皆さまはこれまで、どのような病にかかったことがあるでしょうか。軽い病から重い病に至るまで、病にかかったことがあるのではないでしょうか。そしてこれからも、身体の不調を覚えることもあるでしょう。体調を崩すことは避けられない現実と言えます。
自分の不摂生さ、生活の乱れが、病気の原因かもしれません。夜更かししたり、食べ過ぎ、飲み過ぎなど、健康的な生活を維持する秩序の無視もあるでしょう。自分ではそれなりに注意していても、この世界に蔓延する様々な害悪が、肉体的に、精神的に、そして霊的に、私たちを蝕み、病に至らせることもあります。水も、空気も、食品も、生活必需品など、様々なものが汚染されていて、健康被害をもたらしています。いろいろなストレスから体調を崩すこともあります。病は避けることのできない現実とも言えます。
ただし病をも、主なる神は私たちの益のために用いてくださるということを覚えたいのです。主なる神はすべてを働かせて益とすることのできるお方です。また私たちは、病を通して、自分の生き方を是正することにもなるのです。
今日の聖書の箇所に、38年もの長い間、病気で横になっている男性が登場します。彼が寝ているのは、エルサレムにあるベテスダの池を囲む回廊です。そこには大勢の病人や障害者が伏せっています。彼らは何を待っているのか。脚注で彼らの期待が分かります。
エルサレムが紀元70年に、ローマの軍隊によって破壊される前まで、主なる神は、病人や障害者たちのために、憐れみの奇跡を行っておられました。主の使いが時々この池に降りてきて水を動かす時、最も早く池の中に入った者は、どれほどの重病でも、どれほどの障害でも癒されたのです。だから医者から見放された、直る見込みのない病人や障害者たちがこの池の周りに床を敷いて、その瞬間を待ち続けていたのです。
この脚注にある文章は後代に書き加えられたことが、聖書本文の研究によって明らかにされました。著者であるヨハネの作ではないということです。ヨハネがこの説明の部分を書かなかったのは周知の事実だからでしょう。そしてエルサレムが破壊された後は、この奇跡がなくなり、次第に人々の記憶から消えていったので、人々が集まっていた背景を書き加えたと思われます。この出来事は作り話として退けてはなりません。御使いが遣わされて、奇跡的な助けをなしたという事実は、聖書にいくつも記述があるからです。
この男性は、他の病人たちと同様、ベテスダの池で起こる奇跡を期待して、そこに床を敷いていたけれど、いつも後れをとるのです。主の使いが降りてきて池の水を動かすときに助けてくれる人は誰もいませんでした。これが彼の38年間の現実です。この男性に目を留めて、語りかけられたのが主イエスです。6節。
38年もの長い間、病気の癒しを願い、奇跡に与ることを期待してその場にいながら、いつも後れを取り、自分以外の人が癒されていくのを見続けている生涯。誰か助けてくれる人を求めても、誰にも相手にされない惨めさ、寂しさ。もう病気が直る期待もなくしていたと思います。かといってその場から離れることもできません。本当に惨めで、悲しい生涯だと言えます。もし皆さまがこの男性であるならどうでしょうか。希望もなく、毎日池を眺め、そして奇跡的に癒されていく人を見て、良いなと思う。その繰り返しです。
6節。そのような男性に、主イエスは「良くなりたいか」と声をかけます。病気を直す力のない者が、気休めで尋ねたなら、それは残酷です。しかし主イエスは、病気を直す権威を持っています。もう絶望している、しかしそこを離れられないこの男性に、病気の癒しという望みを与えることばを語られたのです。
私たちの癒し、私たちの回復、私たちの救いのために、神の側から近づいてくださるということに、主の恵みを覚えますね。主なる神は私たちをあわれみ、苦難の中にいる私たちを可哀想に思い、私たちが救いや助けを求めることができるように、そのきっかけを備えてくださるのです。だから私たちは主に対して、救いを求める思いが与えられたなら、その機会を無にしてはなりません。主なる神は私たちの状態にかかわりなく、豊かな恵みで救いを備えて、招いておられるのです。
この男性は主イエスの語りかけに、もしかしたら自分を助けてくれるかも知れないと期待を膨らませました。それまで声をかけてくれる人もいなかったでしょう。それで7節。彼は、ベテスダの池に奇跡が起こるとき、自分を入れてほしいという願いを込めて、自分の実状を話したのです。
良くなりたいに決まっています。良くなれるなら、そうなりたい、彼はずっとそう思いながら、池のそばに伏せっていたのです。主イエスは、そのような男性に、あえて良くなりたいかと問いかけたのです。
主イエスの、この語りかけの意味は、あなたが良くないたいと願っているのは分かっている、では、良くなるために、行動を起こす気はあるのかとの問いかけなのです。ただ漠然と願っているだけでは、状況が変わることはないし、何の解決にもなりません。良くなるための一歩を踏み出す意思はあるかという、招きなのです。
そして8節。主イエスは、彼が考えもしなかった行動を命じます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」これもまた残酷ではないでしょうか。38年間も伏せっています。どう歩けば良いのかさえ忘れているでしょう。筋肉もなくなっています。歩くなど無理です。しかし主イエスは、不可能を命じました。
これは信仰を問う命令です。信じるということは、従うということです。神の語りかけに応じて行動を起こすことなのです。神のことばに従うこと、そのことばを生きること、それが信じるということです。信じていると口でどれだけ言っても、神を信頼して、神のことばに自分を合わせて、一歩足を踏み出さなければ、何も起きません。信じるとは、神を信頼するので、そのことばに自分を委ねること、そのことばを生きることなのです。
主イエスは、あえて不可能と思える行動を命じました。主イエスを信じるか否かの決断を迫ったのです。信仰が問われています。そのことばを語った方をどう考えるかで、その応答は変わります。そのお方を信じるなら、そのことばに従うことになります。そのお方の権威を認めるなら、その権威に自分を委ねます。そのことばに従わないのは、それを語られた方を信じないからです。その方を自分の主とはしないということなのです。主イエスはこの男性に、ご自分に対する信仰による行動を促しました。
9節。その人はすぐに治ったと記されています。彼は立ち上がり、床を取り上げて歩き出しました。主イエスの促しに応じて立ち上がり、歩き出したのです。ここにこの人の信仰があります。自分に命じた、その権威に従ってみようと考え、一歩踏み出しました。命じられたことばの通りに行動を起こしたのです。これが信仰の応答です。その時、主イエスの権威が自分に及びました。主イエスの神としての権威が彼を覆い、彼に歩く力を与えたのです。これが信仰です。主なる神が私たちに問いかけている信仰です。
主イエスが私たちを招く信仰は、私たちがこれだけ信じているから、その信仰に従って生きるという、自分の信仰の力ではありません。私たちが招かれている信仰は、主なる神を神として信じ、信頼して、そのことばを生きる一歩を踏み出す信仰です。神が語っておられます。そのことばに従うようにと命じられます。自分を見つめるとき、自分にはとてもできない、一歩を踏み出す勇気はないと思えます。しかし命じている主なる神に懸けてみようと考え直し、一歩踏み出すこと、これが神が招いておられる信仰です。そしてそのことばの通りに一歩踏み出すとき、神の約束の通りに事が進むのです。
この男性は、主イエスの、起きて、床を取り上げて歩きなさい、ということばを聞きました。そうは言われてもと思ったでしょう。とても歩けるわけがない。ずいぶん非常識なことを言うんだろうと思ったのではないでしょうか。しかし彼は思い直すのです。ここで起き上がらなければ何も変わらない。今までと同じだ。自分に命じているこの方に、そのことばにかけてみよう。これが信仰です。それで何も起こらなかったとしても、これまでと同じというだけです。しかし神のことばは、神のことばの通りに事を進ませるのです。神のことばを生きていて、力があるからです。この神への信仰が、神の力に与る秘訣なのです。主イエスの神としての権威が、その力が、この人に及びました。主イエスのことばがこの人に現実となったのです。彼は起き上がり、床を取り上げて歩き出しました。
主イエスが語られるとその通りになります。神としての権威があるからです。ただし私たちの応答を条件にするということを知らなければなりません。私たちがそのことばに従うときに、その通りになります。主なる神は、私たちに与えた自由意思を尊重されます。私たちをロボットのように従わせることはなさいません。私たちの自発的な応答を、信仰による応答を求めておられるのです。
この病人は主イエスを信じました。そのことばを生きる決断をし、起きあがりました。その起き上がろうとした応答と同時に、彼は癒されました。彼の筋肉は一瞬のうちに、歩くことのできる状態にまで回復したのです。
私たちも主イエスを信じます。主イエスを信じていると言います。しかしどうでしょうか。自分の納得をまず求めていないでしょうか。納得できるなら従う。納得ができないから従わないとしていないでしょうか。あるいは自分の好みや都合に合わせて、主イエスの語りかけを取捨選択していないでしょうか。そのような時、主イエスは私たちを生かすことはしません。私たちはこの男性に、信仰を倣いましょう。私たちは日々、聖書から神の語りかけを聞いています。父なる神が、主イエスが、聖霊ご自身が、みことばを通して語りかけています。主なる神を信じて、そのことばに生きる一歩を踏み出すのです。
主イエスは、あなたを愛し、あなたの罪を赦すために、あなたの代わりに、十字架で罪の処罰を受けてくださいました。私たちがすることは、その神の恵みによる罪の赦し、罪からの救いのみわざを、自分のためであると受け入れ、救い主としての主イエスを信じるだけです。十字架で処刑されたナザレのイエスは神の御子であり、救い主であることを信じて受け入れ、自分の罪を認めて、罪の赦しを求めるだけです。
そうして救いに与り、神の子どもとされる特権に与った私たちキリスト信仰者は、主イエスを自分の主と崇めて、神のことばを聞き、それを行う一歩を踏み出し続けるのです。私たちは神の子どもとされました。父なる神とともに歩む者となり、主なる神が約束された恵みと祝福のすべてに与る者とされているのです。神のことばを聞き、素直に応じるなら、神のことばの約束が私たちをして実現し、その祝福と恵みを味わう人生、信仰生活に導かれるのです。信じて生きる、信じるから神のことばを生きる、その一歩を踏み出すだけです。これがキリスト信仰であり、神の祝福に与る信仰生活の秘訣です。
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