ダビデの生涯とその信仰姿勢を聖書から確認していて、その9回目となります。ダビデについての記録は、サムエル記第1、サムエル記第2、歴代誌第1と聖書の多くの章節が割かれています。一人の人物の地上生涯では、主イエスに次いで多い記録です。
ダビデは理想的な王としてユダヤ人たちに尊敬されています。ユダヤ人たちが待ち望んでいるメシヤはダビデの子と呼ばれるほどに、主なる神からの特別な栄誉を与えられているのがダビデです。
そのようなダビデも、いろいろと失敗をし、主のあわれみの中で守られ、導かれてきました。そのダビデの最大の汚点は、姦淫とそれを誤魔化すための殺人です。先ほど交読した箇所に記されています。ダビデほどの聖徒でさえ罪に引き込まれてしまうのですから、私たちも注意しておくことが肝要です。ダビデが誘惑に陥り、罪を犯すことになる要因と考えられるのが生活習慣の乱れです。
10章まででは、ダビデは軍を率いて戦いに出ていました。しかし11章1節。王国の安定が進んだということでしょうか、ダビデは部下たちを出陣させても、自分はエルサレムに留まっていたのです。しかも2節。ダビデは生活習慣を乱していました。いつしか夕方に起きるようになっていたのです。そのような時に、罪に陥ります。王としての成功がダビデを高慢にし、心が主なる神から離れていきます。生活習慣の乱れは、霊的に貧しい状態に陥らせることになり、誘惑に抵抗できなくさせ、罪に引き込ませるのです。
3節。ダビデは、沐浴していた美しい女性の素性を調べさせました。そして人妻であることを知った上でバテ・シェバを召し入れ、姦淫を犯すのです。5節。その結果として妊娠させます。ここからダビデの隠蔽工作が始まります。まず忠実な部下であるバテ・シェバの夫ウリヤを戦場から戻し、家に帰らせることで、お腹の子がウリヤの子であるかのように仕向けました。しかしウリヤは家に帰ることを頑なに拒んだので、この策略は失敗に終わります。次の策としてダビデは、ウリヤを合法的に殺害する計画を指示します。罪を誤魔化そうとすると、さらに大きな罪を犯すことになるのです。14~15節。
事態はダビデの思惑通りに進みます。ウリヤを戦場で戦死させたのです。そうしてダビデは、何事もなかったかのように、未亡人となったバテ・シェバを妻として召しいれます。このことでダビデを批判し、非難する人はだれもいません。これが王である者が手にしている権限です。王が白と言えば、黒も白になるのです。王としての権限でダビデは、姦淫と殺人という大きなしれっと罪を犯すのです。27節。
人の目を誤魔化すことはできます。王であるダビデを悪く言う人もいません。イスラエル国家を安定に導き、繁栄させた大功労者のダビデ、イスラエルの国王です。王は絶対的な権威を持っており、どれほどの残虐行為をしても、だれも罪に問いません。それが王であることの意味であり、この世の仕組みです。
しかし主なる神は、罪は罪として糾弾し、悔い改めへと招くのです。ダビデは主のみこころを損ないました。しかしだからすぐに断罪されるということはなく、悔い改めへの招きがなされます。主のあわれみは尽きないのです。哀歌3章22節にあるとおりです。
12章1節。預言者ナタンがダビデのもとに遣わされました。1~4節でナタンは一つのたとえを話し、ダビデの反応を見ます。ダビデはその非人道的な振る舞いをした男を非難します。彼の道徳的な判断は麻痺していなかったようです。5節。ダビデは、主は生きておられると語り、そんなことをした男は死刑だと断罪します。頭では正しいことが分かっています。客観的な事例については罪を罪とすることができます。しかし頭では悪であると分かっていても、自分の罪は除外するのです。良心が麻痺している状態です。自分が犯した悪は、それを正当化する理由をあげて、自分の心を偽るのです。
7節。ナタンに、あなたがその男だと糾弾された時、ダビデは客観的な事例としてではなく、当事者としての自分の行為に向き合うことになりました。主のあわれみはダビデに対して、罪を認めさせ、悔い改めに導いたのです。ダビデは素直に自分の罪を認めます。そして自分を神の御前に差し出し、赦しを求めました。13節。
そのようなダビデに対して、赦しの宣言がなされます。主なる神は自分の罪を正直に認め、罪の赦しを求める者に対して、その罪を赦されるのです。主もまた、あなたの罪を取り去ってくださったと、主からの赦しの宣言を受けることができました。私たちも同じです。私たちのために、神の子キリストが十字架で身代わりに罪の処罰を受けて、私たちに罪の赦しが差し出されています。私たちも自分の罪を正直に認め、罪を悔いて改め、赦しを請うなら、神は私たちを憐れみ、赦してくださるのです。主のあわれみは尽きません。
しかし義なる神は、罪の結果を見過ごしにはされません。罪は罪として徹底的に憎まれる主なる神は、罪の結果の刈り取りを命じるのです。14節。姦淫を犯し、その罪を隠蔽するために殺人を犯したダビデ、そして何事もなかったかのようにしてバテ・シェバを妻に迎えたダビデに対して、生まれる子を取り上げるのです。
あわれみ豊かな主なる神は、罪を認め、悔い改める者の罪を赦されるお方です。罪を犯さなかった者と見なしてくださいます。同時に、義であり、聖なる神は、罪の結果を放置して、何もなかったかのように曖昧にはしません。罪の刈り取りをさせるのです。
罪の刈り取りをするダビデを見ましょう。15節。主はバテ・シェバが産んだ子どもを病気にしました。ダビデは主にあわれみを求め、断食をして、子どもの癒しを祈り続けました。そして一週間が過ぎます。18節。一週間の断食の祈りにもかかわらず、その子は死にました。家来たちの考えと行動は理解できますね。
19節。ダビデは家来たちの様子から、子どもの死を悟ります。そして20節。一週間、断食して祈っていたダビデは、まずからだを洗い、身に油を塗り、衣を着替えて、つまり主の御前に出るために正装してから、礼拝を献げたのです。そして家に帰り、食事を取りました。この一連のダビデの行為は、家来たちには理解できませんでした。
21~23節。ここにダビデの、主の主権にすべてを委ねる信仰姿勢が現れています。子どもがまだ死んでいない時、主のあわれみを求め続けたのは、主が許可してくださるなら、子どもは癒されるという確信があったからです。いのちを司っておられる神は、子どもの病気がどれほど重篤であっても、それを完全に癒すことのできる全能の神です。だからダビデは主のあわれみにすがって、心からの祈りをささげました。
しかし子どもの死がはっきりした時、主なる神の答えは明確になりました。あなたに生まれる子は必ず死ぬと言われた神のお考えは変わらなかったということです。そこでダビデは主なる神に対して礼拝を献げます。主のなさることは正しいと認めているからです。そしてこのような信仰を持つダビデは、主なる神に愛されます。
私たちもダビデに信仰の姿勢を学びましょう。自分の希望をそのまま主なる神に訴えることは許されています。心を注ぎ出しての真剣な祈りを主なる神は喜ばれます。しかしだからといって私たちの願い通りに事を行われる神ではありません。私たちは祈りの結果をそのまま受け入れることが大事です。祈ったとおりに叶えられたなら、主の恵みとして感謝をささげることはだれにでもできます。祈ったとおりに叶えられなかった時に、その結果をそのまま受け止め、主なる神への礼拝を献げるほどに、主の主権を覚え、主に感謝を表す私たちでありたいのです。そのような信仰者として整えられましょう。
ダビデに対する、罪の赦しと罪の刈り取りを見ました。ここで終わっていません。主なる神は恵み豊かで、あわれみに富んでおられ、希望に満たしてくださるお方であることを私たちは知らされます。24節。罪の結果は刈り取られますが、その後大きな慰めを与え、あふれるばかりの恵みのみわざを、主なる神はダビデのためになされるのです。
姦淫と殺人によって妻としたバテ・シェバによって、ダビデにソロモンが与えられました。そうしてソロモンを通して、イスラエルの国家はさらに繁栄を築くことになります。
ダビデは自分の罪を正直に認めました。心から悔い改め、罪の赦しを求めました。そのようなダビデを主なる神は大きな愛と恵みで導いてくださったのです。13節だけを見て、罪の告白と罪の赦しはあまりにも簡単だと勘違いしてはなりません。ダビデは罪の刈り取りさせられ、それを主のみわざとして受け止めました。罪の大きさを自覚したからです。
このことは、ダビデの作である詩篇51篇で確認できます。1~4節。ダビデは、主なる神への罪と自覚したこと、そして罪の赦しを心から求めたことが分かります。私たちは何らかの罪を犯した時、それを主なる神に対しての罪であるという自覚を持ちたいのです。この自覚がなければ、罪を告白し、罪の赦しを求めたとしても、それは表面的になるということです。だから悔い改めても、再び、しかも同じような罪を犯すことになります。4節が大事です。私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に、悪であることを行いました。私たちも同じ自覚を持つ信仰者となりましょう。
16~17節。罪の赦しを受けないままでは、どれほどの宗教的な儀式も、主なる神は喜ばれません。この自覚と姿勢があったことが、初代の王サウルとの根本的な違いです。サウルは罪を指摘されても、その罪を罪として素直に認めず、心から罪の赦しを請うことをしませんでした。ただその場しのぎの表面的に繕って終わらせたのです。ダビデは、心から罪の赦しと罪からの解放を求めました。主なる神だけが、自分を罪から救うことができると信じたからです。ダビデはイエス・キリストの十字架は知りませんが、罪からの救い主としての神を仰いでいました。そして主なる神は、そのような心を喜ばれるのです。
初代の王サウルは心を変えようとはしませんでした。二代目の王ダビデは主に愛される者であろうと、自分を保ち続けたのです。私たちもダビデのような心で主なる神に仕えたいのです。主なる神はうわべを見ません。主は心を見るのです。主は私たち一人一人の心のありようを見られます。主を信頼し、主の心を自分の心として、主なる神に聞き、それを行う私たちであろうとしましょう。
罪の結果は刈り取らなければなりません。私たちは、主のみわざに自分を明け渡し、主の主権に自分を委ねて、主の取り扱いに自分を任せることが大事です。そうする時、私たちもまた、主の最善のみわざに与ることになります。主なる神はいつでも、私たちのための良いことを備えて、その祝福を味わわせようとしておられるのです。主の恵みと祝福をいつも味わう信仰者でありましょう。詩篇51篇17節。
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