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2023年2月5日 礼拝「御子と聖霊と私たち」ヨハネの福音書16章1〜7節

  • hikaruumichurch
  • 2023年2月5日
  • 読了時間: 7分

 主イエスは十字架での死を目前に控えて、弟子たちに遺言を残しています。その中で、今日私たちは、主イエスに従う者たちが、主イエスを信じない者たちから迫害を受けることになるけれど、その直中にあっても、主の守りがあるとの約束を確認します。主イエスは勇気を出すように、平安のうちを歩むようにと弟子たちを励ますのです。33節。


 1節。主イエスは弟子たちに、どのような状況に陥ったとしても、つまずくことのないために話していると言います。つまずく要因として考えられるのは15章18~21節です。神の子が人として地上に来られました。神そのもののお方が人となられたのです。それは十字架で罪人に赦しを与えるために、身代わりの処罰を受けるためです。神の救いの方法が救い主、キリストが殺されることであるとは、旧約聖書で預言されていたことです。しかし神の民イスラエルは、神のことばに聞くのではなく、自分たちの宗教を作り上げ、人となられた神の子イエスを約束のメシヤとは受け入れようとしなかったのです。


 その結果、ユダヤ教指導者たちを中心に多くのユダヤ人は神であると主張するイエスを認めず、神を冒瀆する者として憎み、退けました。創造者である神を信じていると主張する神の民が、特に宗教指導者たちが、メシヤ、キリストとして遣わされたイエスを憎み続け、十字架で処刑するための計画を練り、それを実行しようとしているのです。


 これは神への反逆です。しかし創造者である神はそれを、罪人への救いのために用いました。ただ、主イエスが迫害を受けるのであれば、主イエスに従う者たちも迫害を受けることは避けられません。20節で明言されている通りです。


 主イエスの弟子たちをつまずかせるのは、創造者である神を教えてきた宗教指導者たちがイエスを、イエスに従う者を迫害することです。ですから、イエスを信じ、従うことは本当に正しいことなのかと不安になるのも当然です。そして実際にイエスは殺されます。自分たちを救う、待ち望んできたメシヤ、キリストであると信じてきたお方が殺されるのですから、つまずきとなるのは当然です。だから主イエスは予告するのです。


 2節。神の民として選ばれ、自分たちこそ神の民だと自負しているユダヤ人たちが、主イエスを信じる弟子たちを、ユダヤ教社会から排除します。それが会堂からの追放という宗教共同体からの排除です。その行為が、神に奉仕しているという意思の表明です。そうして主イエスの弟子の中には殺される者も出ます。


 3節。ユダヤ人たち、特に宗教指導者たちが、主イエスと主イエスの弟子たちを迫害するのは、父なる神をも、子なるキリストをも知らないからです。彼らは神について知っています。神について解き明かしもします。しかし神を知りません。知識としては知っていても、自分の神として体験していないのです。父なる神との、人となられた子なる神、キリストとの人格的で、霊的な交流を持っていないので、神をも、キリストをも、味わい知ることをしていないのです。私たちも気をつけなければなりません。神を知っている、キリストを知っているとどれだけ口にしても、神についての知識、キリストについての知識は豊富だけで、父なる神を、キリストを、聖霊を、体験的に味わうという意味で知らないこともあるのです。多くのユダヤ人は神について、キリストについて、豊富な知識がありました。そうして自分なりの考えで、神について、キリストについて、結論づけています。しかし父なる神を、子なるキリストを、体験的に知ってはいなかったのです。


 4節。主イエスが弟子たちに前もって語られたのは、ユダヤ社会で迫害され、排斥されることが現実となったときに、言われていた通りだと確認するためです。私たちも覚悟を決めておくことが大事です。自分も迫害されることはあり得ると。


 5節。いよいよ主イエスの人としての使命を終える時が来ます。子なる神、キリストが肉体を取り、人となられたのは、十字架で身代わりに処罰されるためです。その使命を終え、罪人に罪の赦しを備えたなら、父の許に、主イエスを遣わされた方の許に戻るのは当然です。それを聞かされた弟子たちの心が悲しみでいっぱいになるのも分かります。6節


 7節。しかし、と主イエスは言われます。主イエスが父なる神の許に戻られることは、弟子たちの益になると言うのです。なぜなら主イエスが去って行くことで、もう一人の助け主、聖霊なる神が来られるからです。聖霊は、あたかも主イエスが助けるように助けるという意味で、もう一人の助け主です。14章16節にある通りです。聖霊はいつまでも主イエスを信じる者とともに、17節、主イエスを信じる者のうちにおられます。さらに26節。聖霊はすべてのことを教え、主イエスが話したすべてを思い起こさせます。


 主イエスが見える姿で側にいてくださることは、弟子たちには大きな励ましであり、安心を与えたことでしょう。しかし四六時中一緒にいることは物理的に不可能です。これが神の子、キリストが肉体を取られたことによる制約です。子なるキリストは人となられたことで、神の特性の一つ、遍在、あらゆる所に同時におられ、満ち満ちているというあり方を捨てられたのです。パウロがピリピ人への手紙に書き記しています。「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、人間と同じようになられました」。遍在という神の特性を捨てたのです。


 主イエスがいなくなることは、弟子たちに不安を与えます。しかし33節。弟子たちはどのような状況に置かれたとしても平安を得るのです。それは助け主の聖霊が主イエスを信じる弟子たちとともに、弟子たちのうちにおられるからです。私たちが不安になるのは、神がともにおられることが分からなくなるときです。しかし私たちの神は、私たちとともにおられます。困難な状況に置かれても、迫害の直中にあっても、そこにいつも、神はともにおられ、私たちを支え、守り、神の備える最善へと導いてくださるのです。


 父なる神の約束は、主イエスを信じる者の心に、賜物として聖霊を宿してくださることです。私たちが主イエスを信じる、すなわち人となれた神、主イエス・キリストの十字架での死と復活によって罪の赦しと罪からの救いが備えられたと信じるなら、罪が赦され、神の子どもとなる特権が与えられ、賜物として聖霊が心に住んでくださるのです。


 旧約聖書に、主は私たちの神、主は唯一であると、神はご自分を現されました。その神が、新約聖書で、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神として私たちと関わりを持ちます。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は、三位一体の神です。父、子、聖霊は人格としては違っているけれど、神として同等、同質の、唯一のまことの神です。私たちは、父、子、聖霊の神を混同してはなりません。また切り離してもならないのです。


 人としてこの世に来られた子なるキリストは、十字架での死と復活によって、私たちに罪の赦しと罪からの救いを備えて、この世を去られました。そうして今、主イエスを信じる私たちの心には、もう一人の助け主である聖霊が、賜物として遣わされて、私たちのうちに住んでおられるのです。そして聖霊を宿している私たちの心には、子なるキリストがおられ、父なる神もいてくださいます。三位一体の神が聖霊によっておられるのです。


 だから心配しなくてよいのです。勇気を出しなさいと命じられます。世に勝たれた主イエスが、私たちに世への勝利を約束しておられます。世と世の論理に惑わされてはなりません。世はまことの神に反逆します。そうしてまことの神を信じ、主イエスを信じる者、主イエスに聞き従う者を排除しようと、様々な戦いを仕掛けてきます。苦難を覚悟しておくことは大事です。でも大丈夫です。勝利者が、私たちに地上生涯を許可しておられる期間は、すべての危害から私たちを守って、私たちに勝利を与えてくださるからです。


 7節。主イエスの約束を再確認しましょう。助け主が世に遣わされました。そして主イエスを信じる私たちの心には、いつも聖霊がおられます。その聖霊にあって、キリストご自身が私たちのうちにおられます。御子と聖霊と私たちの関係を再確認しましょう。私たちキリスト信仰者のうちに、キリストがおられるのです。だから私たちの地上生涯がどのようであっても、どれほどの苦難に見舞われたとして、いつでもキリストがともにおられるのです。私たちは天に国籍を持つ者、天の御国の市民として、この世に遣わされています。主イエスが私たちを遣わされたのですから、主イエスにあって私たちも、この世で圧倒的な勝利者として歩むのです。これが私たちの益になると言われた根拠です。


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