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2022年6月5日 礼拝「主イエスの模範に倣う」ヨハネ13:1〜11

  • hikaruumichurch
  • 2022年6月5日
  • 読了時間: 7分

今私たちは、第一主日は、主イエスが十字架に架けられる直前の言動を確認して、主イエスが弟子たちに、そしてキリスト信仰者とされた私たちに教えられたことを確認しようとしています。前回はマリアが高価な香油、ナルドの香油を、惜しげなく主イエスに注いだ出来事を通して、無駄か、主のみわざへの参与かを問い、確認しました。


 今日から私たちは、十字架前夜の出来事を見ます。これはヨハネだけが福音書に記しました。ヨハネは他の福音書記者たちとは違い、聖餐式の制定や、ゲツセマネの園での祈りなどは記しません。また受難週の出来事を、ほとんど記しません。しかし、13章から17章まで、5章ものスペースを割いて、最後の食事からの場面を、主イエスが語られたことばを中心に記しています。この記述によって私たちは、主イエスが十字架に架けられる直前においても、なお弟子たちに心を配り、愛しておられることを知るのです。


 その弟子たちは、自分を裏切る者であり、自分を見捨てて逃げてしまう者たちでした。それを承知の上で、主イエスはなお愛されるのです。主イエスはその同じ愛をもって、私たちをも愛しておられます。私たちは、これほどまでに愛してくださるお方を信じ、このお方に倣って生きようとしている者たちなのです。このことを、まず覚えましょう。


 1節。主イエスはこの世を去る、ご自分が十字架に架けられて死ぬべき時が来たこと、そして父のみもとに行く時が来たことを知りました。主イエスの地上での使命は、十字架の死で終わるのではなく、復活と昇天までです。これが神のご計画です。主イエスは、この世を去るので、世にいる、つまり世に残すご自分の者たち、弟子たちを最後まで愛されたのです。今日はその初めの部分、主イエスが弟子たちの足を洗われた出来事から、キリストと私たちとの関係、そしてキリストが私たちに残された模範を学ぶことにします。


 2節。夕食の間のこと、とあります。イスカリオテのユダはまだいます。しかしすでにイエスを売り渡す決意をしていました。ルカの福音書によると、この時弟子たちは、誰が一番偉いかと論じ合っていたとあります。


 主イエスを全く理解しない弟子たち。何度も死と復活の予告を聞いているのに、十字架の死の直前になっても、誰が一番偉いかと、この世での出世競争をしているかのような弟子たちを、主イエスはどのような思いで見、その議論を聞いていたでしょうか。自分のことしか考えられない弟子たちを前に、何とも情けないなと思いますが、これはまさに、私たちのことではないでしょうか。主と主のみこころには無関心で、自分を優先してしまうのです。いつも神のみこころを思い、神を中心に考え、行動する者でありたいものです。


 そのような弟子たちを愛してこられた主イエスは、彼らを最後まで愛されたのです。そして模範を残されました。4~5節。夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いを取って腰にまとい、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手拭いで拭き始められたのです。しもべがする仕事です。弟子たちは互いに牽制し合っていたのかもしれません。自分は足を洗うしもべではないと。今、主であり、師である方が弟子たちの足を洗っています。彼らはどのような面持ちで、主イエスを眺め、足を洗ってもらったのでしょうか。


 6節。それまで黙って見ていたペテロが突然叫びだします。自分が愛し、仕えてきた、生ける神の子である方に、足を洗ってもらうことなどできないと判断したのでしょう。


 7節で、後で分かるようになると言われても、8節、だからといってそのまま受け入れることはできなかったようです。ペテロの強い拒否に対して、主イエスも強く主張をされます。7節のことばは、この文脈を超えて、私たちにも語られています。直接的には、主イエスが弟子たちの足を洗い、その意味は12節から説明されているとおりです。しかしこのことばは、私たちの全生涯に関わる、神のすべてのわざに当てはまるものです。私たちの生涯で、どうしても意味の分からないことが、時々起こります。神のみこころは何か、なぜ起こったのか、疑問を持ち、不安を覚えます。その時には、その出来事の意味することは分かりません。しかし後で分かるようになると主は言われるのです。


 この事実は、私たちに慰めと平安とを与えます。今は分からない。しかしなおも主に聞いて従っていくとき、その本当の意味がわかるという確信に立って、私たちは信仰生活を続けられます。私たちはどのような状況の中でも、主に信頼できます。だから主に聞いて従えるのです。その理由は分からない。しかし神は最善に導いてくださるのです。


 8節から11節で、私たちは大切な教訓を学びます。第1に、私たちはキリストに洗ってもらう必要があります。8節で、主イエスは言われました。わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。これは、ただ足を洗うということ以上の意味があります。この後すぐに、主イエスは十字架に架けられます。


 キリストによる洗いは、私たちの罪が洗いきよめられる必要を意味しています。1コリント6章11節「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」。ヘブル10章22節「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」。私たちは、キリストによって洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。すべての人はキリストによって洗われる必要があります。そのためにキリストは十字架で死なれたのです。


 第2に、私たちは、一度全身を洗ったからと言って、それで完全にきよくなったわけではない、ということです。10節。私たちはキリストによって、罪を赦され、義と認められました。無罪の宣告を受けたのですが、私たちに罪の性質がなくなったわけではありません。私たちは今も、罪の性質を引きずって生活をしています。だから多くのことで失敗をし、罪を犯すこともあります。日々主の憐れみを必要としているのです。


 ヨハネの手紙第一1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。私たちはキリストの十字架を信じて罪を赦された者ですが、日々主の憐れみを請わなければならない弱い存在です。水浴した者でも、足は汚れます。私たちはキリストによって罪を洗われた者ですが、なお汚れる者であることを覚え、絶えず洗っていただくことです。


 第3に、イスカリオテのユダから、キリストを知り、キリストと共に歩んでいたとしても、キリストのものであるとは限らないということです。バプテスマを受けたこと、キリストの教会に属していることが、キリストを主として歩んでいる保証ではありません。私たちに見える形や儀式は、その本質を表わすためには大切ですが、形や儀式が本質そのものではないからです。10節。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありませんという指摘を厳粛に受け留めなければなりません。大切なことは、罪の悲惨さを知り、キリストに洗っていただくことです。罪を洗い続けてもらう必要があるのです。罪を軽視してはなりません。罪を放置してはならないのです。


 14節。主イエスの行為は、弟子たちに残す模範でした。主イエスに従う者たちが命じられているのは、互いに足を洗い合うことです。実際に足を洗い合う教会もありますが、大事なことは、しもべとなるということです。互いにしもべとして仕え合うのです。


 主イエスは、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべとなりなさいと言われました。人の足を洗うというのは、主イエスの命令の実践と言えます。自分を無にして、へりくだることなしに出来ることではありません。主イエスの模範に倣うのです。


 私たちは、その人の足を洗う程の謙虚さをもって、その人に仕えているでしょうか。へりくだって、人を自分よりすぐれた者と思っているでしょうか。求められている謙遜は観念的であってはなりません。主イエスが模範を残されました。主にあって兄弟姉妹とされた、その人の足を洗うというほどにへりくだることです。実際に足を洗い合うことはないでしょうが、足を洗う以上にへりくだって、尊敬し、仕えることを求めるのです。神に愛された者として、御霊の助けを求めて愛と謙遜を身に付け、神に愛されているその人を尊敬する、仕えることを目指しましょう。14節。



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