新しい年度が始まりました。2023年度は受難週から始まります。今週7日の金曜日に主イエスは十字架で処刑されて死に、墓に葬られます。そして三日目に死者の中からよみがえるのです。来週日曜日、9日が主イエスの復活の日、イースターです。春分の日を過ぎた最初の満月の次の日曜日が、主の復活の日なので、現代の暦では毎年変わるのです。今週6日(木)に満月となります。主イエスはその日の夜、捕らえられ、夜通しの宗教裁判で死刑に定められ、7日にローマ帝国の極刑、十字架刑で処刑されるのです。
今日私たちは、最後の晩餐の席上で主イエスが定められた新しい契約について確認し、新しい契約を覚えるために守るようにと命じられている聖餐式についても確認します。
7節。主イエスが十字架で処刑され、死なれたのは過越の祭りの期間でした。過越の祭りは、イスラエル人がエジプトでの奴隷の状態から救い出されたことを記念する祭りで、救いのすばらしい恵みと、救い主である神の偉大さを覚えるために定められたものです。
過越については出エジプト記11~12章に記されています。イスラエル人がエジプトでの奴隷状態から解放される前夜、エジプト全土で初子はすべて殺されるという神のさばきが行われたのです。その殺害を免れる唯一の方法は、一歳の雄の子羊を殺し、その血を家の鴨居と二つの門柱に塗りつけることでした。初子のいのちの代わりに、子羊のいのちを差し出すということです。この神の救いのことばにしたがった家は、主なる神が過ぎ越したので、初子が殺されることはありませんでした。しかし子羊の血を塗りつけていない家はすべて、初子が殺されたのです。
この出来事を忘れないために、過越の祭りが定められました。自分たちの、エジプトでの奴隷生活がどれほど惨めであったのか、その苦役から救い出され、神の民とされたことがどれほどすばらしい恵みなのかを忘れないために、そして自分たちは、主なる神の一方的な恵みの中を、主のことばに聞いて生きる者であることを確認し続けるためにです。
私たちキリスト信仰者が、毎月聖餐式を行うことと同じです。自分がかつて、罪の中を罪の奴隷として歩んでいたこと、罪の恐ろしさと愚かさ、罪に支配されていたことの悲惨さを忘れないため、またそのような自分が主なる神の一方的な恵みによって罪を赦され、救われたことが、どれほどの恵みであり喜びなのかを確認するために聖餐に与るのです。
さて、奴隷の状態から救い出されたイスラエルに、神の民となるための契約が提示されました。奴隷の状態から救い出されることと、神の民として歩むことは同じではないからです。神と神の民との契約は、神が条件を提示し、イスラエルがその条件を満たすことで成立したのです。その条件とは、神の定めを行う、神の基準に生きることです。イスラエルは、主なる神を自分の神とすること、神のことばを守り行うことの表明をし、その応答を受けて、神はイスラエルをご自分の宝の民、神の民とされたのです。
しかしイスラエルの歴史から、神の民とされたイスラエルは、神の契約を守ることをしませんでした。神を自分の神とすることを退け、神のことばを行うことをせず、国としてのイスラエルは滅ぼされました。これが文字としての律法を受けることの限界です。神を自分の神と崇め、神の恵みによって今の自分があるという、神への信仰のゆえに、神の基準に生きたいと願い、神のことばに聞いて、それに従うことを求めるのではなく、律法の文字を、自分に都合の良いように引き下げて、それを行ったのです。自己中心の罪人は律法を与えられても、それに自分を合わせませんでした。これが古い契約の現実でした。
15~16節。過越の食事は古い契約を覚え、神の救いの恵みを感謝する時です。しかしその救いは完成していませんでした。救いに与ったにもかかわらず、その救われたすべての者に、救いを生きることを得させなかったからです。だから過越の食事をすることは決してないと主イエスは言われたのです。そうして罪人の罪の完全な赦しと救いのために、ご自分の血による新しい契約を定めてくださいました。
私たちは主イエスの十字架の身代わりの処罰によって罪の赦しが与えられます。主イエスを信じる信仰によって、私たちは神の子どもとなる特別な権利が与えられ、神のいのちに生きる新しい人として誕生します。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けて、私たちの古い人はキリストともに十字架につけられて死に、キリストの復活にも与って、神のいのちにあって歩む新しい人となります。信仰によってキリストと一体とされ、賜物として聖霊を心に宿し、聖霊の助けを受けて、神のことばを生きる者とされるのです。
キリスト信仰者は、文字としての律法ではなく、神のことばであるキリストご自身を心に宿しており、キリストを主と崇めて、神のことばを生きようとして、信仰の歩みを一歩一歩、踏み出し続けます。私たちキリスト信仰者は、十字架でいのちを捨てるほどの愛で主イエスに愛されていることを知ったので、主イエスを心から愛し、主イエスを愛するゆえに、神のことばを生きたいと心から願うのです。これが救いです。
今私たちは、過越の食事をしていません。動物の血によっては、私たちを完全に救うことはできないからです。しかし神の御子の十字架で流された血は、私たちのすべての罪を赦し、私たちを罪から完全に救います。私たちは日々悔い改めに進み、罪の赦しを受け、聖霊の助けを受けながら、罪と戦い、勝利に進むことができる者とされたのです。過越が神の国で成就するとは、私たちの罪の性質を引きずっている肉体が朽ちて、罪の全くない栄光のからだによみがえる時のこと、肉体も含めた完全な救いの約束のことです。
19~20節。今私たちは、聖餐式を行なうことで主の十字架を記念しています。私たちは聖餐式において、十字架上で裂かれた主イエスのからだと、流された血とを覚えて、パンを食べ、葡萄の液を飲むのです。また聖餐式を行なうことを通して、主イエスの十字架の死の意味を証しています。そして聖餐式を行なうことによって、私たちの救いは完全であることを確認し、喜びと感謝の告白とするのです。
キリスト信仰者である私たちは、新しい契約に生きています。新しい契約も、主なる神が条件を提示しました。私たちはその条件を受け入れることで契約が締結されます。その条件とは、十字架で殺されたイエスが神、救い主であり、あの十字架の処罰は私たちの罪の身代わりの処罰であって、それを自分のためと受け入れるなら、その信仰によって神との契約に入れられるということです。古い契約には、律法を行うという人間側の行いが入り込んでおり、結局は人をその罪から救うことを得させませんでした。新しい契約には、私たちが行えることは何一つありません。ただ神の一方的な恵みを受け取るだけです。
私たちはただ、主イエス・キリストを、その十字架の贖いを信じることによってのみ救われます。私たちが救われるのは、神の恵みであり、信仰によってのみです。そして健全な信仰生活も、神の恵みによるのであり、救いを生きることも、信仰によってなのです。賜物としてキリスト信仰者に与えられた聖霊が、私たちの内に住んでいてくださり、私たちを内側から助けてくださるので、罪に打ち勝つ歩みに導かれます。
新しい契約によってもたらされたのは、罪の赦しと罪からの救いの完全さと、聖霊に導かれて生きることで得られる罪に勝利する健全な信仰生活です。コリント人への手紙第二3章6節、18節。御霊なる主、聖霊の働きによって、罪の性質を引きずっているこの肉体に生きている日々中で、私たちは主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです。御霊なる主の働きに、自分を明け渡すだけです。これが御子の血による新しい契約に入れられた私たちが、神から受け取った救いです。
今週私たちは、受難週を歩みます。日々主イエスの十字架を思い巡らしましょう。ご自分の血による新しい契約に私たちを迎え入れてくださるために、十字架で身代わりの処罰を受けてくださったことを覚え、感謝を新たにし、与えられた救いを生きる者とされていることを改めて確認しましょう。今週木曜日の夜に捕らえられ、不当な宗教裁判を受け、7日の金曜日に十字架での苦しみを味わい、宥めのささげ物となられた主イエスに、心からの感謝を献げるために、日々思い巡らしましょう。
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