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2022年5月22日 礼拝「悔い改める者を喜ぶ神」ルカ15:1~7

  • hikaruumichurch
  • 2022年5月22日
  • 読了時間: 9分

 皆さまは大事な物をなくして、捜し続け、ようやく見つけたという経験があるでしょうか。私も近年は、なくし物をすることが多くなりました。あまり意識しないで物を置いたりすると、その時の記憶が全くなく、どこに置いたかを忘れてしまうのです。捜し物をする回数も増えています。そうして見つけた時は、良かったと思いますが、なくし物が大切であればあるほど、見つけた時の感謝と喜びは大きくなります。


 みなさまも、一生懸命に捜して、特に大切な物を捜し出した時の、喜びの大きかったことを思い出すことでしょう。今日の箇所には、主イエスの、捜し物に関する例え話があります。一匹の羊を捜し歩く羊飼いのたとえです。また、8~10節には、一枚の銀貨を捜す女の人のたとえが語られており、11節からには、ふたりの息子を持つ父親から離れ、放蕩して身を持ち崩した弟息子を待つ父親のたとえも語られています。


 1~2節。イエスの評判を聞き、イエスの話を聞きたいと思って、取税人や罪人と言われる人たちがイエスのもとに集まってきました。主イエスは、彼らを拒むことなく迎え入れたのです。それを見て、パリサイ人や律法学者たち、ユダヤ社会の宗教指導者たちは非難しました。この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にすると。その非難に対して、神のみ思いを教えるために、これらのたとえ話が語られたのです。


 ユダヤ社会においての罪人や取税人について簡単に説明します。宗教指導者たちから罪人と非難される人々は、犯罪人ではありません。宗教儀式に関する律法を守らない人々のことです。中には犯罪人もいますが、多くは神の民として期待されている律法を守る生き方をしていない人々を、あれは罪人だと非難していたのです。


 取税人は税金取りです。ローマ帝国は支配下にある国民に対して、住民たちに人頭税や通行税などを課していました。その税金を取り立てる者に、現地住民を用いたのです。取税人たちは、異邦人であるローマの手先となって、税金を取り立てる者たちであり、異邦人と接触するので、宗教的に汚れており、また売国奴として非難を受けていたのです。


 宗教指導者たちは、罪人や取税人たちが律法を守らないから、いつまでもローマから独立できないと考えていたのです。そのような罪人や取税人たちを、イエスは受け入れ、食事まで一緒にするので、パリサイ人たちは文句を言ったのです。どうして罪人や取税人たちを受け入れるのか。どうして宗教的な汚れに無頓着なのか。多くの民衆の心を捉えているイエスが、律法を守らない人々を是認するように振る舞うことで、律法を軽視する生き方を助長することになる。それでは、神の国の復興は遠ざかるばかりだと。


 しかし彼らは、罪人や取税人たちを、律法を守らないということで非難し、蔑むだけで、その人々が真に神に立ち返ることができるように助けようとはしませんでした。そこに彼らの間違いがあり、その間違いを示すためにたとえを語られたのです。


 4節。一人の羊飼いがいます。彼は百匹の羊を持っていて、ある日その中の一匹が迷い出てしまったというのです。良い羊飼いに飼われる羊たちは、本当に幸いです。一匹の羊は、美味しい牧草を食べながら進んでいるうちに、羊飼いの声が届かない所まで離れてしまったのでしょうか。どこに行けば良いか分からなくなり、自分なりに戻ろうと駆け回っているうちにますます遠ざかってしまったのでしょう。こうなってしまった羊は、もはや自分では帰れません。ただ羊飼いを求めて啼くだけです。


 羊の特徴は、まず目が悪い。ド近眼だと言われます。また自分でおいしい水や食べ物を捜し出すこともできません。自分勝手に動き回り、迷子になりやすいという特徴もあります。特に毛がふさふさの時には、窪みなどでひっくり返ると、自分では起き上がることができず、そのまま死を待つことになるのです。私たち人間に似ていると言われます。近視眼的に物事を見ることがあり、自分勝手に、自己中心に動きやすい傾向もあります。迷い出て、間違いや失敗、罪に陥ることもあります。それを自分では正せないのです。


 良い羊飼いは、迷い出ていない99匹は野原に残したまま、いなくなった一匹の羊を捜して歩き回るのです。彼にとっては、とにかくいなくなった羊の救出がすぐにすべきことであって、99匹の羊を野原に残しておくことの心配は後回しにするのです。99匹の羊は大丈夫だから、そして99匹もいるのだから、一匹の羊を捜し回るために、残りの99匹を危険にさらす必要はないと考える人もいるでしょう。99匹の安全のためには、一匹の犠牲はしかたがないという論理も分かります。しかしこの羊飼いにとって、そのような論理は考えられないのです。一匹一匹が大切な羊であって、いなくなったなら捜し歩くのは当然のことです。だから啼き声を求めて、見つけるまで捜し歩くのです。


 8節。同様のたとえです。女の人が銀貨を10枚持っていました。10枚一組の銀貨ではないかと考えられます。結婚の時の記念品でしょうか。とにかく彼女にとって、その一枚一枚は大切でした。その一枚をなくしたわけです。当時、特に貧しい家は、入口以外に明かりが入るところがなく、日中でも暗かったようです。それで彼女は明かりをつけ、部屋中を掃いて、なくなった銀貨を見つけるまで念入りに、隈無く捜し続けたのです。


 羊飼いも、女の人も、見つかるまで捜し続けます。そして見つかったなら、6、9節。友達や近所の人たちを呼び集めて、大喜びで祝宴を開くのです。それほどに、この羊飼いにとっては一匹の羊が、この女の人にとっては一枚の銀貨が大切でした。それと同じように、神から離れて、罪の中をさまよう罪人である私たちを、その一人ひとりを、神は大切な者と見てくださり、捜し求めるのです。


 羊や銀貨を考えましょう。羊も銀貨も、自分では決して戻ることはできません。捜してくれる人がいて、見つけ出してくれるまで、羊も銀貨もそのまま放っておかれるのです。迷い出た羊は啼く以外に助かるすべはありません。その声を聞きつけて助けに来てくれる羊飼いを待つ以外にないのです。迷い出た羊を待っているのは死です。羊は自分で餌のありかや水のありかを捜し出すことはできません。方向音痴で、強度の近眼である羊は、どこに行けば安全かは分かりません。窪みに足を取られ、仰向けにひっくり返ったなら自分 では起きあがれません。そのままの状態でお腹にガスがたまり、そして死にます。野獣の餌食になるかもしれません。つまり羊飼いの元を離れた羊は、死んだも同然なのです。銀貨も同様です。どこかに入り込んだままなら、銀貨としての価値は全くありません。羊は羊飼いの元にあって、そのいのちが保たれます。銀貨はその持ち主のもとにあって、その価値にふさわしいものとなるのです。


 迷い出た羊にとっても、なくしてしまった銀貨にとっても、救いはただ、捜し出してくれる人の熱心さにかかっています。それは一方的な恵みです。このたとえでは、迷い出た羊もなくなった銀貨も私たちのことです。またこの時の背景を考えるなら、罪人や取税人たちがたとえられているのです。そして羊飼いや女の人は、その一匹の羊、一枚の銀貨に限りない価値を見ておられ、捜し出そうと熱心に関わっておられる主イエスがたとえられています。主イエスは取税人ザアカイの家に泊ったとき「わたしは失われた人を捜して救うために来たのです」と語られています。私たちは迷い出た羊のよう、なくなった銀貨のようであって、見つけだしてもらわなければならない存在なのだということです。


 そんなのは大きなお世話だと考える人もいるでしょう。別に自分は捜してもらわなくても良い、自由気ままに生きることができて本望だと言う人もいるでしょう。そういう人のこともここで語られています。7節。


 大きなお世話だと考える人のことを、悔い改める必要のない99人の正しい人と表現しています。これは皮肉です。このたとえでは、パリサイ人や律法学者たちのことです。彼らは、自分は律法を守っていて、罪人や取税人たちとは違うから正しい。今のままで十分だと自負しています。だから悔い改める必要もないし、捜し出してもらう必要もない。主イエスが差し出している罪からの救いなど不要だと考えているのです。


 自分には罪があり、救われる必要があると自覚する人は、救いを求めます。そして自分が捜し出された時、そのことを心から喜びます。救われることができて本当に良かったと心から喜ぶのです。しかし実際には、救われた私たちが喜ぶ以上に、捜し出してくださった方が喜んでいてくださるのです。また、天において大きな喜びがあるとも言われています。私たちが、自分が罪の中を歩んでいることに気がつき、罪を悔い改めて、神のもとに立ち返るのを、天の御使いたちがどれほど待っているかを覚えたいのです。私たちは、神の目には、それほどに、高価で尊い存在なのです。だから神の御子は、人となってこの地上に来られ、私たちの罪を赦すために、十字架で死んでくださったのです。


 もう一度7節。私たちが悔い改めることを、天において、大きな喜びがわき上がるほどのものとして待たれています。それに対し、悔い改める必要のない99人の正しい人と表現されている人々の、何と哀れなことかと思います。主イエスは言われました。医者を必要とするのは病人ですと。自分が病気だ、自分は治療が必要だと自覚するなら、医者のところに行くのです。実際に病気なのに、自覚症状がなければ、医者に行くことはしません。でも、自覚症状がなくても、病気なら、その病状は進んでいくのです。そして自覚症状が出たときには手遅れだということもあるわけです。


 パリサイ人や律法学者と言われている人たちは、自分は悔い改める必要がないと自負しています。しかし神のことばは明確です。正しい人は一人もいない。すべての者は罪を犯したのだと糾弾するのです。自分で自分を正しいと自負することはできます。しかし現実には様々な罪を犯していて、悔い改める必要があります。しかし神は、自己正当化する、その主張を尊重されるので、悔い改めを強いることはしません。しかしこれは、とても恐ろしいことなのです。


 神は私たちを捜し求めておられます。私たちが助けを求め、救いを求めるなら、主イエスが助けの手を伸べてくださいます。救われるということです。そして天では、大きな喜びがわき起こっています。自分は迷い出た者、助けが必要だと自覚して、救いを叫び求めるとき、神が備えられた罪の赦しと罪からの救いに与ることになるのです。大きな喜びを味わいましょう。天では大きな喜びがわき起こっていることを知って、自分が救われたことをさらに喜ぶ者となりたいのです。




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