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2023年1月29日 礼拝「福音宣教への参与」使徒の働き16章11〜18節

  • hikaruumichurch
  • 2023年1月29日
  • 読了時間: 9分

 使徒の働きからの学びを再開します。今日で18回目になります。16章10節。トロアスで、使徒の働きの著者ルカがパウロに同行しました。ルカが同行しての最初の伝道の記録が、ギリシア、マケドニア州にあるローマの植民都市ピリピでの福音宣教です。


 今日私たちは、この町でひとりの女性が主イエスを信じ、救われたことを感謝して、その女性が自分にできることで、パウロを通してなされる主の福音宣教のみわざに参与することを願い、申し出たことを確認します。私たちもその信仰の姿勢に倣いたいのです。


 12~13節。パウロたちは、この町で数日を過ごして、福音を伝えるための場所を調べました。そうして川岸に向かったのです。敬伲なユダヤ人たちの祈りの場があると考えたからです。ピリピの町にはユダヤ人の会堂がなかったということが分かります。ユダヤ人の成人男性が10名いなければ、その町に会堂を立てることはできません。つまりピリピにはユダヤ人男性があまりいなかったということです。パウロたちは川岸に祈り場を見つけ、そこに集まってきた女性たちに福音を伝えることにしたのです。


 14節。その祈り場にリディアという女性もいました。彼女は神を敬う敬伲なユダヤ人女性であり、この祈り場でいつも祈りをしていた女性仲間の一人だったのでしょう。神の恵みの場にいる者たちが神の特別な恵みに与る機会に触れられるのは当然です。この場所に神に祈るために集まっていたことが、パウロを通して語られる福音を聞く機会となりました。そうして神である主はリディアの心を開いて、パウロが語る福音に心を留めるようにしてくださったのです。リディアは主イエスをさらに知りたいと願いました。


 リディアについては、紫布の商人であると紹介されています。アジア州のティアティラ市の商人で、ピリピでの販路拡大のために来ていたのかもしれません。紫布は高価な商品であり、その商品を扱うリディアは、それなりに裕福であったとも考えられます。


 15節。そうしてリディアはパウロたちを家に迎えて、家族の者たちとともに、さらに正しく福音を聞いたのだと考えられます。何日の間、家庭集会が開かれたのでしょうか。リディアと彼女の家族は福音を、すなわち主イエスを、またイエスの十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いを知らされ、リディアも、彼女の家族も、十字架につけられたイエスを待ち望んでいたメシヤ、キリストと受け入れ、自分の救い主と信じてバプテスマを受けたのです。そうして救いに与ったリディアは、救い主のお役に立ちたい、自分にできることで、福音宣教の主のみわざに参与したいと、パウロたちに懇願したのです。


 「私を主を信じる者だとお思いでしたら」と訴えます。脚註を見るなら、「主を信じる者」は「主に対して真実な者」と言い換えられます。私たちのキリスト信仰も同じです。私たちもまた、主キリストに対して真実な者であるかを吟味するのは大切です。私たちはキリスト信仰者として、主に対して真実な者であることを追い求めましょう。


 リディアは、自分にできる、主に対して真実なことは何かを考え、自分の家を福音宣教の拠点として用いることで、主のみわざに参与させてほしいと願い出たのです。


 16節。福音宣教の拠点が与えられたことで、パウロたちは日々の生活に対する心配がなくなり、福音宣教に全精力を傾けることができました。落ちついた状況の中、毎日のように祈り場に向かい、そこに集まってくる人たちに福音を伝え続けたのです。


 リディアのように主体的で、自発的な協力を、主なる神は喜ばれます。そしてそれを用いて、ご自分の働きを進めるのです。パウロもまた、この申し出を喜びました。その思いをピリピ人への手紙で明らかにしています。1章3~5節。パウロとピリピの聖徒たちの親密な関係として記すのです。パウロはピリピの聖徒たちが福音を伝えることにともに携わってきたこと、それも最初の日から今日までと、ずっと一貫して携わってきたことを、心から神に感謝し、喜びをもって祈り続けていたと告白するのです。


 ピリピの聖徒たちは、ピリピの町で福音が伝えられ、信じ救われたときにリディアに与えられた信仰姿勢を、良い模範として引き継いでいたと思われます。救われた感謝と喜びを、どのように主にお返しできるかを考え、自分にできることを主のために、主の働きのために、喜んで献げたいと思う思いをもって自分を差し出す信仰の姿勢をです。


 4章15節。パウロは第二次伝道旅行での、ヨーロッパ宣教で救われたピリピの聖徒たちがなした福音宣教への参与を手紙に書き記しました。ほかの町や村でも救われた人々はいたけれど、パウロを通しての福音宣教という主のみわざに参与したのは、ピリピの聖徒たちだけであったと。パウロは自分を支援しなかった聖徒たちを非難してはいません。元々具体的に支援者を想定して当てにはしていないのです。だから支援が全くなくても、それで意気消沈することはしません。4章11~13節で告白している通りです。


 当てにはしていないけれど、具体的な支援が与えられることは大きな励ましであり、喜びとなったことは事実です。そしてその喜びを素直にことばにしました。16節。霞を食べて生きているわけではないので、生活の必要は多々あります。その必要を主なる神が備えてくださるという確信はあります。地上生涯が許されている間、父なる神は私たちの必要を満たしてくださるとの約束があるからです。だから心配しません。ただ具体的な支援者が与えられることは大きな励ましです。ピリピの聖徒たちが2度までも物を送ってくれたことは、パウロを喜びで満たし、祈られているという大きな励ましとなったのです。


 さて紫布の商人リディアがどれほど裕福であったのか、その詳細は分かりません。もしかしたら商売そのものがうまくいかなかったとも考えられます。リディアについての記述はこの箇所にしかありませんから、実際がどうであったかは分かりませんが、ただコリント人への手紙第2からピリピの聖徒たちの状況を窺うことはできます。


 8章1~4節。マケドニア州に点在する諸教会は極度の貧しさの中に置かれていました。ピリピの教会、聖徒たちが中心であったと考えられます。彼らは極度の貧しさと言われる状況にありながら、エルサレムの聖徒たちを支えていました。マケドニアのキリスト信仰者たちは満ちあふれる喜びの中にあったということです。私たちも味わいたいのです。経済的に苦しい状況の中に置かれながらも、満ちあふれる喜びを味わうという体験です。彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げたのです。聖徒たちを支える奉仕の恵みに与りたいと願ったからです。


 このような考えを世の人々は持たないと思います。まず自分の必要を満たすことが重要であり、それができたなら、他者を助けることもできると考えるのは一般的でしょう。しかしキリスト信仰者は全く違った論理に生きています。自分も貧しいけれど、困っている人がいるなら、自分の力に応じて、時には力以上に支えたいと願う者となるのです。なぜこのような思い、考え方ができるのでしょうか。それはあふれる喜びから来るということです。神の一方的な恵みで救いに与り、この世の物質的な豊かさや貧しさに右往左往させられることから解放され、主が備えてくださる状況の中で、主とともに、主にあって、主のために自分ができることを喜んで行う者へと変えられていくからです。


 だから彼らはパウロの必要を満たそうと考え、自分にできることをしました。リディアは自分の家を開放して、パウロたちが福音宣教の主のみわざに集中できるように環境を整えたのです。パウロたちを通してなされる福音宣教という主のみわざに参与させていただきたいと願った結果です。私たちも同様の信仰姿勢を身につけたいのです。


 再度ピリピ人への手紙で確認しましょう。4章17節。15~16節の記述が、物質的な支援を求めていると捉えられないように、贈り物を求めているのではないと書き記しました。11~13節で述べたことを再確認させるのです。パウロは物質的な支援が必要だから、それを求めたのではありません。主なる神は必要を満たしてくださると確信して、主とともに、主にあって、主のために歩んできたし、今も歩んでいるのです。その主なる神がピリピの聖徒たちを用いて、自分の物質的な必要を満たしてくださったことを喜び、ピリピの聖徒たちに感謝を表明しているのです。その上でピリピの聖徒たちが、進んで主の働きのために、自分のできることを喜んですることを励まし、結果として主からの霊的な祝福があることを確認させるのです。


 17節後半でパウロは、私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのですと書き記しました。私たちの目も、神が備えてくださる霊的な祝福に向けたいのです。地上にどれだけの富を築いたとしても、それはいずれなくなります。また役に立たないまま放置されることになりかねません。そうではなく、主に用いられることを考えることが大事です。この地上での物質的な口座からはなくなるかもしれません。しかしその分、天に備えられている霊的な口座が増えているという事実に目を向けたいのです。


 2コリント9章6節。豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。これは農業における真理ですが、主のために用いることに対しての霊的な真理でもあります。ただし7節。惜しむ思いがあるうちは、なぜ惜しむ思いになるのかを、主の御前で考えることが大事です。いやいやながら、また強いられてなすことは主が喜ばれることではありません。喜んで与える人にならせていただきましょう。神は特別な愛で愛してくださいます。


 私たちは主イエスを信じる信仰によって、罪からの救いに与り、滅びからいのちに移された者として、神の恵みを味わったのですから、霊的な真理に基づいて、自分に委ねられているものを正しく管理し、主に喜ばれる用い方をしようではありませんか。


 使徒の働き16章15節。再度リディアのことばから、その信仰の姿勢を倣いましょう。私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください。私が主に対して真実な者だとお思いでしたら。私たちも、主なる神に対して、真実な者として歩むことを追い求めてはどうでしょうか。自分ができること、自分のすべきことを、主の御前で静かに考え、それをもって主のみわざに参与させていただくのです。一人ひとり、具体的な行為は異なるでしょうが、信仰によって主に仕えようとする姿勢は同じです。そうして、主に用いられる者となり、主のみわざに参与することで、霊的な口座に加えられていく実を見せていただきましょう。


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