top of page

2022年5月8日 礼拝「主が味方である平安」Ⅰサムエル18:6 ~16

  • hikaruumichurch
  • 2022年5月8日
  • 読了時間: 9分

 今朝は一つの質問から始めましょう。皆様は、天地万物の創造者、生けるまことの全知全能の神を味方につけたいと考えているでしょうか、それとも主なる神との敵対関係にあり続けても良いと思っているでしょうか。主なる神と味方でいたいか、敵のままでかまわないかということです。


 突然、このような質問をされて戸惑っているかもしれません。しかし冷静になってこの問いに、答えを出してほしいのです。私は、神を敵に回してはならないと思うのですが、みなさまはどうでしょうか。このお方が味方であるなら、これほど心強いことはありません。私たちは意識していませんでしたが、かつては、神との敵対関係にあったということです。神との敵対関係のままでいるのか、神を味方につけるのか、どちらかを選ぶのです。私たちキリスト信仰者は神と和解させていただいた者たちですが、今も主イエスを信じる信仰を得ていない人は皆、神との敵対関係にあるということです。


 パウロはローマ人への手紙で述べています。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことですと。罪の中を歩んでいる私たちは神との敵対関係にあります。創造者である神を自分の神としないで、自分の考えや思いを優先して生きることが、神に敵対することです。私たちはそのことを罪と認め、主イエスを信じる信仰によって、主なる神を自分の神とし、神に聞いて、神のことばを生きる者と変えられました。これが救いです。神と和解したのです。そして神と和解させられた私たちは、主なる神を味方にしているということです。だから、私たちは、再び、神に敵対して生きることを退けなければなりません。そうしていつも、神が味方であることの幸いを味わい続けたいのです。


 さて私たちは、イスラエルの2代目の王として選ばれた、ダビデの生涯を見ています。今日で3回目ですが、ダビデは王として任職されたにもかかわらず、実際に王位に就くまで、いのちの危険にさらされることとなります。


 初代の王サウルがダビデのいのちを狙い続けるのです。このような不条理が許されて良いのでしょうか。主なる神はなぜ二代目の王として選んだダビデがいのちの危険にさらされることを許可されたのでしょうか。その目的を明確に知ることはできません。主なる神のお考えの全容は私たちには分からないからです。ただ分かることは、主なる神がダビデを二代目の王として選ばれたこと、そして主なる神の主権の中で、必ずダビデがイスラエルの王となる時が来るということ、そして様々な苦難の中で、ダビデはイスラエルの王として整えられていき、主のみわざに用いられるにふさわしい王となるための訓練を受けているということです。その間にどのようなことが起こるとしても、主のご主権の中、ダビデは守られ、神の計画は進められていくのです。


 主なる神の計画が進められていく中で、私たちは、神を味方として歩むか、神に敵対して歩むか、どちらかを選ぶということです。ダビデは神を味方とすることを選び通しました。主がともにおられるという恵みを決して遠ざけることをせずに、共にいてくださる主なる神を意識し、主とともに歩むことを選び通したのです。


 神が味方となるのか、敵となるのかは、私たちが主なる神とどのような関係を持とうとするかで決まります。主なる神を自分の神としないで、自分中心に生きる、つまり罪の状態にとどまるなら、神との敵対関係を歩むことになります。


 ダビデはその一生を、主なる神とともに生きることを願い、それを選び取って歩みました。羊飼いの時も、ペリシテ人の大男の戦士ゴリアテとの戦いの時も、サウル王に仕えていた時も、主なる神の主権を認め、主なる神に用いられることを願って自分をささげ、主の栄光が現されるために、自分を差し出し、明け渡し続けたのです。


 18章5節。イスラエル初代の王サウルはダビデを重用し、戦士たちの長としました。ダビデが戦士たちの長となったことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれたとあります。ここまでは、ダビデにとっては順風満帆であったと言えました。しかし、その主の恵みによって与えられる祝福が、危機的状況を生み出すのですから、罪人が作り出す社会においては何が起こるか分からないということです。


 6節。ある日、ペリシテ人との戦いに勝利して戻ってきたイスラエル軍を、女性たちがタンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌いおどりならが迎えた時の歌のことばが、サウルの気に障ります。7節。勝利の歌、歓喜の叫び、意気揚々と勝利の凱旋パレードをしたサウルは、いっぺんに興ざめするのです。そして激しい怒りに満たされました。ダビデと自分が比較されたことで不満が生じ、ダビデへの不信感と恐れが湧き起こるのです。


 8~9節。サウルはダビデを、王位を脅かす者、やがて自分を王位から退け、ダビデ王朝を築き上げるのではないかという、疑いの目で見始めたということです。10節。そのような時に、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、家の中で狂いわめいているサウルを、ダビデはいつものように、竪琴を弾いて、鎮めようとします。しかしサウルはそのダビデを殺そうと槍を投げつけたのです。


 この時のダビデの思いを聖書は何も記してはいません。ダビデは何を思い、これからどのようにサウルに接したらよいのか、いろいろと考えたことと思いますが、それがどのようであったかは、全く分かりません。ただ12節、主がダビデとともにおられたという記述に、ダビデの、主にあっての、対処の仕方を探ることはできます。と同時に、主なる神もまた、ダビデを守るために働かれました。13節。サウルはダビデを自分のそば近くに置くことをやめたのです。サウルは自分自身をダビデの危険から守ろうとしたのでしょう。しかし結果として、ダビデが守られることになったのです。


 ダビデは、どのような状況に置かれても、そこに主なる神の支配があることを忘れませんでした。主なる神は私たちとともにおられるお方、インマヌエルの神です。主イエスも弟子たちに、そして私たちに約束しておられます。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいますと。ともにおられる主なる神とともなる歩みをするか否かは、私たちの側の意思による決断の問題です。主なる神を仰ぐなら、主なる神に顔を向けるなら、そこにともにおられる主なる神を確認できます。しかし主なる神に背を向けているなら、主なる神がともにおられることが見えなくなります。私たちが主なる神を退ける時、主なる神から退けられることになるのです。それは主なる神が私たちを離れるということではなく、私たちが神を退け続ける結果なのです。


 旧約聖書の箴言に、心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされるとあります。私たちが遭遇するあらゆる状況のただ中に、主なる神がおられるということを認めるかどうかは、私たち次第です。主なる神は、わたしはそこにいると宣言しておられます。そこにおられる神を、自分の主と崇めて、そのお方の支配に自分を委ねるなら、主は、すべてのことが働いて益となる道を備えてくださるのです。


 ダビデは、この、主なる神を信頼するという信仰を身につけました。これが、主はダビデとともにおられると、サウルに言わせたあり方です。だからサウルはダビデを恐れました。主がともにおられるなら、主のご計画の通りにダビデは用いられることになります。それは当然、自分は退けられることになり、それは断じて受け入れられない。だからダビデを抹殺しなければならないとの結論に達したということです。


 サウルはダビデを千人隊の長にしました。ダビデは人々の先に立って、戦いに臨む人物であることをサウルは知っていました。だから隊長にすることで、敵の手で戦死させることができればと考えたのです。そしてサウルの思惑通り、ダビデは兵の先に立って行動しました。ただ主がダビデとともにおられたので、ダビデはどこででも勝利を収めます。その状態を前にして、サウルはさらにダビデを恐れることになるのです。15節。


 この後、サウルは、ダビデ殺害を公言するようになります。事あるごとに、ダビデのいのちを狙い始めるのです。しかし味方である主なる神は、多種多様な人々を備えて、ダビデを守り続けます。その筆頭は、サウルの子ヨナタンです。またダビデの妻となったサウルの娘ミカルもダビデを救うために働きます。そのことが19章に記されています。


 しかしその後、サウルの疑心暗鬼はさらにひどくなり、ダビデの助命を願うヨナタンをも殺そうしました。ヨナタンでさえダビデを守ることはできないと分かった時点で、ダビデはサウルの下から離れ、逃亡生活を始めます。逃亡生活においても、主なる神は事あるごとにダビデを守ります。そしてその時々に人々を用いてダビデを支えたのです。神が味方である平安とは、順風満帆のように前進できる時にも、逆風満帆によって退却せざるを得ないほどの逆境に置かれたとしても、すべてを主権者である神に委ね切る中で与えられる平安です。だから恐れからも解放されます。主なる神の約束が実現されるまで、主のご計画が実行に移されるまで、主ご自身が守ってくださるのです。


 主イエスを信じて、神の子どもとされた私たちも同じです。主なる神が味方ですから、どのような状況に置かれたとしても、主のみわざの中、私たちは支えられ、守られ、主のご計画の通りに事が進んでいくのを見ることになります。いのちの危険にさらされたとしても、逆境に置かれ、どん底を味わうことになったとしても、それで終わりではなく、主のご主権の中で、次のみわざに用いられていくのです。だから私たちは短絡的に物事を判断しないようにしましょう。主の平安の中を歩み続けることができるのですから。


 イザヤ書41章10~13節。私たちは神の御子を信じる信仰によって神との和解に入れられました。主イエスを信じる信仰によって、神の愛を、いのちを捨てるほどの愛で愛されていることを知った私たちです。神が味方である平安を、私たちの側から捨て去ってはなりません。主なる神を自分の神とし続けること、神のことばを聞き続け、神のことばを生きる一歩一歩を踏み出し続けることが、味方である神とともに歩む信仰生活なのです。この主なる神が与えてくださった平安を歩み続けることができる。それが祝福であり、幸いです。この祝福、この幸いを、日々体験し、味わいつつ歩みたいのです。




Comments


bottom of page