2023年1月22日 礼拝「『空』の人生で終わらせないために」伝道1:1~18
- hikaruumichurch
- 2023年1月22日
- 読了時間: 9分
皆さまは、これまでの自分の人生を振り返って、どのような思いを持つでしょうか。年が若い人たちは、自分の人生を振り返ることなど、あまりしないかも知れません。しかし年を重ねて、自分の生涯が残り少なく感じられると、自分の人生を振り返ることも多くなるのではないでしょうか。
あなたはどうですかと聞かれるなら、私は人生を振り返って思い込むことはなくなっているように思います。自分で自分の過去を評価したり、人にどう見られているかを気にしなくなっているからかもしれません。私が気をつけているのは、神の御前でどうあろうとしているか、何をしようとしているかという、神の目です。そして神の御前に誠実に、忠実に、また熱心に仕えているなら、結果はどうであっても、それで良いという、良い意味での開き直りが与えられているからとも言えます。
私たちは神の恵みによって生かされ、神が許可された範囲で結果を残すのであって、創造者である神が私たちの結果を評価することはなさいません。神が見ておられるのは、私たちが何かをする、その動機であり、経過です。私たちは結果で物事を考え、評価する生き方から解放されましょう。何をしたかではなく、どのような思いでしたか、その心を、主なる神はご覧になり、評価なさるのです。そして、今日確認したい結論を言うなら、そのような人生であるなら、『空』で終わることはないということです。
12節。伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であったと記します。伝道者の書は、イスラエルの一人の王様が、自分の生涯で試みたことを振り返って見て、そこで経験してきたことを基にして書き記したものです。伝道者は自分のこれまでの生涯を反省する思いを込めて、この地上での生涯を与えられた者たちに対して、その生涯をどのように生きることが最も幸いであるかを伝えています。この伝道者の書には、自分と同じ間違いを犯さないでほしいとの思いが全体を貫いています。『空』と評価される生涯ではなく、喜びと感謝に満ちた、創造者である神にあって幸いであったと言える生涯があるから、そのような歩みをしほしいとの願いを込めて、この伝道者は語りかけるのです。
伝道者は、この書の最後のところで、人に与えられている根本的な生き方を確認し、そのように生きるべきことを語りかけています。12章13節。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。そしてこの生き方を可能にするのは、自分の創造者を覚えることです。12章1節。
伝道者として語っている彼も、神とともに、神によって生きることが最も幸いであると聞かされていました。幼い頃から神の律法を教え込まれていたのです。しかし彼は、その生涯の多くの時間を、聞かされていたようには、つまり神と共に歩み、神の命令に従って生きようとはしてきませんでした。そしてその生涯は『空』であったと告白して、今からでも遅くはない、その聞かされている幸いな生き方に進むようにと促しているのです。
でも若いうちは、そのようなもっともらしい生き方を伝えられても、そうは言っても、自分はね、と野心と野望を抱いて、肉の頑張りで、神とは無関係に、自分に与えられた才能や可能性を最大限に引き出そうと突き進もうとするかもしれません。
キリスト信仰者の皆さま。ぜひ考え、警戒してほしいのです。それは主イエスの警告です。「その日には、多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」
これほど悲惨な宣告はありません。彼らはイエスを信じ、イエスの名によって不思議なわざを行いました。イエスの権威によって預言をし、イエスの権威によって悪霊を追い出し、イエスの権威でたくさんの奇跡を行ったのです。しかし彼らの人生は『空』で終わることになりました。彼らの活躍を見た人々は、彼らの信仰をほめ、イエスの名によってなされた素晴らしいわざを見て、イエスを主と信じる人々もいたことでしょう。しかし人が評価する結果とは裏腹に、主イエスの厳粛な宣告がなされるのです。わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たちと、言われてしまいました。マタイ7章21~23節
彼らが行った不思議なわざは、父なる神のみこころではありませんでした。彼らは、自分の野望や野心をイエスの名によって実現していたということです。結果で勝負するのはやめましょう。どのような結果を生みだしても、それが私たちを、神の御前で正しいとすることにはならないのです。結果で評価を得ようとする時、人にどう見られるかに関心が向けられ、主なる神に聞き従うことが何かを見失わせます。結果は神の領域であり、主の主権によることです。私たちが心を向けることは、今していることは、神に聞き従おうとしていることなのかどうか、それだけです。そのような心で歩んでいるなら、間違った歩みになったとしても、早い段階で、主ご自身によって正していただけるのです。
『空』と訳されたことばの原義は「息」です。『空』の人生とは、息のようにはかなく消えてしまうものということです。何も残らない、何の意味も持たない、振り返ってみてそこに何の意義も見いだせないということです。いろいろなことに精力を使い、その時その時に充実感を味わい、それなりに満足する結果を残したと感じられたことが、実ははかなく消えてしまう息のようなものであったと、伝道者と自称するこの人物は告白します。空の空。すべては空と。その時その時には一所懸命に生き、良かれと思うことに精力を向けてきました。しかしそれらの生涯は覚えられず、その足跡は残らず、忘却の彼方に消えていくのです。まさに『空』です。
3節。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうかと記します。一時的には評価され、称賛され、記念されるかも知れません。しかしその足跡は忘れられ、彼の業績は消えてなくなります。日の下で行われる労苦は、日の下で忘れられていくということです。息のように消えてしまう。そのような意味で空しいのです。
伝道者の書全体を貫いていることばは『空』、空しいですが、もう一つのことばは、「日の下で」、「天の下で」です。これらは、この世の論理で、主なる神とは無関係に、との意味合いです。日の下がすべてであり、主なる神のみこころを行おうとする思いは念頭にない歩みです。日の下でどう成功させるかに夢中であり、天地万物を創造された主なる神との関わりを軽視、無視してなす地上での働きです。
自分をも含めた人の良い評価は、その時その時には、気分を良くするものです。しかしそれらは、神の御前では意味を持たなかったと伝道者は告白します。つまりその時代に優れたことと評価されても、それらは以前にも、またこれからも同じように優れたこと、いやそれ以上に優れたことがなされ、それ相応の評価をその時代の人々から受けます。だから大したことではなく、主なる神に評価されるに値することではないと言うのです。
4~11節に記されていることが、まさにこのことです。その時その時の事柄は特別なように思われるけれど、それらはみな同じようなことの繰り返しです。時代は変わります。しかし地は何も変わりません。日は過ぎていきます。しかし同じことが繰り返されます。9節最後。日の下には新しいものは一つもないのです。どれほど技術が進み、一見新しいものが作り出されたと見えても、それは前にあったものの焼き直しであり、神の創造のわざの応用であり、その材料も、神が創造された資源です。そして各時代の貢献も、その時代の人々には大きな注目を浴びても、時と共に忘れ去られてしまうのです。11節。
では私たちの働きや営み、そしてわざはどのようであるとき、真に意味のある、価値のあるものとなるのでしょうか。どなたが私たちの存在の意味を、そして生きていた時に為した一つ一つの働きやわざを意味あるものとみなされるのでしょうか。
3章11節。ここに神が、私たちの心に永遠を、つまり永遠への思いをお与えになったと記します。地上のことに思いを向けやすい私たちは、永遠の時の流れでの今を、日の下での今を考える者とされています。主なる神が永遠を私たちの心に与えました。これは大きな憐れみです。この地上生涯がすべてと考えて今を生きるのと、永遠の中での今を考えて生きるのでは、同じ今を生きるとしても、全く別の意味あいが生じるはずです。
今がすべてなのではありません。今を生きる自分がすべてではないのです。永遠の中での今を私たちは生き、今私たちを生かしておられる創造者である神に聞くことをせずに今を生きる時、私たちはその時その時の独善的な判断で事を進めることになり、独りよがりの人生を歩むことになります。その生涯は『空』であり、日の下で忘れ去られるのです。
一方、主なる神と共に歩み、神に聞いて生きる生涯は、神が責任をとってくださる生涯です。その生涯は、たとえ人間的には評価されないとしても、主なる神に覚えられています。神が称賛し、受け入れるという聖書のことばがあります。「兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」『空』の人生か、無駄でないと言われる人生かは、日の下だけの労苦か、主なる神にある労苦かで変わるのです。
エルサレムでイスラエルの王であったと自己紹介をした伝道者は、自分より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えたと言い、だれよりも多くの牛や羊を持ち、だれよりも偉大な者となったと言いきります。しかもその知恵は自分から離れなかったと。しかしそのすべては『空』であったと告白するのです。なぜでしょうか。
彼は、莫大な富と、王としての権力で、自分のしたいことは何でもしました。追求できる快楽のすべても味わいました。彼は、日の下でどんなに労苦しても、それは人にとって永続するような価値は残さない。真の益を生み出すことはしない。ならば、快楽を味わってみよう。人生、おもしろ、おかしく過ごす方が良いではないかと考え、自分の王としての立場を用いて、できうる限りの快楽を追い求めたのです。
また彼は、豊富な経済力と多種多様な知識で大きな事業を興し、それを成功させました。優れた知恵を用いて多くの知識を民に教え、社会的に安定した国を作り上げました。しかしそれもまた、一時的なものだと彼は言います。自分が労苦して築き上げた業績は、結局は後継者に残すことになり、その後継者が知恵ある者か愚か者か、だれに分かろうと述べます。自分が日の下で骨折り、知恵を用いてなしたすべての労苦を、その者が支配することになるのです。だから、これもまた、むなしいと。
伝道者の書を通して、私たちは、彼が何をしたのか、彼が導き出した結論は何かを知ることができます。どれほどの業績を残したとしても、快楽を追い求めたとしても、『空』で終わる人生になる。創造者である神と無関係に行われる営みのすべては『空』であると伝道者は結論づけました。『空』の人生で終わらせないためには、あなたの若い日に、すなわち今、あなたの創造者である神を求め、自分の神とすることが必要不可欠です。




コメント