2022年5月1日 礼拝「無駄か、御業への参与か」ヨハネ12:1~8
- hikaruumichurch
- 2022年5月1日
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今日から第一主日礼拝では、主イエスの十字架への道の、最後の一週間を確認しようと考えています。ヨハネの福音書12章から17章に、人々に捕らえられる前に語られた、主イエスのことばが記されています。それを確認するということです。今日はマリアの主イエスへの高価な香油の油注ぎの場面です。弟子たちはそれを無駄だと非難したのです。
私たちが無駄と思うのは、そこに価値を認めないからです。同じ事をするとしても、ある人はそれを価値ありと考えるけれど、別の人はそれを無駄と思うわけです。私は日曜日の礼拝に何よりも価値を置いてきました。キリストのからだである神の教会の兄弟姉妹、愛する神の家族とともに集まり、父なる神への礼拝を献げることに、最大の価値を置いてきたということです。会社勤めの8年間、日曜日にかかる社内旅行や出張の時も、同行した人たちと相談をし、時間や仕事内容の調整をして、現地の教会で主への礼拝を献げるようにしていました。一度だけ、どうしても私がそこにいないと回らない仕事があり、そのときは出張先で仕事をしましたが、それ以外は先輩や同僚、後輩の協力を得て、礼拝を献げました。どうしてそこまでするのか、せっかく社内旅行で遊びに来ているのに、勿体ないと言われましたが、私は主への礼拝に、何よりも価値を置いていたので、時間を確保しようとしたのです。その価値を認めない人にとっては、それは無駄な時間だと思えるわけです。別なことに時間を使った方が良いと。
教会での祈り会も同じでした。主日礼拝ほどではないですが、大きな価値を見ていたので、できるだけ時間の確保に努めました。しかし祈っても仕方がないと思う人は、なぜわざわざ週の半ばに教会に集まって祈る必要があるのか、他のことに時間を使った方が無駄にならないと考え、そのように行動するのです。しかし主の祝福はそこにありました。
さて、キリスト信仰者である私たちは、信仰生活という日常の営みにおいて、何に価値をおき、何を無駄だと思っているでしょうか。みなさまは信仰生活に、それは教会生活ですが、教会生活にどれほどの価値を置いているでしょうか。静かに主の御前で吟味することが大切です。今日私たちは、自分がどう思うかではなく、主は何に価値を置くように招いているかを吟味したいのです。主の御前でそれは無駄なことかを考え、イエスを主と崇 めるにふさわしい信仰生活、教会生活を歩むために、みことばから確認しましょう。
今日の箇所には、主イエスが十字架で処刑される直前に、エルサレム近郊の村ベタニヤに滞在したときの出来事が記されています。マルタとマリア、そしてラザロの家に、主イエスと一行はいつものように滞在しました。ラザロはかつて重い病気にかかり、そのまま死んでしまいました。墓に葬られて4日経ったときに、主イエスによってよみがえらせていただいたのです。その出来事が11章に記されています。その際に、姉のマルタは主イエスに対して素晴らしい信仰の告白をしています。11章23~27節。この信仰告白は、ペテロの信仰告白、あなたは生ける神の子キリストです、に匹敵する素晴らしい告白です。マルタは確信を持って語っているのです。あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。
マルタとマリアは比較されて、マルタではなく、マリアのような信仰を持つべきだと語られることがあります。しかしそれは間違った見方です。マルタとマリアの、それぞれの信仰の表し方の違いは、それぞれの信仰の個性の違いから来ているのであって、それを比較して優劣を付けてはなりません。マリアはじっくりとみことばに聞き、それを思索するタイプです。マルタは行動が先に出るタイプであって、主イエスに喜んでいただけるもてなしを考え、それによって主イエスに仕えているのです。
ルカの福音書10章では、マルタとマリアの主イエスへのもてなしの違いが記されています。その箇所では、マルタは食事や寝泊まりのため、良いもてなしをしようと動き回っています。マリアが主イエスのそばに座って、静かにみことばを聞き入っているのを見て、マルタは次第に苛立ち、何もしないでいるマリアに腹を立て、結果として主イエスに叱責を受けたのです。必要なことは一つです。マリアはその良いほうを選んだのです。それが彼女から取り上げられることはありませんと。自分にできることを喜んで主のためになすことは大切です。それは主に喜ばれる奉仕です。しかし人の、主への仕え方の違いに腹を立ててはならないと、マルタは教えられたのです。マリアのようにみことばに聞くことができるなら、それは良いことですが、マルタにそれを押しつけてはいません。
ヨハネ12章2節。マルタは給仕をしています。主イエスが諭したことは、自分に与えられた賜物や自分の持ち味を喜んで用いることが大事であり、自分と同様な行為をしない人に腹を立てたり、同調することを押しつけてはならないということです。マルタは神の子キリストのために、自分の持ち味である給仕を喜んでしたということです。
マリアも同じです。3節。非常に高価なナルドの香油1リトラ、328グラムを主イエスの足に塗りました。ナルドの香油とは、ナルドの木の根から採られる希少な香油で、1グラムが1日の労賃にあたる高価なものです。それが328グラムですから、328日分の労賃つまり年収相当の高価な香油が香とともに消えたのです。
皆さんはどう思うでしょうか。一年分の労賃に相当する香油を、一度に使い果たしたのです。これはもったいない、無駄だと責めるのは常識的でしょう。しかしその無駄、浪費としか思えない行動が、主のために、みこころにかなうものとしてなされるとき、それは主の称賛を受けるもの、喜ばれるものとして、主に受け入れられるのです。
4節。ヨハネの福音書では、イスカリオテのユダのことばとして紹介していますが、他の福音書では弟子たちと、複数の弟子たちの発言として紹介されています。5節。弟子たちも、マリアの行為を無駄だと考えたということです。私たちもそう思うでしょう。しかし主イエスは、マリアの行為を、みこころにかなうものとして受け入れたのです。
7節。マリアの思いを、主イエスが代弁されます。マリアがどこまで主イエスの十字架の死を理解していたかは分かりません。しかし主イエスのそばに座り、その語りかけに耳を傾け、思い巡らしてきたマリアは、主イエスの死は間近であると察したのです。
マリアもマルタと同様に、主イエスを、世に来られる神の子キリストであると認めていました。そして兄弟ラザロのよみがえりは、マリアに溢れるばかりの感謝をもたらしたのです。マリアにとって主イエスは、すべてのものをささげても、それで満足してはならないほどの崇高な神の子キリストです。だから純粋なナルドの香油を注ぎ尽くしても、全く惜しいとは思わなかったのです。人にどのように見られようと、人から非難されたとしても、心から主に仕える思いを込めて、その死に備えて香油を注いだということです。
マリアの行為は、人には認められず、非難されたけれど、主イエスはそれを喜ばれました。その時に言われた主イエスのことばがマタイとマルコの福音書に記されています。この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。マリアの行為は無駄なことではなく、みこころにかなうものとして受け入れられ、主の十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いの、神のみわざの実現のための、一つの大切な要素として位置づけられ、福音の宣教とともに語られているのです。
私たちは、自分がどう思うか、人にどう思われるかという人間の判断で、それは無駄であると考えるのは止めましょう。そうではなく、私たちの主なる神のための働きとして、主のために用いる時、時間も、能力も、お金も、その他のすべては、高価なものとして主に受け入れられ、主のみわざに用いられることになるのです。無駄にはなりません。
私たちは自分の思い、日々の生活、その行為を吟味しましょう。主のために、時間、お金、才能、その他いろいろなものを使うことに貧弱ではないか、もったいないとか、無駄だと思っていないかを吟味するのです。もしそうであるなら、考えを改めましょう。惜しむ心からではなく、感謝と喜びに溢れて、主のために活用するのです。主はそれらを、ご自分のみわざに用いることで、さらに私たちを、喜びと感謝に溢れさせてくださいます。主のための行為は、無駄に終わることはありません。主のみわざへの参与として、主が用いてくださるからです。1コリント15:58。
今週のみことば。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のため働きなさい。それは人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」ヨハネの福音書 6章27節

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