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2023年4月16日 礼拝「目が開かれる幸い」ルカの福音書24章13〜35節

 先週私たちは、主イエスの復活が否定できない事実であることを確認しました。ナザレのイエスが十字架で処刑され、葬られたことは歴史的な事実です。そしてイエスが葬られた墓は三日目に空になりました。それ以来イエスのからだはどこにもなく、誰も見つけ出せずに今日を迎えています。


 もし主イエスの復活が、弟子たちによる嘘偽りの作り話であるとするなら、彼らが命を奪われても、主イエスの復活を事実として証言し続けたことを合理的に説明することは困難です。人は、自分たちが作った作り話のために命を捨てることなどしません。ごく一部の人はそのようなことをしても、多くの者は嘘のために命を捨てることはしません。


 キリスト信仰者たちの殉教の歴史を見るとき、またユダヤ当局も、ローマ当局も、イエスのからだを捜し出せず、ただキリスト信仰者たちを迫害したことも、主イエスの復活が事実であることの大きな証言となるのです。私たちは、主イエスの復活を事実であるとすることが合理的であるから、事実として受け入れるのです。救い主の十字架と復活による罪の赦しと罪からの救いは、神が備えた救いの方法であり、それは旧約聖書で預言され、主イエスも繰り返し予告してきたことであり、その神のことばをそのまま受け入れることが、キリスト信仰の基本姿勢だということです。


 主イエスの復活の日の早朝、イエスが葬られた墓に出向いた女性たちは、空になった墓を見ます。そして御使いが伝えた主イエスの復活については、主イエスが生前に語っておられた予告の通りであったと受け入れ、そのままを弟子たちに伝えました。しかし弟子たちには、その話が戯言のように思え、女性たちの証言を信じなかったのです。御使いのことも、御使いを通して思い出した主イエスの予告についても、弟子たちは端から否定したのです。これが不信仰であり、不信仰のゆえに目が塞がれているということです。


 今日私たちは、主イエスの復活の日の、夕方前後の出来事を見ます。この箇所には12弟子とは別の、二人の弟子と主イエスの会話が記されています。13節。二人はこの日の早朝の出来事を聞いており、それについて話し合いながら、エマオという村に向かっていました。エマオはエルサレムから11kmほど離れています。脚註で説明があります。早足で歩き続けると2時間ほどで行ける距離です。マラソンランナーなら30分ほど、私たちも走り続けることができれば1時間くらいで行けるしょうか。


 15節。彼らは話し合い、論じ合っていました。どのような話で、何を論じ合っていたのか、その具体的な内容は分かりませんが、ただイエスの墓が空になっているという事実を前に、どうしてイエスの遺体がなくなったのだろうと、その可能性について話し合い、論じ合っていたのではないかと想像します。その時イエスご自身が近づいてこられました。16節。しかし二人の目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかったとあります。


 なぜ彼らは復活されたイエスだと気がつかなかったのでしょうか。さえぎられていてとありますが、これは神のことばに同意しない者の状態です。二人は話し合い、論じ合っていました。しかしそれは神のことばに同意して、神のことばを基にしての話し合い、論じ合いではなくて、自分たちがどう思うかという、自分たちが納得できる結論を得ようとしての話し合いであり、論じ合いとなっていたということです。だから墓が空になったのはどうしてかという、自分たちの仮説や考えを語り合うことはできても、主イエスの予告や旧約聖書の預言に基づいての復活の確認にはたどり着けませんでした。


 彼らにとって、ナザレ人イエスはもはや存在しないお方ですから、目の前に現れても、その方をイエスに似ているなあとは感じたとしても、イエスそのものとは認識できないのです。これが不信仰の悲しさです。


 そのような不信仰な弟子たち、主イエスの復活の予告を受け入れない弟子たちを、主イエスは非難したり、見限ることはなさいません。不信仰な弟子たちに寄り添い、彼らの信仰に再び火をつけ、燃え上がらせようと関わってくださるのです。私たちも不信仰に陥ることがあります。神のことばを聞きながら、神の絶対的なことばとして受け入れず、自分の思いや考えで判断し、退けてしますこともあります。そのような私たちをも主なる神は見捨てず、見限らずに関わってくださることは本当に感謝です。しかし私たちは、不信仰によって目がさえぎられるのではなく、信仰によって、神のことばに同意して、目が開かれる信仰者でありたいのです。そのような信仰者を目指しましょう。


 この二人の弟子が、イエスについてどう考えていたかが19節からです。イエスは神ではなく力ある預言者でした。力ある預言者ではあっても人間ですから、殺されたら終わりです。21節。彼らはナザレのイエスに大きな望みをかけていました。イスラエルを解放する方だという望みです。政治的にローマの支配から解放し、イスラエル国家を建て上げてくださるという望みです。彼らは神の預言や主イエスの予告の通りに実現することを期待するのでなく、彼らの勝手な望み、自分に都合の良い期待を主イエスに押しつけていたのです。だから20節。主イエスが十字架で処刑されたことで、自分たちの望みは絶たれたと考えたわけです。期待が大きかった分、失望も大きくなりました。


 ここに弟子たちが、主イエスの復活はあり得ないと結論づける根拠があります。十字架の死と三日目の復活を予告されたお方を主キリストと崇めていたのなら、そして十字架の死と三日目の復活は、旧約聖書に預言されていた救い主の使命であると、神のことばに基づいて受け入れていたなら、主イエスの復活を事実とできたはずです。しかし弟子たちはイエスを力ある預言者と考えていたので、復活などあり得ないと結論づけたのです。


 不信仰とは神のことばに同意しないことです。22~24節で、彼らは女性たちから、主イエスの予告の通りのことが起こったと聞かされました。しかし受け入れませんでした。これが不信仰です。主なる神が何を、どう語っておられるのかと、そのことばに同意して、そのことばに基づいて考えるなら、自分が置かれている状況や、そこで起こっている出来事は、神のみわざであるという視点で捉えることができます。これがキリスト信仰です。


 死者の復活はとても信じ難いことですから、信じられないのは当然です。しかしそれは神の約束であったと確認する時、神の約束の成就として受け入れることができるのです。メシヤは苦しめられ、殺されることが旧約聖書で預言されていました。有名なのはイザヤ書53章です。詩篇22篇もそうです。主イエスは十字架上で詩篇22篇1節を引用されました。またメシヤの復活も預言されています。詩篇16篇にあります。


 25節。主イエスの嘆きのことばです。愚かな者たちと、主イエスは悲しい思いで語りかけました。愚か者は心の中で「神はいない」と言っているとは詩篇のことばです。主イエスは同じ意味で、弟子たちの愚かさを嘆きました。預言者たちの言ったことすべてを信じられない、心の鈍い人たちだと。人間社会の中で、知者で、優れた学者だと、人々から賞賛される人物であったとしても、創造者である神の存在を否定し、神のことばを神のことばだからと同意して受け止めない者は、愚かな者たち、心が鈍い者たちなのです。


 26~27節。主イエスは弟子たちを、主観的にではなく、客観的に悟らせるために、神のことばに帰らせます。旧約聖書に記されているメシヤ預言、つまりご自分について預言されている神のことばを引用しながら、メシヤの誕生と生涯、メシヤが受けるべき十字架の苦難と復活を説明し、復活は神のことばの成就であると説き明かされたのです。


 28節。エマオに到着したとき、彼らはもっとこの方から聖書の説き明かしを聞きたいと思い、どうしても泊まって欲しいと無理に願いました。その願いは聞かれました。求める者は受けるのです。私たちも熱心に求める者となりましょう。


 30節。彼らはイエスに、主人の席についてもらい、食事の主導権を渡しました。主イエスがパンを取り、祝福し、裂いて彼らに渡した時、彼らの目は開かれました。神のことばを基盤に考え、主イエスからパンを受け取ることで、主イエスであると分かったのです。


 詩篇の作者は、私の目を開いてくださいと祈りました。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてくださいと祈るのです。私たちも同じ祈りをするべきです。神のことばのうちにある奇しいことに目を留める者となるなら、神のことばに同意していくなら、彼らの目が開かれたように、私たちも、霊の目が開かれていきます。


 自分が納得できるかできないかで云々するのは後回しにして、まずは神のことばそのものに向き合うことが大事です。そして神のことばに同意して、信仰生活を進めるのです。


 32節。神のことばが説明され、神のことばの通りに事が進められたことを確認できたのは何にも変えられない感動であり、喜びでした。彼らは、心は内で燃えていたという体験をしたのです。私たちも同じです。私たちも日々聖書を開き、神のことばとして受け入れる時、神のみこころがなされていることを確認します。私たちの内に住んでおられる聖霊が、私たちをして聖書にある奇しいことに目を留める者としてくださるのです。


 ヨハネの福音書11章25節。主イエスは宣言なさいます。わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。すごい宣言です。これは死んで四日にもなるラザロをよみがえらせる時の宣言です。主イエスはいのちそのものであり、死んだ者をもよみがえらせる権威を持つ主権者、神ご自身です。そうして、ご自分も、死者の中から復活されました。だから私たちをも復活させると約束されたのです。


 26節。生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。父なる神は主イエスを信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。今私たち主イエスを信じる者は永遠のいのちに生きています。このいのちは肉体の死によって与えられるものではなく、主イエスを信じたその時に与えられる神のいのちです。だから肉体は朽ちたとしても、死ぬことはないと言われたのです。


 私たちは、主なる神の自分に対する愛を、いつも、主イエスの十字架と復活によって確認し続けることが大事です。さらに主なる神は、私たちをご自分の恵みと祝福で満たしてくださろうと、いつも招いておられます。私たちは神のみ思いを、また神の自分に対するみこころを、聖書を通して確認し続けるのです。天地創造から、新しい天と新しい地の再創造に至るすべてが聖書に記されています。それらを神のことばとして聞き、その一つ一つに同意して受け入れる時、心は内で燃えることになります。聖書は主なる神からの愛のメッセージ、ラブレターです。神の私に対する愛の語りかけを喜び楽しみつつ、耳を傾ける毎日を過ごしましょう。



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