今日の箇所にはとても悲しい出来事が記されています。ダビデのその子アブサロムとの間に武力闘争が起こり、アブサロムは戦死し、父ダビデが悲しみに暮れるという結末を迎えるからです。骨肉の争いほど悲惨な出来事はないと言えます。ではどうしてこのような出来事が起こり、このような結末を迎えることになったのでしょうか。
前回私たちは、ダビデが人妻を妊娠させた姦淫の罪を隠蔽するために、その夫を戦場で戦死させるというおぞましい罪を確認しました。その後の罪の悔い改めと赦し、そして罪の刈り取りとしての、誕生した子の病死という出来事を見て、罪は誤魔化してはならないこと、気がついた時点で罪の事実を認め、悔い改めをし、罪の赦しを受けることの大切さを確認したのです。その後のダビデの親としての煮え切らない態度が、今回の悲劇的な結末を迎えることになる素地となったことを、今日確認します。
私たちも罪に陥ることは避けられないかもしれません。しかし大事なことは、罪に気づいたなら速やかに悔い改めをし、罪の赦しを受け取ること、そして神の御前での赦しの事実に立って、その後は、毅然とした態度で、様々な罪の事実に向き合うことが大切です。
ダビデはいつも主なる神を意識し、神とともに生き、神の御前に正しくあろうとしました。そのようなダビデを神は喜び、祝福と恵みで導かれ、一介の羊飼いから召し出し、イスラエルの王とされたのです。ダビデは主なる神の主権をいつも心に留め、その主権に自分を委ね、主のみわざを待つ生涯を送ってきました。そうして主なる神は、ダビデを王とするイスラエル国家に安定と繁栄を与えてくださったのです。
そのようなダビデにも弱さがあり、主との霊的な関係が崩れたときに、姦淫と殺人の罪に陥ったのですが、簡単に思い出しましょう。前回私たちは11~12章からダビデの姦淫と殺人の罪とその後を確認したのです。神に喜ばれていた信仰者ダビデが罪に陥った背景に生活習慣が乱れがあったこと、この事実を私たちは反面教師とすべきとしました。生活習慣の乱れは神との霊的な交わりを失わせ、霊的貧困状態を生じさせます。そのような状態の時に、罪の誘惑に抗うことができなくされるのです。その結果ダビデは、人妻との姦淫をし、その妊娠を誤魔化すためにその夫を戦死させる殺人を犯し、その後未亡人となったバテ・シェバを、何事もなかったかのように妻として迎えるという厚顔無恥の大きな罪を犯させたのです。私たちも気をつけましょう。
ダビデは罪を赦していただいたのに、その罪の事実を引きずることで、その後の息子たちの罪に対して毅然と向き合うことをせず、罪を曖昧にし、放置した結果、息子アブサロムの謀反を引き起こし、その息子を戦死させるという悲劇的な結末を刈り取るのです。
発端となる事件は13章です。1節。ダビデの長男アムノンが、異母兄弟で三男のアブサロムの妹タマルに対して恋煩いに陥ります。そしてアムノンは部下の唆しを受けて、策略を巡らし、力ずくでタマルを手込めにしたのですが、その後、かわいさ余って憎さ百倍ということば通りに、激しい憎しみに駆られて、追い出してしまうのです。この13章は後で読んでおいてください。この出来事に対するダビデの対応が21節です。激しく怒った、それだけです。何の処置もせずに、うやむやのまま放置したのです。20~22節。
アムノンに対して、タマルに対して、アブサロムに対して、父親として、何よりも主なる神を恐れる者として、毅然とした態度で罪に立ち向かうことをしませんでした。その結果、さらに大きな悲劇を生み出すのです。過去に、同じような罪を犯してきた者としての陥りやすい罠かもしれません。自分にはその罪を糾弾し、悔い改めに導く資格はないと考えるのでしょうか。しかし罪の恐ろしさ、愚かさを知り、自分の罪を直視して、主なる神に罪の悔い改めをした者であるなら、その同じ罪を犯した人に対して、自分が受けた罪の赦しの素晴らしさを味わい知った者として、罪を指摘し、罪の悔い改めを迫ることができるはずであり、すべきなのです。罪の愚かさ、恐ろしさを知り、罪の赦しの幸いを味わい知った者だからこそ、罪の指摘をし悔い改めを迫ることをしなければなりません。
しかしダビデは何もしませんでした。ただ時間が解決してくれることを願うだけのような振る舞いをし、罪と向き合うことを避けたのです。父親としても、一国の王としてもです。そうして2年が過ぎました。表面的には問題は何もなかったかのようです。しかしアブサロムの心に生じたアムノンに対する憎しみは処理されないまま、ずうっと心に秘められていました。そしてアブサロムのアムノン殺害計画は実行されます。23節以降。
26~27節。アムノンもアムノンではないでしょうか。父ダビデから何の咎めもなく、アブサロムからも何も言われないまま2年が過ぎたことが、何もなかったことにされたと、自分に都合の良いように考えたのだと思われます。長男ですから、ダビデから王位を嗣ぐのは自分であると考え、まわりもそのように扱っていたかも知れません。そのような状況も、自分は何をしても文句は言われないという態度を身につけたとも言えます。アムノンはアブサロムの誘いに乗って、他の異母兄弟たちと一緒に、祝宴に参加するのです。ダビデもアブサロムの申し出に対し、若干の疑いを抱きつつも許可したのです。
36節。アムノンが殺害されたという知らせに、ダビデは非常に激しく泣きます。アブサロムは逃げました。ダビデはアムノンの死を嘆き悲しむだけで、アブサロムと面と向かって話すことを避けます。38節。この状態がいつまでも続くことはダビデ王国にとって良くないと考えた部下のヨアブが二人の間を取り持つことにします。その経緯が14章です。そしてアブサロムは3年の逃亡生活を終えて戻ってくることが許されました。
14章23~24節、28節。ダビデはアブサロムと真正面から向き合い、話すということを避け続けたのです。32節。アブサロムの思いが記されています。きちんとした処置をしてほしいわけです。しかし33節。ダビデは心が伴わない口づけだけで、アブサロムとの表面的な関係を繕ってしまいました。
そのようなダビデに対して、アブサロムは反旗を翻す決断をしたのです。妹タマルがアムノンに陵辱されてからの2年間、そしてアムノンを殺してからの5年間、ダビデはずっと罪の現実に立ち向かうことを避け続けてきました。その結果でしょう。アブサロムはダビデを見限り、自分が王になる計画を立てて実行に移したのです。
15章2~3節、6節。4年間でアブサロムは人々の心を盗みました。そうして9節。全イスラエルに、クーデターを起こしたことを伝えたのです。13節。そのクーデターは成功しました。14節。ダビデは自分に付き従う者たちと逃げざるを得なくなったのです。
今日の箇所です。ダビデ軍とアブサロム軍との全面戦争が始まり、ダビデは出陣せず、アブサロムは出陣します。その経緯は17章までにあります。読んでご確認ください。
18章5節。ダビデはアブサロムのいのち請いをします。戦いが始まる前に、勝敗の行方が分からない段階で、ダビデは息子の命を守ってくれと要請するのです。ダビデはこと自分のこどもの不祥事に対しては、自分が潔い態度をとることを避け続け、まわりの人々にはなかったことにしてもらいたいと考えているようです。しかし現実はそれほど甘くありません。王国の将来に禍根を残すような結果を避けるべきだと考えるヨアブによってアブサロムは討ち取られました。14~15節。悲劇的な結末です。
今日の箇所からということよりも、ここまでの経緯を見ていく中で、これらの悲劇を生じさせたのは、ダビデが一つ一つの罪の事実に対して、きちんと取り組んでこなかった結果であると確認したいのです。真正面から一つ一つの罪に対して取り組んできたのなら、ここまで事態が悪化することはありませんでした。事の発端は11年前のアムノンによるタマル陵辱事件をうやむやにしたことにあります。それはダビデ自身の古傷を思い起こさせ、その事実に真正面から向き直すことを避けたことによるのです。罪を曖昧にしたままなら、その刈り取りはさらに大きな悲劇を生み出すことを知らなければなりません。
私たちは罪を軽んじないようにしましょう。主なる神は罪を赦すためにひとり子のいのちを代償にされました。罪の赦しは備えられています。どれほど大きな罪であっても、自分の罪を罪として認め、心から悔い改め、赦しを求めるなら、神は赦しを豊かに与えてくださいます。罪の刈り取りはありますが、悔い改めが早ければ早いほど、その刈り取りの苦しみ、悲しみは軽く済みます。
しかし自分の罪と真正面から取り組むことを避け続けるなら、その刈り取りはさらに大きなものとなるのです。罪は犯した時点で、自覚した時に速やかに、悔い改めをし、赦しを求めるという、きちんとした処理をしなければなりません。私たちが罪と真正面から向かい、罪の事実を認め、主の御前で罪の悔い改めと赦しとを請うなら、そして罪の事実に目を向けつつ、その刈り取りを避けないで取り組むなら、主はすべてを益に変えてくださるのです。ダビデがアムノン・タマル事件に対して真正面から取り組んだとするなら、その罪の結果の刈り取りもまた益に変えられたはずです。そのような意味で神を正しく恐れることが大事です。今週のみことば。神は侮られるような方ではありません。罪を見過ごしにはされません。赦しを備えて、罪を悔い改めることを待っておられるのです。
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