2022年5月29 礼拝「祝福された信仰生活のために」マタイ16:15~19
- hikaruumichurch
- 2022年5月29日
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更新日:2022年5月30日
キリスト信仰者である私たちは、誰もが真に祝福された信仰生活を歩みたいと考えているのではないでしょうか。もしそのような願いが全くないとするなら、もしかすると、真にキリストを信じていないのかもしれません。もう一度初心に返って、真に祝福された信仰生活を歩みたいと願うキリスト信仰者となっていただきたいとお勧めします。
さて、信仰生活と言われるように、信仰は日々の生活に生かされることで、さらに霊的に祝された信仰へと成長していきます。主の兄弟ヤコブはその手紙の中で、信仰と行いについて書き記しました。信仰の父アブラハムを例に挙げて、信仰が行いとともに働き、信仰は行いによって完成されましたと書き、そうして、からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いていては死んでいるのですと書き送ったのです。
また、信仰生活は教会生活であると言われます。それほど、キリスト信仰者の歩みは、教会と密接な関わりを持っています。ですから良い教会生活を送ることが、良い信仰生活となり、真に神の祝福に与る信仰へと成長していくのです。なぜそのように言えるのかをまず、キリストの教会とは何かということから考えます。
教会というと、建物を連想する人も多くいるでしょう。しかし教会は建物ではありません。八重山福音光る海教会とは、この教会堂を指しているのではありません。この建物は八重山福音光る海教会が活動の拠点となる教会堂として使っているだけです。5年前までは登野城のプレハブを教会堂として用いて礼拝を献げ、活動をしていました。
教会とは何でしょうか。教会と訳されたことばは、新約聖書でエクレーシアという語が使われていますが、これは「呼び出す」という語から派生した語で、呼び出された者たち、召し集められた者たちの意です。新改訳聖書では殆どが教会として使われていますが、4回だけ教会以外の集まりに使われています。使徒7章38節では荒野の集会、つまり神の民イスラエルの集会、使徒19章32節では集会、41節では集まり、つまり市民集会、39節では正式な集会、つまり議会です。エクレーシアの元の意味は、会衆とか集会です。
このことばが神の教会として使われたのは、神が私たちを神の民として呼び集めた民、それまで属していた各共同体から召し集めた会衆だからです。私たちイエス・キリストを信じた者は、この世の民であったのが、そこから神の民として、神のご支配の中に呼び出された者たちです。私たちは、サタンが支配する暗闇の世界から、神のご支配の中に移された者たちなのです。そのような神の民の集まり、それが教会です。主イエスに属する新しい共同体、キリストのからだである神の教会に、私たちは召し集められたのです。
それでは私たちの集まりが神の教会であると言えるのは何によるのでしょうか。教会という名の集まりは、キリスト信仰者たちだけでなく、いろいろとあります。キリスト教の異端では、モルモン教会、末日聖徒イエス・キリストの教会があります。キリストの教会と名付けていますが、キリストの教会ではありません。他宗教では、天理教や立正公正会も教会を建てています。それらの集まりとキリストの教会の集まりは何が違うのでしょうか。私たちの集まりがキリストの教会である基準が今日の箇所に定められています。
13節。この出来事はイエスとその一行が ピリポ・カイサリアの地方に行ったときのものです。そこでイエスは、人々は自分のことを何と言っているかと弟子たちに尋ねます。弟子たちから人々の考えを聞いた後で、15節、あなたがたは、わたしをだれだと言いますかと弟子たちに尋ねたのです。それでペテロが、弟子たちを代表して答えました。あなたは生ける神の子キリストですと。
18節。主イエスはこの岩の上に、揺るがない基礎となる岩、ペテロが代表して告白した信仰告白の上に、わたしの教会を建てると宣言されました。わたしの教会、キリストの教会は、イエスは生ける神の子キリストであるとの信仰告白の上に建てられたのです。主イエスがエクレーシアの語を使われたのは、この箇所と18章17節だけです。これらを見て分かることは、この信仰告白の上に建つ教会に、大きな権威が委ねられていることです。教会には、天の御国の伴が与えられ、教会の営みがそのまま、天の御国へとつながっています。大きな恐れとともに、責任を感じさせられます。
キリストの教会とは、神に召し出された人々、呼び出された人々の集まりであり、その集まりがキリストの教会である基準は、その集まりにおいて、イエスは生ける神の子キリストであるという信仰の告白がなされていることです。教会は神がご自分の主権をもって召し出した者たちの集まりなのです。
エペソ人への手紙1章22節。神は、キリストを、かしらとして教会にお与えになりました。23節では、教会はキリストのからだであると言われています。キリストと教会の関係は、キリストは教会のかしらであり、教会はキリストのからだです。かしらとは司令官です。私たちのからだで考えるなら、脳が指令塔となってからだ全体を動かしている。そのように、キリストは教会を正しく活動させるための指令塔となり、キリスト信仰者各人がかしらであるキリストに聞き従うことで、教会は正しく導かれていくということです。
教会がキリストのからだであるなら、からだにはさまざまな器官があり、各器官が有機的に関わりあって、日々の営みをしているように、教会には様々な持ち味を持つキリスト信仰者が集められ、互いに組み合わされ、結び合わされることで、健全なキリストの教会が建て上げられていくということです。一人ではからだはできません。同じような器官が集まったのでは、バランスの取れたからだにはなり得ません。
1コリント12章12節。ここは私たちが、さまざまな器官の1つであり、それは与えられた賜物の違いによるということが記されているところです。12節。14節。27節。教会とは、キリストをかしらとして仰ぐ、一つの有機的な関わりをもつキリストのからだであり、私たちはそのからだを構成している各器官であるということです。聖書は、キリストと私たち個々人との関わりよりも、キリストと教会の関わりを、より密接なものとしていることがお分かりいただけたでしょうか。かしらとからだを分けることはできないように、キリストと教会を分けることはできません。私たちは個人として、イエス・キリストを信じてキリスト信仰者になり、神の子どもとなる特権をいただきました。
罪からの救いに関しては、一人一人の信仰が問われます。しかし救われた者は、教会に属し、キリストはその教会と関わるということです。エペソ5章32節。21節からは、夫と妻の関係が、キリストと教会の関係になぞらえて記されています。夫と妻は一心同体であり、決して切り離すことができないものですが、それがキリストと教会の関係と同じものとして説明されているのです。キリストと教会は、決して切り離せない関係なのです。
1章23節。教会は、すべてのものをすべてのもので満たす方、キリストの満ちておられるところなのです。教会はキリストをかしらとして仰ぎ、キリストの指令に基づいて動きます。教会が動くのは、キリストの指令に従うことによってです。教会はキリストご自身を現わす存在なのです。
キリストと教会、そして教会とキリスト信仰者の関係が分かったことと思います。私たち一人ひとりは、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、その信仰によって、罪が赦され、神の子どもとされました。キリスト信仰者とされた私たちは、キリストがご自分の教会として建てられたその集まりに属する者とされ、キリストは教会を愛し、かしらとして教会を導いておられます。つまりキリストの教会を離れてのキリスト信仰者は存在し 得ないということです。父なる神は、キリストの教会を離れ、独自に歩んでいる信仰者を真に霊的に恵み、祝福することはなさいません。キリストの教会から離れた信仰者が、霊的な健全さを保つことはできなくなるのです。
では、教会生活とは何でしょうか。教会生活とは、キリストのからだである教会に、そのからだの一つの器官として関わりを持って歩むことです。キリストのからだが、キリストのからだとしての機能を果たすために、各器官であるキリスト信仰者が、キリストのからだの一器官であるという自覚を持って、互いに関わりを持つことなのです。その具体的な関わりを持つ場、互いの信仰が整えられていく場が、各地域教会です。
地域教会に、お客さんとして連なるのではなく、自分がその一員であるという帰属意識を確立して、その目に見えるキリストのからだとしての教会の営み、活動に関わりを持つことが大切です。各人が、キリストのからだの一つ一つの大切な器官であり、かしらであるキリストの指令を受けて、自分に委ねられた働きを果たしていくのです。
私たちは今、目に見える地域教会の一つ、八重山福音光る海教会に集められています。神に召し出されて、地域教会の一つに集められました。キリストの教会への帰属意識を確立し、教会の営みに関わっていくこと、これが教会生活をするということです。私たちは、自分がキリストの教会の一員として、教会から、家庭へ、学校へ、職場へ、その他、この世で関わりを持つそれぞれの場へと遣わされ、再びキリストの教会へと帰ってきます。キリストの教会の一員という自覚を持って、すべての営みをするということです。
キリスト信仰者一人ひとりが、自分はキリストの教会そのものであるという意識で歩むなら、その結合体であり、共同体であるキリストの教会は、どれほど素晴らしい働き、福音宣教、教会形成の主のみわざに用いられていくでしょうか。キリストの栄光を現し、輝かせ、キリストの福音を宣べ伝え、キリストの教会を建てあげていく存在として用いられるのです。それはそのまま、キリストのからだの各器官の祝福になるということです。
八重山福音光る海教会がキリストの教会ではなくなって、単なる会衆の集まりに変わっていくなら、キリスト信仰者は、この教会が、真にキリストの教会に戻れるように関わらなければなりません。もしキリストの教会に戻れないなら、健全なキリストの教会に移ることが必要になります。決してキリストの教会から離れてはなりません。
今私たちは、一人ひとりが、八重山福音光る海教会に属する者とされています。神がこの教会を通して推し進めようとしている働き、主のみわざに関心を持ち、主に用いられることを求め、キリストの教会の一部分として、主のみわざに参与することが大事です。
エペソ4章13節、15~16節。私たちの教会が、この集まりがそのままキリストを現わすものとなるまで、かしらであるキリストに聞き、そして従うことで、望みを抱きつつ前進したいのです。そうして主なる神がキリストの教会に与えてくださる祝福に、私たち一人ひとりも与りたいのです。神様はどのような祝福をお与えになるのでしょうか。楽しみに待ちましょう。具体的には与えられたときの楽しみですが、それまでの間も、私たちの心は喜びに満たされ、平安と感謝に溢れる生涯になることは間違いありません。それだけでも十分なのかもしれませんが。それ以上のことは与えられたときにじっくりと味わうことにいたしましょう。1章23節。

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