top of page

2022年9月25日 礼拝「真に恐れるべき方を恐れる」ルカ12:4~10

  • hikaruumichurch
  • 2022年9月25日
  • 読了時間: 9分

 私たちは日常生活を続ける中で、誰かを、何かを恐れることがあります。みなさまは何を恐れ、だれを恐れているでしょうか。また、そのような恐れを抱いた時、どのような言動になったでしょうか。人の顔色を見たり、人の反応を気にする時、自分の言動も周囲の人によって左右されます。それが自分の真意でなくても、自分の信念に反していても、人に受け入れられる言動をする誘惑に引き込まれることになるのです。


 礼拝への招きとして、箴言のことばが読まれました。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は高い所にかくまわれる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である」。私たちは人を恐れるとき、人の顔色をうかがうとか、人の反応を気にしたりすると、自分の信念を貫くことができなくされます。特に権力者の顔色をうかがうとき、白を黒としたり、黒を白とするような過ちに引き込まれるのです。結局はその過ちの責任をとることになります。真に恐れるべき方を恐れることが大事です。


 4~5節。主イエスのこのことばは、私たちの存在は、この地上生涯で終わるものではないことが前提です。私たちの存在が、地上生涯だけであるなら、この主イエスのことばは無意味です。むなしい警告となるでしょう。地上生涯がすべてなら、私たちの肉体のいのちを奪おうとする者に対して、神経質に警戒しなければなりません。しかし主イエスは、地上生涯は私たちの全存在の一部、永遠の中の一部に過ぎないと言われるのです。


 私たちはみな、いつかはこの地上の生涯を終えなければなりません。しかしその後も、私たちの存在は続くと主イエスは明確に語ります。どのような死に方であっても、いつかは必ず、死の時を迎えるのです。長寿を全うしての死であっても、事故でいのちを奪われるとしても、何らかの事件に巻き込まれて死んだとしても、重い病気にかかって死ぬとしても、死に方はいろいろあるけれども、必ず死ぬという厳粛な事実を受けとめておくことは重要です。そして多くの人々は、どのように死んだか、その死に方にまで、幸不幸を当てはめようとしているのですが、そのような考えは無意味です。


 死に方を問題にするのは、残された人々の心の安定には意味があっても、死ぬ本人には全く意味のないことだからです。どのような死に方であっても、死の現実は変えられません。死を避けることはできないのです。殺されるという、一見悲劇的で、不本意に思えることも、死の一つの形態であって、それを必要以上に恐れることはないのです。殺されるよりは、長寿を全うして、平穏無事に、楽しく過ごし、みんなに惜しまれて死ぬことができるなら、それは、周りの人にとっても良いことでしょう。


 しかしどのように生きたとしても、いつかは必ず死の時を迎えます。地上生涯の終わりは定められています。だから、たとえ殺される状況に巻き込まれたとしても、殺そうと脅す者たちを恐れて、自分の信念を曲げてはならないのです。殺されることを恐れて、真理を偽りと取り替えたり、悪の道に妥協したなら、死後に定められている公正な審きにおいて、その行った悪に対する当然の罰を受けることになるのです。


 5節。主イエスは語ります。真に恐れなければならない方についてです。私たちが真に恐れなければならない方は、殺した後でと言われるお方です。殺した後でとは、どのような形の死であれ、それが、殺された結果だとしても、その死を許可されたのは創造者である神ということです。この厳粛な事実を覚えておかなければなりません。


 創造者である神が私たちの生存を支配しておられます。主なる神が許可されたので、今私たちは地上生涯を歩んでいます。そして主なる神が許可された時、私たちはこの世を去るのです。主なる神が許可されないならば、どれほど危険の状況におかれたとしても、私たちは守られます。そして主なる神は死後、私たちを公正に裁きます。


 人間が私たちに関与できるのは、生きている間だけで、最大の加害も殺すまでです。殺した後のことに何の関与もできません。私たちが真に恐れなければならないのは、私たちの死後に対しても関与される創造者である神です。私たちの罪を見過ごしにはなさらずに、必ず罰し、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられます。恐れるべきお方です。


 殺されることは恐ろしいことです。しかし冷静に考えるなら、それで終わりです。私たちはできるだけ平和に、安定して暮らしたいと思うのは、当然のことです。しかし人を恐れることで、最も大切な、公正な神の前で正しく生きることを妨げられてはなりません。殺されることを望みませんが、人を恐れる結果、真理を求めることも、真理に生きることもしないなら、大きな間違いを犯すことになるのです。人が私たちにできる最大の害は、私たちがいつかは迎えなければならない死を執行することです。だから危害を加えようとする彼らを恐れてはならないと注意されるのです。


 さて、私たちが真に恐れなければならないお方は、私たちの地上生涯にどのように関わろうとしておられるのでしょうか。このお方はただ恐ろしいだけの存在でしょうか。そうではないことが6~7節です。ここで主イエスは、恐れることはありませんと命じます。私たちが真に恐れなければならないお方に対して、正しい認識を持つなら、恐れることはなくなると言われているのです。


 当時、雀はとても安価な商品でした。5羽の雀は2アサリオンで売られていました。アサリオンとは当時の通貨の単位で、8レプタに相当します。レプタは一番小さい硬貨、アサリオンは下から3番目の銅貨であり、日本で言うなら10円銅貨ということでしょうか。2アサリオンだから20円だと単純に換算できませんが、さほど大きな金額ではないということは言えるでしょう。


 マタイの福音書では、2羽の雀は1アサリオンで売られているとあります。つまり2アサリオン出すと1羽がおまけになるのです。このようにおまけのような雀の1羽でも、神の御前で忘れられてはいません。とするなら神は、あなたのことはどれほど関心を寄せ、覚えているか知りなさいと主イエスは言われました。あなたの頭の毛さえも数えて知っているほど、主なる神はあなたに関心を寄せ、あなたの必要を知り、それを満たそうとして関わっておわれるということをまず覚えましょう。人を恐れて心配になるのではなく、主なる神をこそ恐れて、心からの安心を得るべきなのです。


 8~9節。私たちが本当に恐れなければならないことへの警告です。神の御前で、主イエスに、あなたのことは知らないと言われること、これほどの恐ろしいことはないのだと言うのです。イエス・キリストは人としてこの世に来られました。私たちがこれまで犯してきた様々な罪の一つ一つを赦し、罪から救うために、主イエスは十字架で、本来私たちが受けなければならない罪の処罰を代わりに受けてくださったのです。私たちは罪を持っています。私たちは罪を犯してきました。その中で、自分で償いができた罪はどれくらいあるでしょうか。実際には罪を犯してきたのに、何もなかったかのように知らんぷりしている罪はどれほどあるでしょうか。公正な神は、私たち一人ひとりの罪を知っており、そのひとつ一つの罪に対して公正な報いを与えるために審きを行うのです。


 この地上でうまく悪を行っている人がいます。その悪に対して公正な処罰がなされないまま、その人は地上生涯を終え、自分の一生は、自分の思い通りになったと誇り、そしてそれを、多くの人々が悔しい思いで見ていたかも知れません。しかし死後に公正な審きが定められているのです。この地上で処罰されなかったとしても、死後公正な神の御前で、公正な審きがなされ、公正な報いとしての処罰を受けることになるのです。


 主イエスを認めるとは、イエス・キリストが付けられた十字架は、私の身代わりの処罰であったと受け入れること、主イエスは神であるのに、人となられた救い主であると認めることです。本来は罪を犯した私が処罰されるべき処刑を、主イエスが代わりに受けてくださったということを信じ、私の罪を赦し、私を罪から救ってくださったと信じること、その十字架による救いを認めることが、主イエスを認めることなのです。その人は、公正な神の前に立ったとき、主イエスからこの人を知っていると認められるのです。その人は死後に処罰されません。その人の罪の処罰は、主イエスにあって終わっているからです。


 10節。私たちは臆病風に吹かれてしまって、イエスを知らないと言ってしまう弱さがあることを、十分承知の主イエスは、私たちがそのような過ちを犯したとしても、そのための赦しを備えてくださっています。主イエスを知らないと言ったとしても、もっとひどい誘惑に陥り、主イエスをそしる悪いことばを口走ったとしても、それでも赦しはあるのだと教えられるのです。主イエスを悪く言った罪を認め、赦しを乞うなら、イエスを嘲り、侮辱し、敵対行為を取ったとしても、それが罪であると知り、自分の罪を認め、罪を悔い改めるなら、その罪は赦されるのです。罪の赦しが受けられない罪はないのです。


 ただ一つだけ例外があります。聖霊を冒瀆する罪は赦されません。聖霊を冒瀆する罪とは、聖霊の存在を認めないことではなく、聖霊による罪の指摘を無視し、悔い改めへの促 しを拒むことで聖霊に逆らうという意味で、聖霊を冒瀆するのです。


 聖霊は私たちに罪を教えます。聖霊は私たちに罪の赦しを教えます。聖霊は私たちに悔い改めを促すのです。その聖霊の働きを拒むこと、それが聖霊を冒瀆することで、そのような者は罪の赦しを拒むので、罪からの救いを受けることはできません。誰も聖霊によるのでなければ、イエスは主である、救い主であると告白できません。そしてイエスを自分の救い主、自分の主であると告白できなければ、私たちに救いはないのです。


 みなさま、人を恐れてはなりません。人を恐れるのではなく、創造者である神をこそ真に恐れるのです。自分の生涯を振り返り、様々な罪を正直に認め、その罪に赦しを備え、罪からの救いに招いておられる神を、真の意味で恐れるのです。神を神として認め、神が備えられ、差し出された救いを感謝して受け取るのです。このお方はあなたの頭の毛をも数えるほどに、あなたのすべてを知り、あなたが犯してきた数々の罪をも含め、いっさいを把握した上で、なおあなたに関心を寄せ、あなたを招き続けておられるのです。


 このお方を真に恐れるとき、私たちは人を恐れる誘惑から守られます。真の意味で正しい生き方、公正な神の御前での正しさを行うことができます。この方は、私たちの地上生涯のすべてにおいて、私たちと共に歩んでくださり、私たちを生かしてくださるのです。恐れることはありませんと語られる主イエスに目を留め、本当の安心を味わいつつ地上生涯を歩み続ける私たちとなりましょう。人を恐れるのではなく、真に恐れるべき神を恐れる、これが重要です。あなたは愛され、覚えられているのです。



Commentaires


bottom of page