなければ、神を信じることを止めるのです。


 22節。茨の中のような聞き方は、語り手である神を意識してはいます。神のことばとして聞いてはいるし、そのことばに従いたいという思いはあるのです。しかし、語り手である神を、完全に自分の主であるとして信頼できていません。だから、どちらを優先するかという選択を迫られると、神よりも、自分の思い、自分の都合を優先させるのです。神のことばを聞いて生きることではなく、この世の思い煩いの解決や富の誘惑を優先して行動するのです。私たちが陥りやすいのは、このような状態かもしれません。


 私たちの霊的な成長を妨げる、様々な雑草があります。この世の思い煩いの多くは人間関係でしょう。他者への配慮は大切ですが、必要以上に配慮すると、主なる神を軽んじる結果となります。富は大事ですが、富に依存する人は、富の誘惑に引き込まれます。富を得るために時間も労力も必要以上に費やすことで、神との交わりが疎かになります。


 様々な欲求は私たちの生活に必要不可欠です。神は私たちに欲を良いものとして与えておられます。しかし満足しない欲求という茨が霊的成長を塞ぎ、実を結ぶことを得させないのです。大事ではない雑草が生えてきたときは抜くのが簡単ですが、大事だと思えるものは雑草とは考えないでしょう。しかしその雑草が茨となり、神のことばを生きることを邪魔し、実を結ばせません。主なる神よりも大事なものは、すべて茨です。


 23節。みことばを聞いて、それを悟る人は実を結びます。明瞭です。悟るので、神のそのことばを生きようとします。神のことばに自分を合わせ、それを行おうと一歩、信仰の歩みを踏み出します。種にいのちがあるように、神のことばにはいのちがあり、みことばは生きていて力があるので、私たちを生かし、豊かに実を結ばせるのです。


 御国とは神の国です。主なる神が支配する領域が神の国です。私たちが神の国を生きるとは、神の支配に自分を委ねて生きることです。主なる神が、私の全領域で支配し、ご自分のみわざを行うときに、私たちに蒔かれた種は実を結び、100倍、60倍、30倍の実を結ばせるのです。私たちが実を結ぶのではありません。私たちに蒔かれたみことばが、私たちをして実を結ばせるのです。だから聞き方が重要です。実を結ばせるみことばの聞き方をするのか、実を結ばせることのない聞き方になるのか、結果は大きな違いです。


 私たちは主イエスを信じて、救いに与り、神の御国の住民とされます。これは神が備えられた救いを、神のことばで確認し、それに同意して、信じる結果です。神が一方的な恵みによって、神の子主イエスを十字架で死なせ、それは私たち全人類の罪の処罰の身代わりであると宣言されました。その宣言を、その通りですと受け入れることによって、救いに与ります。神のことばを神のことばとして信じ、受け入れる最初の一歩が、主イエスの十字架と復活による罪の赦しと罪からの救いの知らせを信じることです。神を信じることは、神のことばを信じることであり、これが救いなのです。


 主イエスを信じて救いに与った私たちが、救われた者として、多くの実を結ぶ信仰生活に進むのか、実を結ぶことのない信仰生活に止まるのかは、神のことばを神のことばとして聞き、信仰によってそのことばを生きる一歩を踏み出すか、聞きはするけれど、聞いたみことばを生きる一歩を踏み出さないままで止まるかの違いによります。


 みことばを聞き流したり、試練に会うとみことばを捨てたり、この世の思い煩いや富の誘惑を優先することで、みことばを塞ぐことにならないために、神のことばだからとそのことばに自分を合わせて一歩を踏み出す信仰姿勢を身につけましょう。


 救いは神のことばを神のことばとして信じることから始まります。そして救いを生きることも、神のことばを神のことばとして信じて一歩を踏み出し続けることで確かなものとなるのです。私たちは神のことばを聞くという幸いな歩みを踏み出しているのですから、実を結ばない信仰者ではなく、実を結ぶ信仰者として整えられましょう。みことばは生きていて力があります。みことばが、みことばに合わせて一歩を踏み出す私たちを神のいのちに生かして、それぞれにふさわしい実、神が結ばせようとする実を結ばせるのです。



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