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2022年7月10日 礼拝「主の主権に委ねる幸い」Ⅰサムエル26:1~12

  • hikaruumichurch
  • 2022年7月10日
  • 読了時間: 6分

 イスラエル王国二代目の王に選ばれたダビデの生涯からの学びも五回目となります。主君サウルにいのちを狙われているダビデは逃亡生活をしており、そのようなダビデの下に600名ほどの家臣が集まっています。


 ダビデの心にあるのは、いつも、主の主権に自分を明け渡すことです。自分の命を狙っているサウルについても、主なる神が王とされたのだから、主なる神がその王位から退ける時を定めておられ、そして主なる神が自分を王に任じたのだから、主なる神は自分を、王座に着かせる時を定めておられると確信して、主のみわざを待つのです。


 礼拝招詞でダビデのことばを確認しました。ダビデは、私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望めと、自分に促すのです。私の望みは主から来るからだと、状況は最悪に見えたとしても、その直中に主なる神がともにおられ、自分を守り、主のご計画は進められていると確認するのです。だから危機的状況が続いていても、慌てふためくことはありません。主なる神が与える平安を歩むことができているからです。


 今日の交読箇所24章。サウルがペリシテ人との戦いに出かけている間、ダビデはしばしの息継ぎができました。しかしペリシテ人との戦いが終わると、サウルは再びダビデ討伐を進めるのです。今ダビデたちはエン・ゲディの荒野にいます。ユダの荒野とも言われる荒涼とした地であり、そこここに洞窟が散在していました。


 巻末の地図6で位置を確認します。死海の西側の真ん中あたりにエン・ゲディがあります。そのあたりのどこかの洞窟にダビデとその部下が、サウルの追っ手を逃れて隠れていた時のことです。サウルは三千人の精鋭を率いてダビデを追っていました。しかしサウルは便意をもよおし、一人洞窟の中に入るのです。無防備のサウルがそこにいます。


 サウルが洞窟のどこまで入っていったかは分かりませんが、さほど奥までは入っていかなかったと思われます。この洞窟は大きかったようですが、それは奥まで入った者が分かるのであって、入口付近にいる者は洞窟の大きさも、奥に何があるのかも暗くて見えない状態です。ダビデとその部下が隠れていた、その洞穴に、サウルは用を足すために入ってきたのです。その時のダビデと部下の会話が、そしてダビデの決意が記されています。


 洞穴の奥は真っ暗で、入口からは見えません。しかし奥からは入口の方ははっきりと見えます。ダビデの部下がダビデに進言します。サウルを殺害する、今がその時であると。主なる神が、この機会を備えられたのだから、この好機を逃してはならないと、強く促したのが、4節です。なかなかの説得力のある促しです。今日こそ、主があなた様に、「見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ。」と言われた、その日です。その促しに押し出されるように、ダビデはサウルに近づくのです が、サウルの上着の裾を、こっそりと切り取るだけをしたのです。しかし5節、ダビデ は、上着の裾を切り取ったことについて心を痛めたとあります。


 6節。ダビデは部下に言います。自分を主の主権に従わせている者としての発言です。私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。この後のダビデとサウルの会話が8節以降です。サウルは主の前での恥を覚えて家に帰りました。


 26章1~2節。同様の出来事が繰り返されます。ハキラの丘とは、ヘブロンの南東10~15kmあたりにあると言われています。ダビデを殺そうとする思いに駆られる、哀れなサウルがいます。そのような中5節、ダビデはサウルの陣営に向かい、サウルと部下たちが熟睡しているのを見るのです。それでダビデは、部下の一人を連れてサウルの陣営に入り込みました。部下のことばが8節、それに対するダビデのことばは9節です。


 ダビデは、殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうかと言うのです。ダビデにそう言わしめたのは10節の確信です。主は生きておられる。 主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。11節。私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。


 主なる神がサムエルに命じて、王に任職するための油を注いで、イスラエルの民のすべてが認める形で王位に就けたのだから、主なる神がその最後を決めておられる。だから自分は主なる神のみわざを待ち続けるという信仰の表明です。


 このように大胆に言えるのは、主なる神がサムエルに命じて、自分をもイスラエルの王とするために、任職の油を注がれたという、主の主権に自分を委ねる信仰の結果であり、これはサウルにはできなかった、主のことばを聞き、それに従うことを、ダビデはしたということです。主の御声に聞き従うとは、主の語られたことは、必ずその通りになると信じることであり、信じる者は、主のみわざを待ち望むことを得させるのです。


 ダビデは主にあって、誠実に、忠実にサウルに仕えてきました。逆恨みされるなど、全く予期していなかったのです。そしてイスラエルのために勇敢に戦い、勝利に導くための主の器として用いられてきました。しかしダビデが、主に大きく用いられるに従って、サウルから妬みと憎しみを買い、殺害すべき対象と見なされたのです。


 しかし、このような危機的な状況の中でも、絶えず主なる神に信頼し、主のみわざを待ち望みつつ、逃亡生活を続けました。サウルを返り討ちにできる機会が二度あったにもかかわらず、ダビデは自分の手を下すことをしなかったのは、主なる神の主権を認め、自分の主と仰ぐお方の御前で、真にへりくだっていたことのゆえなのです。


 私たちもいろいろな困難な状況に置かれます。そこでの対応をいろいろと考えさせられます。そこで主のみここにかなう対応をするために、自分が信じているお方を、再確認しておくことが重要です。私たちが信じたお方は天地万物の創造者であり、すべてに主権をもっておられる、全知全能の神でり、私たちを、いのちを捨てるほどの愛で愛しておられる主なる神です。このお方の主権に自分を委ねることで、私たちはどのような状況に置かれたとしても、そこで落ち着いた対応をすることができるのです。


 主なる神は、永遠の計画の中での最善を備えて、恵みと祝福を味わわせようと、いつもとともにおられるインマヌエルの神です。だから私たちは、悪に負けるのではなく、善をもって悪に打ち勝つ歩みすをることが大切です。そのためには、主なる神をいつも仰ぎ、主に信頼して、主のみわざを待つ必要があります。主の主権に自分を差しだして歩む、キリスト信仰者にしかできない歩みを、主にあって自分のもとするのです。


 主の主権に自分を委ねる者は、神のことばに自分を合わせて一歩を踏み出し、主のみこころにかなう歩み、主が喜ばれること、主に受け入れられることを行う者とされ、主の平安を生きる者とされるのです。主イエスが与える平安は、どのような困難な状況に置かれたとしても、決して揺り動かされることのない人生を歩ませるものです。主が喜ばれ、主が良しとされ、主に受け入れられることは何かを考え、それを行う一歩を踏み出すのです。



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