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2022年6月19日 礼拝「世界宣教と教会の祈り」使徒の働き13:1-3

  • hikaruumichurch
  • 2022年6月19日
  • 読了時間: 9分

 使徒の働きからの学びも13回目となりました。使徒の働きは、初代教会を用いての、主なる神の宣教のみわざの記録、主なる神が教会を、そしてキリスト信仰者をどのように用いられたかの記録です。まず約束の聖霊が遣わされたことで神の教会が誕生しました。そして教会に対する迫害を許すことで、キリスト信仰者たちをエルサレムから散らし、その先々で福音を語らせました。そうして福音が拡がっていき、各地にキリストの教会が作り上げられていきました。それはキリスト信仰者たちが、迫害されても、決して奪われることのない救いの喜びと、主にある平安、天の御国への希望に生かされていたからです。


 今日は、13章の初めの3節だけを読みました。この13章から、福音宣教の中心的な役割がエルサレムの教会からシリアのアンティオキアの教会へと変わります。主なる神の新たな福音宣教のみわざは、ユダヤ人キリスト者だけのエルサレムの教会ではなく、異邦人キリスト者が多くなっていたアンティオキアの教会を通して進められていくのです。


 これまで福音宣教の対象はユダヤ人でしたが、その主な対象が異邦人へと変わっていきます。その中心的な働き手もペテロからパウロへと変わります。主なる神は、あらゆる国の人々への福音宣教を担う教会として、アンティオキアの教会を用いられるのです。


 エルサレムの教会とアンティオキアの教会の最大の違いは構成メンバーです。エルサレムの教会はユダヤ人キリスト者で構成されており、そのことが、異邦人を含むあらゆる国の人々に福音を伝えるという、主なる神の新たな働きを担えなかったと言えます。同じような人々で構成される集まりは、まとまり易いという利点があります。しかしその反面、多様性という点において豊かさに欠けるので、良い意味での発展は望めません。発想においても、働きにおいても、革新的にはなれないのです。その弱さが、主イエスを信じる信仰によってのみ救われるという福音理解にも、主の新しい啓示を受け入れるよりも、自分たちが培ってきた考え方に固執してしまう原因にもなったのです。


 私たちの教会も、多種多様な人々が加えられることを喜ぶ教会でありたいのです。簡単にはまとまらないでしょう。多種多様な意見が交わされます。それは神の豊かさを覚え、主のみわざの多様性を受け止めるために必要な要素です。罪の性質を引きずっている私たちは、自分と同様の考え方を持つ人々を求め易く、意見が合わなかったり、価値観が違ったり、生活様式が異なっている人は敬遠したいと思うのです。しかしそれでは、キリストのからだである神の教会の豊かさに生きることはできません。また神の豊かなみわざを、私たちの貧しさで制限することになるのです。教会に与えられている一人ひとりの個性、持ち味や賜物を生かし合う教会を目指すことが大事です。


 さてアンティオキアの教会を見ていきましょう。1節。教会の霊的指導者たちの名が列挙されています。第一にバルナバです。アンティオキア教会が霊的に整えられ、多くのギリシア人がキリスト信仰者となり教会に加えられていきました。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在する教会を、一つ心、一つ思いに結び合わせていく働きが必要であり、その大きな働きを担った人物がバルナバです。アンティオキア教会にとってなくてはならない存在となっています。彼はキプロス生まれのレビ人でした。


 ニゲルと呼ばれるシメオンはアフリカ生まれの黒人と考えられます。クレネ人ルキオは11章20節から、最初にギリシア人に福音を語った一人とも考えられます。クレネは今のリビアにありますから、彼もアフリカ系となります。領主ヘロデの乳兄弟とありますから、マナエンは相当身分の高い人物と考えられます。そしてタルソ生まれで、生粋のヘブル人であるパリサイ人サウロが加わっています。ユダヤ人キリスト者を福音にふさわしく、霊的に整える働きには最適な人材と言えます。


 これらの多種多様な人々が霊的指導者として立てられたということから、種々の人々が教会を構成していたかが想像できます。そして人種や文化、それぞれの国の慣習や習俗の違いが教会を混乱させるのではなく、人種を越え、習俗や文化を越え、様々な障壁を乗り越えて、イエス・キリストのみを主と崇め、福音に生きるという新しい価値基準において一致する教会を築き上げていたということが分かります。


 このようなアンティオキア教会に、主なる神は新しい働きを委ねるのです。2節。教会が主を礼拝し、断食をしている時に、主からの新しい使命が伝えられました。聖霊が言われたとあります。礼拝するとは、主に心を向け、主が何を語ろうとしているかを聞くことです。断食するとは、自分のすべてを明け渡し、主に従う献身の表明です。その礼拝の中で、聖霊が語りかけました。1節の終わりに、預言者や教師がいたとありますから、その預言者のひとりを通して新しい使命が語られたと考えられます。


 聖霊が命じたことは、バルナバとサウロを主のために聖別して、主が召した働きに就かせることです。具体的なことは何も知らされていません。ただ何か新しい働きのために、主はバルナバとサウロを召されたということだけは分かりました。


 3節。そこで教会は断食して祈りました。教会がふたりを送り出すまで、どれだけの時間を要したかは記されていません。この3節は読み飛ばしやすいのですが、ここにはある程度の時間をかけ、祈りの中で主のご計画を確認し、断食をすることを通して、教会は献身を新たにして、主のご計画に従ったのだと考えられます。


 教会はサウロの選びに関しては比較的容易に従えたと思われます。サウロの回心の出来事を振り返りながら、ダマスコの町でアナニアを通して語られた主のことばを確認し、主がサウロを召された目的を共有したと想像できます。9章15節。サウロは主イエスの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、主の選びの器とされました。


 しかしバルナバをも遣わすとの命令には、相当の抵抗と葛藤があったと想像します。サウロはともかく、バルナバがいなくなることに、教会には大きな動揺となったと思われます。アンティオキア教会にとってバルナバは単なる指導者の一人ではなく、かけがえのない存在となっていたのではないでしょうか。


 今日の聖書交読箇所、11章に記されていますが、アンティオキアではギリシア語を話す人々にも福音が伝えられ、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在する初めての教会が生み出されたのです。そして22節。エルサレムの教会は、その霊的な養いのためにバルナバを指導者としてアンティオキア教会に派遣しました。この教会はバルナバによって育てられ、指導を受け、霊的に整えられてきたと言えるのです。


 アンティオキア教会では様々な人間的な問題が起こったことと想像できます。ユダヤ人と異邦人が一つ教会を構成するということは、特にユダヤ人にとっては耐え難い神への背きと感じられたかも知れません。異邦人と一つ空間にいること自体に、宗教的な汚れを受けたと受けとめるユダヤ人も多くいたでしょう。そのような教会を、バルナバは主の恵みによる救いを伝えることで、御霊の一致を保つように導き、育てたと想像できます。ペテロがローマ軍の百人隊長コルネリウスの家を訪ね、救いへと導いた事例を証しながら、神の恵みはユダヤ人も異邦人も差別することなく注がれていることを確認させたのではないでしょうか。バルナバはアンティオキア教会の育ての親と言える存在です。そのようなバルナバがいなくなることは考えられない、いや考えたくないことでした。主なる神は、そのバルナバを主のために聖別するようにと命じ、教会はバルナバを主にお献げする決断をしました。断食と祈りをしたという表現にその決断が表されています。


 さらに教会は、この新しい働きを教会の働きとして受け止める必要があるのです。ただバルナバとサウロを福音宣教のために主にお献げし、遣わせば良いということではなく、その働きを教会に与えられた働きであると自覚し、ふたりの宣教活動を祈り支えることで参与すべきこととして確認したのです。そしてアンティオキア教会が、この働きを教会の働きとして受け止める助けとなったのは、バルナバを遣わすことによってです。


 これらのことを受け止めるために、教会は断食をし祈りました。教会は祈りの中で主のご計画を確認し、主の命令として受け留め、自分たちへの使命として、主のご計画に従う決断をしたのです。アンティオキア教会が主に従ったことで、パウロによる異邦人伝道、世界宣教が繰り広げられていくのです。バルナバが偉いからとか、パウロが優れているからではなく、教会が福音宣教を教会の働きとして受け留め、バルナバとパウロを祈り支えて福音宣教に遣わすこと、主のみわざへの参与を主なる神が用いられたということです。


 3節後半。教会はふたりの上に手を置いてから、送り出しました。教会が、教会の働きとして、ふたりを任職して、主の働きに遣わしたのです。パウロの3回の伝道旅行は、常にアンティオキア教会の祈りの中で行われていきました。教会の祈りによって派遣され、その働きが一区切りつくと、送り出された教会に戻って報告し、交わりの中で霊的な回復が与えられ、再び福音宣教の働きに、次の伝道旅行に、教会の働きとして、祈り支えられることで遣わされるというすばらしい形ができあがりました。


 14章26~28節。第一回伝道旅行の終わり。15章40節。第二回伝道旅行開始。18章22節と23節。第二回伝道旅行の終わりと第三回伝道旅行の開始。教会に祈られて主の働きを進め、働きが一段落すると帰るべき教会がある、これはパウロにとって大きな支えと励ましであり、力であったと言えます。そして教会も、主から委ねられた使命を忠実に、誠実に果たすことで、パウロを用いての、主の福音宣教の御業に参与したのです。パウロの伝道旅行は教会の支えを受けて、主に用いられて、すばらしい成果を見たということです。主はご自分の働きを推し進めるのに、教会を用いるのです。個人的な働きでは、その個人が働きを続けられなくなった時点で、その働きは終了しますが、教会としての働きであるなら、個人の状況に関わりなく、主の働きは教会を用いて進められていくのです。


 アンティオキア教会は世界宣教を担うという働きに用いられました。みことばに聞き、その使命に従うことによって用いられたのです。そして祈り支え続けることによって、バルナバやパウロの福音宣教に大きく寄与しました。そしてこの形は、教会による福音宣教の一つのモデルとして引き継がれ、今日に至っています。


 私たちの教会を、主はどのような主の働きのために用いようとされるのでしょうか。絶えず主の御声を聞く礼拝をささげたいと思います。みことばを聞こうとし、みことばに従おうとする教会であり続けたいのです。私たち一人一人が、主に礼拝をささげるにふさわしい存在でありましょう。福音を伝えることは、等しく教会に与えられた使命です。そしてどの働きも教会の祈りに支えられなければなりません。また教会の執り成しの祈りが、キリスト者個々人の、みなさま一人ひとりの主にある働きを支えています。



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