今日の聖書の箇所に、神がどれほど私たちを愛しておられるかが記されています。私たちは神を愛していなかったのに、神は私たちを愛していのちを得させてくださいました。
10節に、宥めのささげ物としての御子が遣わされたとあります。宥めるのは怒りです。家庭で、父親が子どもを叱る時、母親が父親の怒りを宥めることあります。その逆もあるでしょう。片親が怒り、もう一人の親が宥めるという様子が思い浮かびます。子どもが泣き叫ぶことがあり、それを宥めることもします。宥めるのは怒りです。神の御子キリストは宥めのささげ物として遣わされました。誰の、何に対する怒りを宥めるのでしょうか。
10節。私たちの罪のために、とあります。御子が宥めたのは、私たちの罪に向けられた神の怒りです。神は怒っておられます。私たちの罪に対して怒っておられるのです。その怒りを宥めるために、神の御子はこの世に来られ、宥めのささげ物となりました。
これが私たちの出発点です。私たちは知らなければなりません。自覚すべきです。神は私たちの罪に対して怒っておられるので、私たちは滅びに定められたという事実です。そのような私たちを愛して、私たちを滅びからいのちに移すために、神の怒りを宥めるささげ物として、神の御子キリストが遣わされ、十字架で処刑されたのです。この事実を知る時、私たちは、私たちに示された神の愛の絶大さに圧倒され、感謝が溢れてきます。
ローマ人への手紙1章で、神の怒りについて確認しましょう。18節。神の怒りは何に対して啓示されていると言われているでしょうか。そうです。不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、とあります。罪を犯している私たちに対してではなく、私たちがなす不敬虔と不義に対して、神は怒っているのです。
まずこの事実に感謝しましょう。神の怒りは、不敬虔と不義に向けられています。不敬虔とは、神を神として認めない、神を崇めないこと、神に敵対するあり方です。不義とは神の基準を無視すること、特に人との関わりについての神の定めに従わずに、人を尊重しない、人を人として扱わないという、人を貶めるあり方です。神の怒りは、不敬虔と不義をなす私たちにではなく、私たちのあり方、不敬虔と不義に向けられているのです。
19節。私たちが不敬虔である理由です。すなわち、創造者である神を私たちは知りうるはずだというのです。なぜなら神ご自身が明らかにしておられるからです。
20節。私たちが宇宙や地球、その中にあるいのちを見つめるとき、謙虚になって見るならば、それらを造られた創造者である神を認めざるを得ないというのが聖書の主張です。大宇宙や、自然界、生命の誕生と私たちの身体の節々を見るならば、それは神秘の世界であることを認めざるを得ません。神の創造を、創造者である神を見いだせるはずです。
しかし人は、天地万物を造られたまことの神を認めようとしません。それは絶対者である神を認める時、その神の御前に服従せざるを得ないからです。相対的な生き方はできません。絶対的な主権に従うことを、人は嫌います。自分が王様でいたいからです。それで自分が王様でいられる範囲での神々を作ります。それが偶像です。決まりを作ります。自分が支配できるものを、代用品として神に据えるのです。
天才宇宙物理学者のホーキング博士は、神は存在しないとしました。彼は、宇宙の起源とそれ以前、宇宙の現在の運行とその将来とを、完全に説明できる物理法則を見つけるため研究を深めました。彼は本当にすばらしい物理理論を構築しています。そしてこの宇宙全体を完全に説明できる物理法則を見出すことで、創造者である神は存在しないことを証明しようとしたのです。彼に追随する物理科学者たちはその法則を発見し、発表するかも知れません。その時には輝かしい業績として称えられることでしょう。
彼らは、その物理法則を神の代わりに据えようとします。というのは物理理論は、彼らの支配下に置くことができるからです。彼らは創造者である神を認めたくありません。絶対者としての存在を排除したいのです。それを認めたなら、そのしもべとならなくてはならないからです。しかし私は、創造者である神を認め、あがめ、感謝します。
もし彼らが宇宙の起源から、生命の誕生、地球の営み、その将来のすべてを支配する物理法則を発見したとしても、それは神が備えられた法則の発見に過ぎません。そして創造者である神を否定することで、虚無の中に置かれ続けることになるのです。なぜなら、彼らが見つけ出すその物理法則では、宇宙がどのようにして生じ、彼がどのようにして存在するようになったかは説明できても、なぜ自分は存在しているのかという、人間にとっての根源的な、そして究極の求めに対する答はないからです。
自分はなぜ存在しているのか、自分の存在の目的は何か、自分が生きていることに何の意味があるのか。これらの問いかけに対して、彼らが発見する物理法則は何の答も出せないままです。その物理法則を備えた神を見いだし、自分は神に生かされているという真理を認めないかぎり、自分は偶然の産物としか言えないのです。だから虚無の中で日々を歩むのです。自分は何のために生きるのか。私たちには、この問いかけは重大です。自分が 存在している意味が分からないことほど虚しいことはありません。
聖書の書き出しは「はじめに神が天と地を創造された」です。明確な宣言です。神が完全な物理法則を備えて宇宙に起源を与え、今も広がり続けている広大な宇宙を、秩序正しく運行させています。宇宙の誕生は約137億年前で、地球の誕生は約46億年前と計算されています。それも、永遠の神の御前では、ほんの一瞬です。千年は一日のよう、一日は千年のようです。そして地球に生命を誕生させ、生命を保つ環境をも備えました。神の創造のクライマックスとして、私たち人間は、神のかたちとして創造されたのです。
神ご自身は、その物理法則に縛られるお方ではありません。物理法則を支配しており、その法則を越えて私たちの世界に介入なさることもあります。私たち人間にだけ人格を備え、知性を与えられました。私たち人間は神の栄光を現わし、神を喜ぶものとして、神に似るものとして造られたのです。他の動物と根本的に違うのは、私たちは霊的で、人格的な存在であるということです。ここに私たちの存在の意義があり、その目的があります。私たちは謙虚にならなければなりません。創造者である神を神とすべきです。
20節。神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁明の余地はありません。世界中至るところに、宗教があります。人々はどこにいても、そこで神的なものを感じ取ります。そして、何かしらを自分の神とするのです。創造者である神がご自身を明らかにしておられるのです。
21節。しかし人は愚かにも、真の神を神とせず、崇めず、感謝もしないので、その思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなりました。その結果は23節。朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や鳥、獣、這うものに似たかたち、造られたものと替えてしまったのです。ここに神への不敬伲の極みがあります。創造者である神を神として崇めず、代用品を自分の神にして、自分の要求を満たすことを、神に期待するのです。
多くの人々が神の存在を感じていながら、創造者である神を神としません。彼らの神は彼らの願いを満たしてくれる存在であり、それが偶像です。そしてこのことは、キリスト教という宗教においても起こり得ます。キリストを信じるとは言っても、自分の神として崇めていないことがあります。そのような人は、自分の期待の通りにならないと、キリスト教という宗教を捨て去ります。神は自分に仕えるしもべであってほしいのです。
神を神として崇めず、感謝もしない、この不敬虔に対して、神の怒りが向けられています。神を神とするとは、神に自分を合わせて歩むことです。自分の生き方の絶対的な基準を神と神のことばに置き、神に聞いて歩むのです。しかし人はこの歩みを嫌います。それが不敬虔であり、その当然の結果として、神に造られた人に対して不義をなすのです。
人は不敬虔の当然の結果として、その思いはむなしくなり、鈍い心は暗くなって、不幸を招きました。24節に「引き渡された」とあります。創造者である神は人に備えた自由意思による決断を最大限に尊重します。人が選んだ道を進ませます。なすがままにさせたということです。神は、不敬虔に陥った人を、心の欲望のままに汚れに引き渡されました。26節では、恥ずべき情欲に、28節では、無価値な思いに引き渡されたとあります。それらは人間が選んだ道であり、その自由意思による決断に任せたのです。自分で間違ったと自覚し、自分で戻ることをしなければ、人は神に立ち返らないからです。
29節から列挙されている罪のリストは、現代社会にもそのままあります。約2000年前の社会で指摘されていた罪が、文明、文化がはるかに進んでいる現代社会にもそのまま当てはまることに、罪人が作り出す世界は根本において変わらないことが分かります。
あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれている。陰口を言い、人々を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈愛です。これらは、私たちの社会での日常茶飯事です。これが神を神として崇めない、感謝もしない、不敬虔な人間が作りだす社会、不義の世界、罪の文化の現実です。
創造者である神はあらゆる不敬虔と不義に対して怒っておられます。私たちは罪のゆえに神の怒りにさらされています。しかし憐れみ深い神は、不敬虔と不義をなしている私たち人間をなおも愛しておられるのです。そして神の怒りから私たちを解放しようとしてくださり、神の怒りを宥めるささげ物として、神の御子が遣わされたのです。
ヨハネの手紙第一4章9節。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。神の愛が私たちに示されたのです。10節。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
イエス・キリストの十字架による福音が、唯一の救いのための良き知らせであるのは、この事実によります。神は怒っておられるのです。神の怒りは私たちにある不敬虔と不義です。文化や社会にある不敬虔と不義に対して、神の怒りは天から啓示されています。私たちが不敬虔と不義のあり方を続ける限り、神の怒りは私たちにも向けられるのです。
神の愛の現われとして遣わされた、宥めのささげ物であるイエス・キリストを自分の救いとして信じ、受け入れる者だけが、神の怒りを免れるのです。そのために、御子イエス・キリストは宥めのささげ物として十字架で処刑されました。ここに聖書が提示する救いの排他性があります。真理だからです。真理は必ず排他性を伴うのです。
今、自分を、周りの社会、その文化を見つめてください。それは神の怒りを受けるに当然の不敬虔、不義ではないでしょうか。私たちにも、神の怒りを当然受けなければならない不敬虔と不義、そこから出てくる様々な罪があります。しかし神は私たちを愛して、神の怒りを宥めるささげ物としてイエス・キリストを遣わし、十字架で、私たちの罪の身代わりの処罰を受けさせたのです。この神のみわざを信じ、受け入れることで救われます。
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