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2023年4月9日 「主イエスの復活」ルカの福音書24:1〜11

 イースターおめでとうございます。今年もイエス・キリストの復活を記念する礼拝を、みなさまと一緒にささげることができ、心から嬉しく思っています。主イエス・キリストの復活こそ、私たちの救いは確かであることの証拠であり、主イエス・キリストを信じる私たちに、永遠のいのちが与えられていることを確証させる出来事です。


 今日は、ルカの福音書から、主イエスの復活を確認します。24章1節。主イエスの復活は、週の初めの日、つまり日曜日の早朝です。イエスが埋葬された墓に、何人かの女性たちが向かい、イエスの遺体に香料を塗ろうとしていました。その女性たちについては10節に記されており、全部で何人かは分かりませんが、5名以上いたと考えられます。彼女たちは、イエスの遺体に香料を塗るために、イエスが葬られた墓に向かいました。


 十字架で処刑されたイエスの遺体を引き取り、墓に納めたのはアリマタヤという町出身のヨセフです。23章50節。ヨセフについての紹介です。ユダヤ最高議会の議員の一人で、善良で正しい人であり、51節、神の国を待ち望んでいて、議員たちの計画や行動には同意しなかったとあります。52節。ヨセフはローマ総督ピラトのところに行って、イエスの遺体の下げ渡しを願いました。議員の一人という確かな身分の人物であり、ローマ総督もイエスの遺体を委ねたのでしょう。そして53節。彼は、イエスの遺体を亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘られた墓に納めたのです。その墓は、マタイの福音書を見るなら、ヨセフが自分の葬りのために用意しておいた墓であったということです。


 54節。安息日は金曜日の日没から始まります。主イエスは午後3時頃、十字架上で息を引き取られました。ヨハネの福音書を見るなら、ユダヤ教の指導者たちは、安息日が始まるので、十字架上に犯罪人を残しておかないようにと要請します。それで兵士たちが、まだ生きているふたりの犯罪人の膝を折って窒息死させました。しかしイエスはすでに死んでいることを確認したので、膝を折ることをしなかったのです。その安息日が始まるまでの短い時間の中で、ヨセフは急いで埋葬を行ったということです。議員の一人ニコデモも埋葬に加わったことがヨハネの福音書に記されています。


 55節。女性たちはヨセフについて行って、イエスの遺体が納められた墓を確認した後、安息日が始まるまでに墓から戻り、香料と香油を用意したのです。56節。


 24章1節。安息日が終わり、女性たちは待ちきれないように、週の初めの日の朝、日曜日の早朝に、イエスが葬られている墓に向かいました。墓の入口を塞いでいる大きな石をどのようにどけるかなどは何も考えずに、ただイエスが葬られている墓に一刻も早く行きたいとの思いで駆けつけたということです。この女性たちの主イエスに対する熱意と純粋な思いは見倣いたいです。


 2節。墓の入口を塞いでいた石はすでに、わきに転がされていました。それで3節。女性たちは墓の中に入って、イエスの遺体に香料を塗ろうとしたのです。しかし主イエスのからだはありませんでした。女性たちの驚きはいかばかりだったかと思います。どうして遺体がないのか、女性たちには見当もつかず、途方に暮れたのです。4節。するとまばゆいばかりの衣を着た人が二人、女性たちの近くに来て、言いました。


 5~7節。恐ろしくなって、地面に顔を伏せている女性たちに、御使いが語ります。まず5節。御使いは、どうして生きている方を死人の中で捜すのですかと問いかけます。十字架で処刑され、死んで葬られたイエスは、今は生きていると断言するのです。生きている方ですから、死人が葬られている墓で捜すことは無意味です。


 6節。ここにはおられません。よみがえられたのですと断言しました。その上で、以前に主イエスが語られたことを思い出すようにと促します。それが7節です。人の子、人として地上に来られた神の御子は、必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると予告しておられたでしょう。その予告の通りですよと。


 主イエスによる十字架と復活の明確な予告は、少なくても3回、弟子たちになされています。内容はエルサレムで、長老、祭司長、律法学者たちに引き渡され、多くの苦しみを受け、異邦人の手によって殺されること、そして三日目によみがえらなければならないと十字架での死と復活は、神が備えた救いの計画に必然であると伝えたのです。


 8節。女性たちはイエスのことばを思い出し、そのことばに基づいてイエスの復活を事実として受け入れました。神のことばだからと同意し、受け入れる。これが信仰です。しかし11弟子と他の弟子たちは女性たちの証言を信じようとはしなかったのです。11節。弟子たちは不信仰でした。主イエスから十字架の死と三日目の復活の予告を受けており、その予告の通りの出来事があったと証言しているのに、弟子たちは自分たちの常識的な考えを優先し、死者が復活するなどあり得ないと結論づけていたのです。不信仰とは、神のことばが語られているのに、それに同意しないで、自分の考えを正しいとすることです。神のことばよりも自分の考えを優先して、自分が納得できる限りにおいて、神の語りかけを認めるのです。これは罪そのものです。そして罪のあり方が、不信仰を招きます。


 その後弟子たちは、復活された主イエスが直接ご自分を現してくださったことにより、主イエスの復活を事実として認めることができました。残念なことですが、弟子たちは、主イエスの復活について、信仰を働かせることができなかったのです。復活の事実を見せられたなら認めるのは当然であって、そこに信仰は不要です。


 ヨハネが福音書に、主イエスが弟子のひとりであるトマスに語った「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」のことばを紹介していますが、主イエスが私たちに求めておられる信仰とは、神のことばが語られたのだから、そのことばに同意して信じるということです。盲目的に信じることではありません。


 主イエスが十字架で殺されること、三日目によみがえることは、何度も繰り返して予告されていました。主イエスから直接聞いていたのです。だから御使いが現れた時、女性たちは主イエスのことばを思い出して、主イエスの復活を事実として受け入れました。これが信仰です。しかし弟子たちは女性たちの証言を聞いても、御使いが主イエスのことばを思い出すようにと告げたという証言を耳にしても、主イエスの予告を事実として受け入れることを拒みました。信じようとしなかった。これが不信仰です。


 私たちは、この女性たちのように、主イエスが予告された通り、十字架の死後三日目に復活されたことを、事実として受け入れることが大事です。主イエスが葬られた墓は三日目にからになりました。それ以来主イエスのからだを差し出すことなく、今日を迎えています。墓の番をしていた番兵が証言したように、弟子たちがイエスの遺体を盗んでいったのなら、ユダヤ当局やローマ当局が徹底的に捜査、探索すれば、イエスの遺体を見つけ出すことはいとも簡単です。弟子たちを拷問にかけ、白状させれば良いからです。


 弟子たちがイエスの遺体を盗んでいって、それを隠し、主イエスは死者の中から復活したと語ったとするなら、自分たちが作った嘘偽りの証言のために命を懸けることは愚かしいでしょう。ごくわずかな人は嘘をつき続けたとしても、多くの者たちは殺されることを恐れて、さっさと白状するはずです。


 弟子たちがいのちを奪われても、主イエスの復活を大胆に語り続けたのは、それが事実だからです。ユダヤ教指導者たちは弟子たちに、十字架と復活の福音を語らないようにと脅しましたが、禁じるのではなく、イエスのからだを発見すれば良いのです。それをしなかったのは、彼らもイエスの復活を否定できない事実と認識していたからでしょう。その上でユダヤ教の指導者たちは、主イエスの復活を事実として受け取ることを拒否続けました。これは神への甚だしい反逆です。


 私たちは、主イエスの復活を事実として受け取るのです。事実だから受け入れます。信じられないと思えたとしても、事実なら受け入れるべきです。


 今日交読した聖書箇所を確認しましょう。第1コリント15章3~6節。最も大切なこととパウロは書きました。福音の真髄が、イエス・キリストの十字架の死と復活です。人となられた神の御子、救い主が十字架で死に、復活することは、旧約聖書で預言されていました。そして主イエスご自身が繰り返し予告しておられたのです。


 私たちのキリスト信仰は、十字架の死と復活の上に成り立ちます。つまり、復活はなかったと証明できるなら、キリスト信仰を根底から崩すことができます。しかし二千年の歴史において、キリストの復活は嘘偽りであると証明できてはいません。逆にキリスト信仰者たちがいのちを奪われても、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いの福音を伝え続けたこと、またキリスト信仰者と教会の大迫害者であったパウロが、保障されていたユダヤ社会でのエリートコースを捨ててまで、この福音を宣べ伝える大宣教者と変えられたことも含め、キリスト信仰者たちの言動を見るとき、主イエスの復活は事実であるとしなければ、合理的な説明はできないのです。彼らの殉教の歴史です。


 キリストの復活に関するパウロの主張を確認しましょう。14節。17節。19節。もしキリストがよみがえられなかったとしたら、自分が信じている信仰も、伝えている福音宣教も空しいと告白します。自分たちはすべての人の中で一番哀れな者ですとまで言い切ります。自分たちが作った嘘偽りのためにいのちを捨てる人は、ほとんどいません。


 そして断言します。20節。キリストは死者の中から復活されました。しかも眠った者の初穂として、よみがえられたと断言するのです。私たちも、必ず死の時を迎えます。そして感謝なことに、主イエスを信じた者は、死んで終わりではなく、主イエスが死者の中から復活されたように、死者の中から復活するのです。主イエスは初穂として死に打ち勝ちました。だから私たち、主イエスを信じる者も死に打ち勝っています。死は眠りです。必ず目覚める時が定められているということです。これが私たちの死であり、復活です。


 私たちは毎年、主イエス・キリストの十字架の死と復活を記念する時を持ちます。そして主イエスの復活が歴史的な事実であることを確認し、その事実に立って、主イエスをキリストであり、神が人となられた救い主、私たちの主であると崇めるのです。神のことばが語られており、そのことばが真実であるとの歴史の証言に基づいて、私たちはキリストの十字架の死と復活によって備えられた、罪の赦しと罪からの救いの福音を、自分のためであると受け取りました。まだ受け取っていない方も、事実としか考えられない歴史の証言に基づいて、主イエスを信じ、その救いを受け取っていただきたいのです。



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