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2022年6月12日 礼拝「主を中心にした対人関係」1サムエル20:1~11

  • hikaruumichurch
  • 2022年6月12日
  • 読了時間: 8分

 私たちはいろいろな人と関わりながら生活をしています。みなさまはどのような対人関係を築いているでしょうか。その人とどのように関わろうとしているでしょうか。関わる一人ひとりと、真に祝された対人関係を築けたなら、それは幸いです。


 今私たちは月に一度、イスラエルの2代目として選ばれているダビデについて、聖書から確認し、その信仰姿勢に学ぼうとしていますが、いよいよダビデは、逃亡生活に入ることになるそのきっかけと、この時の対人関係を見たいと考えています。ダビデはいつも、主を中心にした対人関係を築こうとしています。相手が主なる神を拒んでいるとしても、相手の状態に関わりなく、主を中心にする歩みを心がけていたのです。


 イスラエルの初代の王サウルは、主に聞いて生きるという、信仰者としての基本を身につけることがなかったので、結局は主なる神に退けられました。2代目の王としてダビデが選ばれ、任職されますが、実際に王として即位するまでは、サウルが王としてイスラエルを治めています。ダビデは王として整えられるための訓練中という状況です。


 サウルは主なる神に聞くという思いをなくしています。神の御前で自分の間違いを認めることも、悔い改めることもしなくなり、自分で自分の王位を保とうと躍起になっているのです。そのようなサウルにとって、ダビデの存在は脅威でした。自分の王位を守るためには、ダビデを殺すしかないという思いに凝り固まっていくのです。


 今日の箇所には、ダビデを殺そうとするサウルと、ダビデを助けようとするヨナタンが記されています。サウルとヨナタンとは父と子です。ヨナタンが皇太子であり、次の王になる存在です。ですから、この世の常識に従うなら、ヨナタンにとってダビデは、自分の王位継承にとって邪魔な存在となります。つまり、ヨナタンも父サウルに追随して、ダビデ抹殺に動いても、何の不思議もありません。しかしヨナタンはそうしなかったのです。なぜでしょうか。サウルとヨナタンの違いはどこにあるのでしょうか。ダビデとの対人関係の築き方に、違いがあったということです。どのような違いでしょうか。


 ヨナタンがダビデを意識したのは、ペリシテ人の戦士ゴリヤテとの一騎打ちに、主なる神にある信仰と主から与えられた勇気によって勝利した直後でした。18章1~3節。ヨナタンは王子であり、ダビデはまだ家臣ににもなっていません。しかしヨナタンは父サウルとは違って、主への純粋な信仰を持っていました。ダビデと同じほどに主に信頼して、これまで主に仕えてきたのです。そのヨナタンの信仰は以下で確認できます。


 13章19節~。サウルが王とされたときのイスラエルの置かれていた状況は、ペリシテ人の圧迫の中にありました。14章1節。サウルが王となってペリシテ人と戦う時、ヨナタンは道具持ちと二人でペリシテ人の先陣に攻め上ろうとします。その時のヨナタンの信仰のことばが6節です。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。すばらしい信仰です。主への全き信頼の中で、私たちは主に従い、主に喜ばれる歩みを貫くことができるのです。


 このヨナタンの信仰と、ダビデがゴリヤテと戦うときの信仰を見比べると、本質的に同じだということが分かります。17章34~37節。ヨナタンもダビデを見、そのことばを聞いていたと想像できます。そしてヨナタンの心は自分と同じ信仰を持つダビデの心に結びつきました。そしてヨナタンはダビデと契約を結んだのです。18章1節、3節。


 20章1節。ダビデは、サウルからの脅威を、いよいよ強く感じていました。そしてその訴えを王子ヨナタンに告げるのです。これから先どのような行動をとることが一番良いのかを、自分一人で決めるのではなく、主なる神にあって契約を結んだヨナタンとの間で確認したいと思ったのでしょう。


 サウルにとってダビデは、ヨナタンへの王位継承のためには邪魔な存在です。息子を愛し、王位を継がせたいと思っているのに、当のヨナタンはダビデと心において結びついていることに苛立ちを覚えます。サウルとヨナタン、サウルとダビデ、ダビデとヨナタン、この3者の関係が複雑に絡み合いながら、ダビデへのいのちの危険が迫る中で、ヨナタンとダビデの、表面的な別れの時が近づいています。


 この3者の関係が、真の意味で解決を見るためには、サウルがへりくだって主のご計画を受け入れ、ご計画に自分を合わせて、ダビデが王として整えられることを助け、即位する日を待つことでした。ダビデが誠実に、忠実に自分に仕えてきたこと、主なる神を信頼して歩んできたこと、そして何よりも、主ご自身がダビデを選んでおられることを認め、主に従って歩むならば、サウルの王としての役目を果たし終えた時、安定と平安の余生を過ごすことができたはずです。しかしサウルは頑なに、自分の力で王位を保つこと、邪魔なダビデを抹殺することを考えていました。自分の考えが正しく、その考えを邪魔する者が悪いとする、自己正当化という恐ろしい病に陥っていたのです。


 3節。ダビデは、サウルのヨナタンに対する配慮を告げます。ヨナタンを愛しているゆえに、自分への殺害を黙っている。ダビデを殺すことを告げるなら、ヨナタンが悲しむことを知っていると、状況を把握し、人の心を思いやるダビデがいます。


 5~7節。ダビデはヨナタンに、サウルが自分を殺そうとするその決意の強さを、自分を殺そうとするその理由を探ってほしいと依頼します。そして8節。自分に殺されるべき間違いがあるならば、サウルの手によってではなく、ヨナタンの手で殺してほしいと頼むのです。ダビデの訴えに対してヨナタンが答えます。9節。そして12節以降のところで、サウルの心が分かったなら、必ずダビデに伝えると約束します。そして16~17節。二人は新たな契約を結びました。


 さらに深く、主を中心に据えた二人の関係が確認されました。ヨナタンとダビデ双方にあるのは、主を通して相手を見、主を通して相手と関わろうとする心です。そこには自分が何をしたいのかは二の次になっています。そうではなく、主にあって自分は何をすべきか考え、主にあって自分のなすべきことを行おうとしているのです。


 主を意識した対人関係を、今日の箇所で確認します。3節の終わりにダビデのことばがあります。「主とあなたに誓います。」8節ではヨナタンの心を確認することばがあります。「あなたは主に誓って契約を結んだ。」12節にはヨナタンのことばがあります。「主に誓って言う。」13~16節にあるヨナタンのことばには、主なる神が意識されています。17節で再度二人は契約を結び、23節で主が永遠の証人であると語るのです。


 ダビデとヨナタンには、いつも主なる神を意識する心がありました。自分が何をしたいかではなく、自分は正しいと自己主張するのでもなく、主の御前で自分は何をすることが良いことであり、それは主に喜ばれるか、主は自分に何を求めておられるのか、主の御前でどうすることを、主は正しいとされるのか、自分の何が主なる神を悲しませることになるのかなどなど、ダビデとヨナタンの心は、主なる神のみこころを追い求め、主なる神の導きに素直に従おうとしていることがよく分かります。


 しかしサウルは「主にあって」を、全く意識しません。彼にあるのは、いつも自分です。自分が何をしたいのか。自分にとってそれは益になるか害になるか。主なる神ではなく、自分を中心に据えるとき、そこで作られる人間関係は、自分が満足する限りにおいては良い関係を保ち続けるけれど、自分が満足できなり、自分の思い通りに事が進んでいかないなら、その対人関係を破壊し、敵対関係へと進むのです。自分が満足するためには、他者の犠牲は仕方ないと考えるのです。そのように考える人物が強い立場に立つならば、周りの人々は悲劇です。特に弱い立場に置かれた者の苦悩はいっそう大きくなります。


 しかし主は、主に結びつく者を守り、その者を通してご自分の計画を実現されます。この真理、この事実を知りましょう。そうして私たちは、主を意識して、主を中心にする対人関係を築くことが重要です。


 先ほど交読したローマ人への手紙12章17~18節。誰に対してもとあります。悪に悪を返してはなりません。すべての人が良いと思うことを行うのです。自分が良いと思うことではなく、すべての人が良いと思うことを心がけるのです。独りよがりではなく、すべての人が良いと思うことは、主なる神が良いとすることに近くなります。


 16節に、思い上がってはならないと戒められます。思い上がりが高慢を生じさせ、相手を見下すことに繋がります。自分を知恵のある者と考えてはなりません。へりくだることが重要です。へりくだって、主からの知恵、主の教えを素直に受けるのです。


 21節。悪に負けてはいけません。悪に悪を返すことは、悪に負けることです。悪に勝つとは、善をもって返すということです。だから、善をもって悪に打ち勝ちなさいと勧められています。私たちが、主を中心にした対人関係を築いていくなら、真に祝福された、主のみわざに用いられる生涯を歩むことになります。


 私たちはサウルを反面教師とし、ダビデやヨナタンを良い教師として、主に祝福される信仰姿勢を身に付け、主を中心にしての、すべての人との対人関係を築いていくことが重要です。今与えられている対人関係を、主に中心にすることで吟味し、正されなければならないなら、正していきましょう。へりくだることが必要なら、主の御前で真の謙遜を求めて、へりくだりましょう。



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