2023年1月8日 八重山福音光る海教会礼拝 1 2023.1.8 礼拝「主イエスの戒めを生きる」ヨハネ15:12~17
- hikaruumichurch
- 2023年1月8日
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十字架の死を目前に控えた主イエスの、弟子たちへのことばから確認します。今日で7回目です。前回は11月でしたので2ヶ月ぶりです。前回私たちは15章の始めの部分から、主イエスと主イエスを信じる私たちとの関係は、ぶどうの木とその枝に例えられると確認しました。枝が実を結ぶのは、幹に繋がって、養分を豊かに受け続けること、そして農夫である父なる神の適切な刈り込みに自分を明け渡して、不要であると父なる神が判断された部分を取り除いていただくことで、豊かに実を結ぶのです。5節。キリスト信仰者である私たちが、主イエスから離れては、何の良い実も結ぶことはできません。
今日の箇所で、主イエスは弟子たち、主イエスを信じる私たちに、互いに愛し合うという戒めを残しました。今日の段落の前後、12節と17節で繰り返して語られたのです。礼拝招詞で読まれた13章34節では、新しい戒めであると言われました。新しい戒めに対するのは、従来の戒めです。人を愛することに関する従来の戒めは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、でした。
従来の戒めと新しい戒めの違いは、人を愛する基準が、自分を愛することから進んで、主イエスに愛された、その愛を模範、手本にするということです。主イエスは、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいと命じたのです。12節。私たちは主イエスに愛されました。十字架での身代わりの死を自分のためであると受け入れ、その愛、いのちを捨てるほどの愛で愛されたことを知り、十字架の死で差し出された罪の赦しを自分のものとして受け取ったのが私たちキリスト信仰者です。自分が愛されたその愛で、キリスト信仰者は互いに愛し合うことが命じられたのです。
13章1節。主イエスは弟子たちを、最後まで愛されました。13~14節で言及されているように、主イエスは弟子たちの主であり、先生です。弟子たちに仕えられる立場です。しかし主イエスは弟子たちの足を洗うしもべの立場に自分を置かれ、弟子たちを愛して、土埃で汚れた弟子たちの足を洗われました。それは15節。模範を残すためです。弟子たちは主であり師である主イエスの模範に倣って、互いに自分を低め、しもべの立場に立って、互いに愛し合うことへと招かれているのです。足を洗うという具体的な形を真似ることではなく、真に自分を低めて仕え合い、愛し合うことへの招きです。
十字架を前にしての、主イエスの遺言として、繰り返して語られたことは、主イエスを愛することは、主イエスの戒めを守るということです。愛するなら、愛する者の求めを行おうとするのは当然です。だから逆に、主イエスの戒めを守ろうとしない者は、主イエスを愛していないことの現れと言われるのです。14章15、21、23~24節。15章10節。
私たちは、主イエスに愛されていることを味わい、主イエスを愛するがゆえに、主イエスの戒めを守ろうとして、助け主の聖霊に助けを求めます。私たちの肉の頑張りでは、自分を愛するように隣人を愛することも難しいのですから、主イエスが愛された愛で人を愛することなど到底できません。罪人の私たちには不可能です。だから助け主の聖霊が遣わされ、主イエスを信じる者の心に住んでおられるのです。私たちは助け主の聖霊の助けを受けて、主イエスを愛し、主イエスの戒めを守りたいと願う時に、互いに、主イエスが愛された愛で愛し合うことができるようにされるのです。14章16~17節。26節。
15章13節。主イエスは、人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていないと言われました。主イエスはその愛をもって、私たちを愛されたということです。つまり私たちのすべてを、友と見なして、十字架で自分のいのちを捨ててくださいました。そして私たちに対しても、友となるように招くのです。
14節。その、主イエスが友と呼ぶ条件が提示されました。主イエスを命じることを行う者を友と呼ぶというのです。私たちは主イエスから友と呼ばれたいと思うでしょうか。
15節。主イエスは弟子たちに対して、もう、しもべとは呼ばず、友と呼ぶと言われました。弟子とは主人から学ぶ者であり、学んだことを行う者です。弟子たちはまだ、主イエスが命じることを行える者とはなっていません。しかし彼らは行いたいと願っている。そのことを、主イエスはご存じでした。だから友と呼ぶと言われたのです。行いたいと強く願う者ほど、自分の弱さを自覚して、聖霊の助けを求めます。そうして助け主の聖霊は、ご自分に助けを求める者を助けて、事を行わせてくださるのです。主イエスは彼ら弟子たちに、御父から聞いたこと、なすべきことをすべて、知らせたのです。今私たちには、聖書を通して知らされています。なすべきことは分かります。
16節。主イエスとその弟子たちとの関係です。ぶどうの木とその枝との関係を結んでいる者たちは、主イエスが選んだ者たちであり、自分が選ばれたことを喜び、その招きに対して自分を差し出します。私たちキリスト信仰者は、主イエスに選ばれ、招いていただいた者たちです。その招きに応えて、自分を差し出したのが私たちキリスト信仰者です。
主イエスが語られた例え話において、招かれる者は多いが、救われる者は少ないと言われました。多くの者たちが招かれているのに、その招きに応じない者も多くいるのです。しかし私たちキリスト信仰者は、創造者である神の恵みによる招きに応じて、主イエスを信じました。神の恵みによる招きに応じることができたことを喜び、感謝しましょう。
主イエスに選ばれ、その招きに応じる時、私たちは、友として扱われ、主の働きに任命され、弟子として整えられていくるのです。弟子とは学ぶ者です。主イエスの有名な招きのことばがあります。すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。多くのキリスト者が暗記しています。ただし主の招きはここで終わっていません。続きがあります。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。と続くのです。主イエスから学ばなければ、主イエスの弟子になることはできません。主イエスが選び、招いてくださり、その招きに応じ、主イエスから学ぶることで、弟子となり、そのような私たちを主イエスは友として関わり、使命を与えてくださるのです。
主イエスが先行的な恵みによって私たちを選び、その招きに応じた私たちを主の使命を果たす者として任命されました。そして私たちは、主の使命を果たすことで実を結び、その実は残るのです。実が残るとは、この地上での実として、人々に一時的に覚えられるということではなく、主のみわざが私たちを通して行われた結果としての実であり、それは父なる神に、永遠に覚えられる実として残るということです。
また主に選ばれ、任命される者に対して、さらに祝福が約束されています。主イエスの名によって父なる神に求めるものは、すべて与えられるという祝福の約束です。
主の弟子として歩む私たちは、主が命じられることを喜びとし、行う者となることが祝福を味わう秘訣であると確認しましょう。主イエスの命令の中で最重要なのは、主に愛された愛で互いに愛し合うことです。自分を愛するようにではなく、主イエスが私を、その人を愛された、その愛で互いを愛するということです。
ヨハネの第一の手紙3章23~24節。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまるのです。そしてそれを可能とするのは、主イエスを信じた私たちのうちにおられる聖霊によることです。
4章9~10節。神は私たちを愛して、私たちの罪を赦すために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。神の怒りが向けられている、その怒りを宥めるためのささげ物です。主なる神は私たち罪人を愛して、その罪を赦そうとしてくださっていますが、私たちのうちにある罪を憎み、怒りを向けておられるのです。その怒りが宥められたのです。
だから11節。これほどまでに愛されたのだから、愛された私たちは、互いに愛し合うべきであるとヨハネは招くのです。
私たちは再度確認しましょう。自覚しましょう。主イエスの戒めを生きることを、自分の信仰生活の基盤に据えることが大事です。主イエスが愛されたように互いに愛し合う。この最重要の戒めを行う私たちであることを目指すということです。




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