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2023年1月15日 礼拝「主が祝福されたので」Ⅱサムエル7:18~29

  • hikaruumichurch
  • 2023年1月15日
  • 読了時間: 9分

更新日:2023年1月19日

 私たちが信仰生活を続けるにあたって、主なる神に祈ることは日常茶飯事ですが、私たちは日頃、どのような祈りを神に献げているでしょうか。今日の箇所にダビデが祈った祈りが記されています。今日私たちは、ダビデの祈りを確認することで、私たちの祈りとその姿勢とを点検して、真に祝福された祈りを献げる者へと整えられたいのです。


 ダビデがこの祈りをささげたその背景が、今日の交読箇所1~17節です。1節。ダビデの辛く苦しい時期は過ぎ去り、今ダビデは、王としても、国としても、安定が与えられ、安息を味わうことができています。それでダビデは、主のために、主の臨在の象徴である契約の箱を安置する宮を建てるべきではないかと考えました。その思いが2節です。結果として、主なる神はダビデが宮を建てることを許可なさいませんでした。この時主は、ダビデに対する将来の計画を知らせたのです。その約束の知らせを受けて、感謝の祈りをダビデは献げます。これが今日私たちが確認しようとしているこの祈りの背景です。


 まず私たちが教えられ、また覚えておくべき点は、すべてのことはいつも、主の恵みから始まっているということです。この時のダビデは、この真理を忘れていました。自分は主のために何をすべきかを考え、それを預言者ナタンに申し出ます。2節。当初ナタンはダビデの思いを聞いて、それを喜び、実行するようにと促すのです。3節。しかし主なる神の考えは違っており、そしてダビデの間違いを正されたのです。それが4~17節です。


 もう一度1節。聖書は何と言っているでしょうか。主なる神がダビデを守られたので、今ダビデには安息が与えられていて、自分の家に住むことができています。主が祝されました。だからダビデは祝福されています。主が守られ、安息を与えました。だからダビデは自分の家に平穏に過ごしているということです。


 私たちが主のために何かをしたいと考える、そのこと自体は主に喜ばれます。そして主は、そのように考える私たちを喜び、大きな恵みを注いでくださいます。しかしここで私たちが確認し、注意すべきことは、私たちがそれをしなければ、主は困るのではないかと考えることです。主は私たちのお世話を必要としているかのように考えることは、私たちが自分を優位に立たせ、結果として主を貶めていることになるのです。この間違いに陥らないように警戒しなければなりません。私たちは何かを主のためにすると考えることで自分を優位に立たせるのではなく、主は私たちを用いて何をなさせようとするのかを考え、自分を差し出して用いていただくことが、主なる神を真に崇めることなのです。


 もしかしたら、無意識の中で、ダビデにそのような思いがあったのかも知れません。だから主なる神は、ご自分とダビデとの立場を確認させたのです。5~7節。ご自分がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出し、これまでずっと、天幕にいてイスラエルを導くという方針を取ってこられました。天幕を臨在の象徴にしてきたことは、イスラエルの民に放置された結果ではなく、神ご自身の意思によることです。そして優位に立っているかのように錯覚しているダビデに対して、8節以降で、ダビデを立て、ここまで導き、祝福してきたのはご自分であること、そしてこれからもまたダビデを祝福し、その家を堅く建て上げることを約束されるのです。8~9、12~13節。


 これらの主のことばを受けて、ダビデは自分がいかに浅はかであり、高慢であったかを認め、遜って主の偉大さを賛美し、また主なる神が、自分のために立てておられる計画に感謝して、心からの祈りで主に応えているのが、今日の箇所です。


 18節。このダビデのことばが、私たちの出発点です。創造者である神を知ろうとせず、感謝もせず、自分勝手に生きてきた私たちです。私たちが犯してきた様々な罪や過ちに対して、罰せられて当然です。そのような、滅ぼされて当然の私たちを、主なる神は招いてくださり、罪の中から救い出し、様々な恵みをもって祝福へと導いてくださいました。主からの祝福を受けるに値する何ものも持たない私たちが、主なる神に愛され、罪の赦しが与えられ、罪からの救いに与り、豊かな恵みを受ける者とされています。19節のダビデの告白を、自分のものとして自覚することが必要です。


 21節。主なる神は約束し、それを実行されるお方です。ご自分の真実にかけて約束したことを実現されるのです。主なる神がダビデを選び、イスラエルの王と定めました。そしてダビデを訓練し、王として育て上げるために、様々な試練を与え、苦難にさらされることを許可し、どのような状況に置かれたとしても、その直中で主に信頼するという信仰の訓練をされたのです。ダビデは多くの苦難を強いられました。主君に誠実に仕えているにも関わらず、主君に妬まれ、いのちを狙われ、追い回されて、逃亡生活を送りました。しかしどのような危機的な状況からも、主はダビデのいのちを守りました。ダビデは主を信頼し、主に聞き従う姿勢をさらに堅固にしたのです。


 22節。ダビデは、これまでの信仰生活を通して確認したことを口にします。主なる神は大いなる方、生きて働かれる絶大な神です。他に神はいません。主なる神だけが大いなる神であり、祝福と恵みに満ちておられ、私たちを祝福と恵みで満たすお方です。私たちが信じている神はこのようなお方です。このお方を誉め称え、聞き従うべきです。


 23節。旧約の神の民、イスラエルの神への信仰の原点はエジプトからの救出です。主が奴隷状態にあったイスラエルを一方的な恵みで救い出し、導き続けて、約束の地を与え、安住の地として住まわせました。すべて主の一方的な恵みによるという告白です。


 新約の神の民とされた私たち、キリスト信仰者の神への信仰の原点は、主イエスの十字架の死と復活による罪からの救出です。主なる神は一方的な恵みで、十字架の身代わりによる罪の赦しを備えて、救いへと招いてくださいました。罪を犯した者が罰せられるべきであるのに、主なる神は私たちをあわれんで、罪の全くない方イエス・キリストを十字架に付け、私たちのすべての罪をその身に負わせ、身代わりに処罰されたのです。私たちが自分には罪があると認め、主イエスの十字架は私のためであったと受け入れ、信じるなら、主なる神は私たちの罪をすべて赦し、罪のない者と見なしてくださるのです。そうして私たちは罪の奴隷状態から解放され、御子イエスのご支配の下に移されるのです。神の一方的な恵みによる救いのみわざです。それを感謝して受け取ること、それが信仰です。


 私たちに、救われるに値する何かがあったから救われたということではなく、救われるに値しない者であったのに、主は一方的な恵みによって救い出してくださった、この告白が私たちキリスト信仰者の出発点です。主が贖い出してくださったので、私たちは今神の救いの中に置かれており、主の恵みと祝福を受ける者とされています。


 25節。ダビデは大胆に求めます。これは自分に都合の良い要求をしているのではありません。これは信仰者として、真に信じるべきことの確認をしているのです。主は約束されたことをとこしえまでも保ち、約束通りに行うお方である。このことを自分が決して忘れることがなく、どのような状況に置かれたとしても、一時的には約束とは全く逆の境遇に置かれたように思われたとしても、その逆境とも言える中において、主の真実を忘れることのない信仰を持ち続ける者としてくださいという告白なのです。


 このことは27節からも確認できます。主が約束されたので、その約束に基づいて事を行ってくださいと祈り求めるのです。祈り求めることで主の約束を確認し、主は常に真実な方であり、このお方に信頼し続ければ良いのだと再確認するのです。25節の求めは、主よ約束を忘れないでください。約束されたとおりに、その約束を実行に移してくださいという不信仰からの求めではなく、主の約束を確信し、主に聞き従って生きる告白です。


 28~29節。一方的な恵みをもって私たちに救いを備え、さらに豊かな祝福に満たそうとされる、主なる神こそ神です。このお方は私たちの世話を必要とされるお方ではなく、私たちの世話をしてくださるお方です。主が祝福してくださるから私たちは祝福を受けることができます。このことを忘れないようにしましょう。主なる神は絶えず、私たちにとっての最善を行われます。私たちにとっての最善を知っておられ、そこに招いて、導こうとしておられるのです。このお方を信頼して、このお方に聞き従えば良いのです。


 今日の箇所を通して私たちは、主のために何かをしたいという思いを持つことは良いことであるという前提に立った上で、私たちの認識を正しておきたいのです。主のために自 分が何かをしなければ、主は困るかのような思いで、事をなすのではありません。主は語られたことを必ずなさる方であり、それを私たちを用いてなすお方であるから、主なる神のみわざに自分が用いていただくのは当然のことであるの思いでなすということです。いつも出発点は主の恵みと祝福に対しての感謝であり、主への信頼であるということです。


 ダビデは自分の認識の間違いに気づいて、このような祈りをしました。そして、宮を建てることに対して何もしなくなったのではなく、自分にできる最大限の備えをしたことを確認しましょう。歴代誌Ⅰ28章9~10節。ダビデは大いなる主に、最大限の栄光をささげるべき主なる神に、それにふさわしい宮を建てるために、感謝と喜びとをもって、自分にできる限りの備えをしたのです。世継ぎのソロモンを励まし、主に示された主の宮の仕様書きを授け、また宮を建て上げるのに必要な資材も用意しました。29章2~3節。


 そして民に呼びかけます。5節。自ら進んで、喜んでささげようと心に決めた者を招くのです。献げることによってさらに喜びが増し加わることを、民にも味わってもらいたいと呼びかけたのです。9節。献げた者たちは、自ら進んで献げたことを喜びました。


 11節。14節。16節。主が祝福されるので、私たちは祝福されます。私たちに神からの祝福を受けるに値する何かがあるから祝福されるのではありません。一方的な神の恵みによることであると覚えましょう。そして感謝し、主のために自分のできることを喜び、祝福によって与えられたものを自ら進んで献げ、喜んで自分にできることを行うのです。


 コリント人への手紙Ⅱ9章10節。蒔く種と食べるパンが与えられています。主からの知恵と判断力をいただいて、自分のために使うものと、主のために用いていただくものとを正しく管理し、正しく用いる私たちとされましょう。主なる神は種まく人の種を備え、増やし、義の実を増し加えてくださるのです。11節。あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、神への感謝を生み出すとあります。神の恵みによって私たちに与えられたものは、主のものであると受けとめ、用いていただく者とされましょう。


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