私たちキリスト信仰者の幸いは、主なる神がともにおられるという事実です。何をやってもうまくいく順風満帆のときも、何をやっても道が閉ざされているような逆風満帆で、様々な苦難や困難に見舞われ、絶望的な状況に置かれたとしても、全能の神が、私たちの父なる神としてともにおられ、いつもともに歩んでくださるという確信が与えられているからです。これほど幸いで、希望があり、感謝と平安の中で地上生涯を歩めるのが、私たちキリスト信仰者です。それを確信させる秘訣は日々の祈りと賛美です。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから、と言われる主が、私たちの父なる神となって、私たちとともに歩んでおられます。そして言われるのです。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。だから心配しないで、失望しないで、主を賛美し、主とともに歩んでいることを感謝して、主に祈りつつ、自分に与えられている歩みを続ければ良いのです。
今日私たちは、パウロとシラスが、主に聞き従って歩み、主の福音宣教のみわざに参与していたのに、むち打たれ、投獄されるという、不当な扱いを受けたときの出来事を見ています。私たちはつい思います。主に聞き従って歩んでいるなら、決して、不幸な目に遭わないし、不当な扱いを受けることはないはずと。主に聞き従っている限り、主は祝福と恵みで満たしてくださるに違いないと思っているでしょうか。
そして、そのような信仰生活こそ祝福されたものだと決めているなら、私たちが主に聞き従った結果、どうしてこのような災難に遭うのだろう、主なる神はどうして守ってくださらなかったのだろうと、主なる神への不信に引き込まれることになります。
私たちは確認しましょう。私たちのキリスト信仰は、現世でのご利益を保証してはいません。何の問題も起こらない、すべてがハッピーという生涯を約束してはいないということです。罪人の作る社会を私たちは歩んでいます。かつての私たちも、その罪人の一人として、この世で、人間中心、自己中心に、自分さえ良ければという思いで生きていました。罪人が作り上げている社会に私たちは生きているのですから、その罪の及ぼす影響は、キリスト信仰者にも、そうでない者にも、同じように及び、問題も起きます。自分が問題の原因となることもあります。そのような中で、私たちはキリスト信仰者として、主なる神とともに生きているということです。
主なる神がともにおられ、ともに歩んでくださる。これが、私たちにとっての、何にも代えられない祝福、恵みです。物質的には、不幸や悲惨を被ることもあります。しかし世の人々のように、悲しみに沈むことはありません。主なる神は、どのような状況に置かれても、そこに私たちとともにおられ、私たちの最善を備えておられます。主なる神は、すべてのことを、益に変えることのできるお方です。だから私たちは、どのような状況に置かれても、平安があり、希望があります。感謝と喜びに生きることができるのです。
前回私たちは、パウロたちがアジア州ではなくマケドニア州でみことばを語ることを、聖霊の迫りを受け、その導きに従ってマケドニア地方第一の町ピリピで福音を伝えたことを見ました。リディアという女性が主イエスを信じたこと、彼女が自分の家を福音宣教の拠点として提供したことを見たのです。パウロたちは、主の導きを確信し、自分たちを主の働きに用いて、祝福しておられることを感謝したのではないでしょうか。
しかし、事はすべて順調に、とはいきませんでした。16節。パウロたちは、リディアの家を拠点とすることで、生活の心配がなく、福音宣教に専念でき、毎日祈り場に行って、祈り場に来る人々に主イエスを伝えました。すると占いの霊に憑かれた女奴隷、その占いで主人たちに多くの利益をもたらしていた女性が、毎日パウロたちの後について、人々にパウロたちを、神のしもべたちであると叫び続けたのです。
17~18節。パウロたちの困った様子が記述されています。この女性がパウロたちを、いと高き神のしもべたちと紹介し、救いの道を宣べ伝えていると叫び続けるのです。一見、このことは福音宣教のために良いと思えますが、実際には福音の妨げとなるのです。占いの霊に憑かれ、その占いがよく当たっていると評判の女奴隷です。嘘は言っていません。しかし人々は、女奴隷を通してパウロたちのことを知るのですから、占いに仕えている者と同質であると考えるのです。悪霊が人々を惑わし、本物から遠ざけていく、巧妙な仕業です。似て非なるもの、似ているけれど全く違うものに警戒しなければなりません。
困り果てたパウロは悪霊に命じます。この女奴隷から出て行けと。主イエスの権威で悪霊は女奴隷から追い出され、女奴隷は占いができなくなりました。
19~21節。主人たちは儲ける望みがなくなったので、パウロたちを公権力に訴えて、恨みを晴らそうとしました。22節。その訴えによって、パウロとシラスは捕らえられ、鞭で打たれるという、不当な扱いを受けたのです。役人たちは何の取り調べもしません。訴える者たちのたちの訴えを鵜呑みにして、よそ者であり、ユダヤ人でもあることへの偏見と蔑視もあったのでしょうか、何度も鞭で打たせた後、牢に入れたのです。
皆さまがこの時のパウロであり、シラスであったなら、どのように思い、どのような言動をするでしょうか。最初は、順風満帆に事が進んでいることに、主の大きな恵みと祝福を感じ、感謝したことでしょう。これからさらに大きな福音宣教の主のみわざが進み、救われる人々が多く起こされることを期待して祈り、意気揚々と働きを続けようとしていたかもしれません。その矢先の急転直下です。冤罪をかけられ、何の取り調べもされず、何度もむち打たれ、相当の傷を負わされ、足かせをかけられて、牢の奥に入れられました。どうしてと思うでしょう。どうして主なる神は不当な扱いを放置されたのか、どうして守ってくださらなかったのかと思います。主なる神に聞き従った結果が、このような悲惨な状況に落とされるとするなら、もはや主なる神を信じ、聞き従って生きることは止めた方がよいと思ってしまうでしょうか。みなさまならどう思い、どう行動するでしょうか。
パウロとシラスの様子を見ましょう。25節。真夜中ごろです。いつからそうしていたのかを聖書は明記しません。彼らは鞭で打たれた痛手の中で、祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていました。そしてその祈りと賛美を、他の囚人たちが聞き入っていたのです。不思議な光景です。牢の中です。荒くれ男たちもいたのではないでしょうか。普通に考えるなら、やかましい、静かにしろ、今何時だと思ってるんだなどの声が聞こえてきそうです。しかし現実は、囚人の皆が、パウロとシラスの神への祈りのことば、神に向かってささげる賛美の歌を黙って聞いているだけでなく、聞き入っていたのです。
どれくらいの時間、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美して歌を歌い、囚人たちはそれに聞き入っていたのでしょうか。そうして、突然、大地震が起こったのです。この出来事については、次回に読み進めます。
さて、パウロとシラスは、鞭で打ちたたかれ、投獄されるという、不当な扱いを受けているのに、神を賛美する歌を歌い、祈りを献げています。どうしてこのようなことができたのでしょうか。また何を祈り、どのような賛美の歌を歌っていたのでしょうか。私たちが天国に行ったときに、パウロとシラスに聞いてみたい内容の一つです。
初代教会のキリスト者たちが、降りかかる不当な扱いの中で祈った祈りが、使徒の働きにありますが、その一つを開いて、そこから想像してみましょう。
使徒の働きの4章に、ペテロとヨハネが、生まれて一度も歩いたことのない40歳ほどの男性を、主イエスの名によって歩くようにと招き、その男性がペテロを通して語られた神の招きのことばに同意したことで、歩けたという癒しをきっかけとして、ユダヤ当局に捕らえられ、投獄された出来事が記されています。二人が釈放され、どのような扱いを受けたかの報告の後で、初代教会のキリスト者たちが祈った祈りを確認しましょう。
4章29~30節。彼らは禁じられたことを力強く行えるようにと祈っています。主イエスのことを伝えるなら、どのような仕打ちを受けることになるかを自覚した上で、なお大胆にみことばを語らせてくださいと祈るのです。脅かしに怯むことのないように、さらに大胆に語ることができるようにと、主なる神の助けを求めています。そして31節。彼らは聖霊に満たされて、神のことばを大胆に語り出しました。
パウロとシラスもまた、不当な扱いを受けることになることは当然想定し、覚悟していたと思われます。彼らは、神のすばらしさを、神のすばらしい恵みのみわざを、そして自分たちが救いに与り、神のものとされたという事実を、その光栄を確認して、感謝していたのです。日頃から神をほめたたえて、喜び歌っていたので、不当な扱いを受け、痛めつけられた時にも、意気消沈したり、絶望的になり、自己憐憫に陥ってしまうのでもなく、神に祈りつつ、神を賛美する歌を歌ったのです。そして囚人たちも、また看守も、主の救いに与ることができるようにも祈っていたのではないでしょうか。
私たちも同じです。普段から、いつも神に祈り、神を賛美して歩んでいることが、突然のトラブルに巻き込まれた時にも、取り乱すことなく、惑わされることなく、いつもと同じように、神に祈りつつ、神を賛美する歌を歌うことができます。そうして、その状況の中で神のなさるみわざを、平安のうちに待ち望むことができるのです。
讃美歌を歌っていることが、神を賛美することになっているかと吟味しましょう。大事なのはどれだけ讃美歌を歌っているかではなく、神を賛美しているかです。讃美歌の歌詞に同意せずに、ただ歌を歌っているだけなら、自己満足の讃美歌歌いになります。私たちが身につけるのは、神を賛美することばを用いて祈り、神をほめたたえるので、讃美歌を歌うということです。歌いたい讃美歌、好きな讃美歌を、自分の心を喜ばせるために歌ったとしても、それは神を賛美していることにはなりません。そしてそのような状態であるなら、困難な状況に置かれた時に、神に祈りつつ、神を賛美する歌を歌うことはできなくなるということです。
日頃から、私たちは神をほめたたえましょう。その存在、知恵、力聖、義、愛、真実において、無限、永遠、不変である神をほめたたえるのです。神の救いのみわざ、恵みのみわざを覚え、救いと恵みに与った幸いと光栄を確認して、その神を賛美し、神に祈り、神を賛美する歌を歌っている日々の生活が大事です。日々の神との霊的な交わりの中で、神への賛美、神への祈りが生まれるのです。そのような信仰生活を身につけていくのです。
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