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2023年3月5日 礼拝「御子と聖霊と私たち②」ヨハネ16:7~16

 主イエス・キリストは、私たちに罪の赦しを備え、罪からの救いを与えるために、十字架で身代わりの処罰を受けてくださいました。ナザレの地で過ごされた約30年間、神の前に罪のない者、罪を犯さなかった者として歩み、その後の約3年間、公にご自分を現し、様々な不思議と奇跡を行うことで、ご自分が神であることのしるしとされたのです。また神の国を教え、福音を伝えました。いよいよ十字架で処罰される時が近づき、最後の特別の夜を弟子たちと過ごしているのです。


 主イエスの十字架を前にしての、弟子たちへの遺言を確認していて9回目となります。今日は前回に続けて、聖霊について、聖霊のなすわざについての確認の続きです。


 7節。人となられた神の子、主イエスは十字架で死に、復活された後天に戻られます。出会いがあり、別れがあるのは、地上を生きる私たちには避けられない現実です。これは主イエスを救い主と信じ、自分の神とした弟子たちにとっても避けられません。しかし主イエスの約束は希望を与えます。ご自分が去ることによって、助け主が遣わされることになり、その助け主はいつも、いつまでも、ともにおられ、主イエスを信じる者の心に住んでくださると約束されているからです。14章16~17節。


 8節。聖霊は3つのことについて、世にその誤りを明らかにされます。3つとは、罪について、義について、さばきについてです。みなさまは、罪とは何だとしているでしょうか。義とは、さばきとは、何だとしているでしょうか。この世の人々はどのように考え、どのように定義しているでしょうか。それらは誤りだということです。


 9節。罪とは、主イエスを信じないこと、それ自体です。ナザレで大工として過ごし、その後ご自分を公に示されたナザレのイエスは神であると認めないこと、様々な不思議と力あるわざを通して、ご自分が神であることのしるしとされたのに、それを受け入れようとしないこと、それ自体が罪なのです。神を神として認めないこと、感謝をしないこと、神に聞いて生きようとしないこと、そのあり方が罪です。聖霊はその誤りを教え、正しい歩みに導かれます。聖霊によって人は初めて「イエスは主です」と言えるのです。


 10節。義についてとは、イエスが義そのものであることです。主イエスは十字架で処刑され、葬られました。完全に死んだのです。しかし三日目に、イエスが葬られた墓は空になり、その後、だれもイエスのからだを見つけ出せず、今日に至っています。この地上にイエスのからだは、遺体であっても、生きていてもなく、ユダヤ当局も、ローマ当局も、捜し出せませんでした。そして多くの人々は、番兵が寝ている間に、イエスの弟子たちが来て、イエスの遺体を盗んでいったという作り話を信じてるのです。


 しかし主イエスは十字架で死んだ後、三日目に死者の中からよみがえりました。そうして40日に亘って、弟子たちにご自分が生きていることを示し、その後天に上って行かれたのです。だから主イエスのからだはこの地上にはありません。主イエスは予告した通りに復活されたことで、ご自分が神であることの証拠を示し、語ったことすべてが真実であるとしたのです。主イエスが義そのものなのです。聖霊はこれを明らかにされます。


 11節。さばきについてとは、この世を支配する者、サタン、悪魔がさばかれたことを、聖霊は明らかにされるのです。世の終わりの時にさばきが行われるのではありません。主イエスの十字架の死と復活によって、さばきは終わっているのです。


 3章16節に有名なことばがあります。小聖書と言われるほどに、福音がコンパクトにまとめられています。神が愛であること、神が世を愛しておられることを、神のひとり子を遣わされることで明らかにされました。私たちが神に愛されていることを認めて、神の愛の現れである御子イエスを信じること、つまり主イエスの十字架を信じる信仰によって私たちは滅びを免れ、永遠のいのちを持つ者となると宣言されています。


 この宣言で分かることは、人間はすべて、滅びに向かっているということです。その滅びを免れるためには御子を信じる以外にはないのです。だから17節。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためであるとある通りです。すでに世はさばかれていて、滅びに向かっているのです。


 だから18節。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれていると宣 言するのです。神のひとり子の名を信じなかったからであると。福音は厳粛です。福音とは喜びの知らせです。滅ぼされるべき存在であった私たちに、滅びを免れさせ、永遠のいのちに至らさせる道を開いてくださったという良き知らせです。


 しかしこの福音は、喜びの知らせであると同時に、そのままさばきの宣告です。御子イエスを信じる者は滅びることはないとは、そのまま、御子を信じない者に対する滅びの定めは変わらないという宣告だからです。


 助け主の聖霊はこの事実を明らかにされます。16章11節。罪に陥った人類に対してのさばきは3章で明らかにされた通りですが、ここでは、この世を支配する者、サタン、悪魔が完全に敗北したことを、聖霊は明らかにされるという宣言です。神の御子、主イエスの十字架の死は、一見、救い主の敗北に映るのですが、十字架の死によって、サタンの目論見は完全に打ち砕かれ、主イエスを信じる信仰者は、神の愛を喜び、感謝し、創造者である神を自分の神、自分の主と崇めて、神に聞いて生きることを欲する者となるからです。


 神の最後の審判の時まで、サタンによるこの世の支配は許可されています。なおもサタンは私たち人類を惑わそう、神から遠ざけようと、様々な策略を巡らしてきますが、主イエスを信じた者の心には助け主の聖霊が住んでおられるので、聖霊に導かれて歩むキリスト信仰者は惑わされることはありません。


 13節。助け主の聖霊は、主イエスが死者の中から復活し、40日後に天に昇られ、その10日後に、父なる神の約束を祈り待ち望んでいたキリスト信仰者たちに与えられました。この真理の御霊がキリスト信仰者をすべての真理に導いてくださり、主イエスが教え、語られたことのすべてを語り、またこれから起こることをも伝えてくださるのです。


 14節。聖霊は主イエスが神であることを知らせ、主イエスをほめたたえさせることで、主イエスの栄光を現します。聖霊はしゃしゃり出ることはなさいません。主イエスのもう一人の助け主として、あたかも主イエスが側にいて助けてくださるようにキリスト信仰者の信仰の歩みを助けてくださるのです。それが15節で言われていることです。


 16節。この夜主イエスは捕らわれ、夜通しの宗教裁判、罪に定めるための不当な裁判を受け、十字架刑に処せられます。しばらくすると見なくなりますとは、捕縛、処刑、葬りの予告であり、またしばらくすると見ますとは、復活の予告です。それはまた、主イエスの昇天によって見なくなるけれど、もう一人の助け主として聖霊が来られることで、より明らかに示されることで、主イエスを見ることをも予告しておられるのです。そうして主イエスの再臨の時には、顔と顔を合わせる形で主イエスを見ることになります。


 今助け主の聖霊は、主イエスを信じる私たちの心に遣わされ、いつも、いつまでもともにおられ、私たちの地上での信仰の歩みを助け、導いてくださっています。私たちは主イエスを見たことはないけれど、聖書を通して、神のことば、主イエスのことばを、聖霊に教えられることで、主イエスを知る者とされています。神のことばである聖書を通して、さらに明らかに主イエスを知る者となるのです。聖霊の働きによるのです。


 今週のみことば。聖霊を悲しませてはなりませんと促されています。私たちは聖霊を悲しませることができるということです。語りかけを無視し、促しを拒む時、聖霊は悲しまれます。助け主としての立場で私たちと関わり、私たちが助けを求めるときに、私たちを助けようと、待っておられるのです。旧約の聖徒たちは、聖霊が去られることを恐れました。しかしキリスト信仰者から聖霊が去られることはありません。ただし私たちが聖霊を無視し、悲しませることができます。私たちはキリスト信仰者として、より積極的に聖霊との人格的な交わりをし、聖霊に助けられての信仰の歩みを求めるべきです。というのは贖いの日のために、私たちは聖霊によって証印を押されているからです。聖霊は私たちを捨てませんが、私たちが聖霊を消すことはできます。1テサロニケ5章19節。



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