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2022年5月15日 礼拝「教会は何を祈ったか」使徒の働き12:1~17

  • hikaruumichurch
  • 2022年5月15日
  • 読了時間: 9分

もしみなさまが、霊的に祝福された信仰生活を望んでいるなら、祈りを疎かにしてはなりません。キリスト信仰者にとって祈りは、霊的呼吸と言われているように、生きた信仰生活を送るために欠かせない重要な要素です。祈りは主なる神との霊的で、人格的な交わりであって、霊的ないのちに溢れさせるからです。


 祈ることによって、自己中心から解放されます。祈ることによって、自分を神に委ねることを学びます。祈ることによって、神のみわざを待ち望む者となります。祈ることによって、神のご計画に従う決意をするのです。霊的な成長を求めているでしょうか。そうであるなら、もし祈りが疎かになっているなら、祈りの生活の再構築が必要です。


 キリスト信仰者は、自分の願いを神に押し付ける祈りをしてはなりません。自分の願いは願いとして率直に申し述べながら、最終的には神のみこころを思い、神のなさることにすべてを任せていく祈りが大切です。これは主イエスの祈りの姿勢に倣うことです。マタイの福音書26章39節。キリスト信仰者は祈り続ける必要があります。自己中心の信仰生活から解放され、神中心に変えられるために、祈りは不可欠です。絶えず祈りなさいと勧められているのも当然です。真に霊的な祝福を味わうキリスト信仰者とされましょう。


 キリスト信仰者個々人にとって祈りが不可欠であるように、教会にとっても祈りは不可欠です。今日は個人の祈りではなく、教会にとっての祈りの大切さを確認します。


 1~3節。キリスト教会への圧迫が激しくなっていきます。国主ヘロデは、ユダヤ人たちに取り入ろうとして、12使徒の中心的な弟子の一人ヤコブを殺し、次にペテロを捕らえました。4節。過越の祭りの後に、民衆の前で殺すことで、さらにユダヤ人たちに取り入ろうとしたのです。この危機的な状況で、教会がしたこと、それが祈りです。


 5節。教会はペテロが捕らえられたと聞くや、すぐに集まり、ペテロのために、神に熱心に祈り続けました。何日間の祈りかは記されていません。種なしパンの祭は一週間ですから、長くて一週間でしょう。教会とはすばらしい共同体です。連絡を取り合って緊急に祈り合うことを、私たちの教会も続けていますが、一緒に集まって、熱心に、心を合わせて神に祈り合うことのできる教会員が増やされたなら、さらに幸いです。


 教会はペテロのために祈りました。ペテロの進退がはっきりするまで祈り続けたのですが、教会はどのような祈りをささげていたのでしょうか。初代教会の祈りを見ていくことで、この時の教会の祈りの内容も考えることができます。


 ペテロが救い出されるようにと祈ったことは当然でしょう。しかしそれ以上に、獄中でペテロが大胆であるように、人を恐れて萎縮するのではなく、神に信頼して、神のことばをまっすぐに語れるようにと祈ったのだと思うのです。初代教会は迫害の直中でそのように祈っていたからです。教会の祈りの一部を見ておきます。4章29節。


 先ほど交読した所です。教会の祈りは、ユダヤ教の宗教指導者たちからの脅かしの事実を申し述べることであり、脅かしから救い出してください、脅かしをなくしてくださいではなく、脅かしの中で大胆にみことばを語らせてくださいと祈るのです。


 5章29節。ペテロや使徒たちは、宗教指導者たちの前で、あなたがたにではない、神に従うのだと宣言しました。これは死を覚悟しての宣言です。宗教指導者たちに逆らうことは、その社会を乱す者として罰せられ、排除されます。どのようなしうちを受けることになるかは、彼らの心次第です。彼らの心象を悪くするような言動を避けるのが無難です。しかしペテロたちは大胆に、あなたがたには従えないと明言しました。だから33節。使徒たちの発言を聞いた指導者たちは、彼らを殺そうと考えたのです。ただこの時はパリサイ派の重鎮ガマリエルの提言のゆえに殺されることを免れました。


 そして40~41節。キリストに従うことのゆえに辱められたことを喜ぶ使徒たちの姿が記されています。これが初代教会のキリスト信仰者たちです。主イエスに従うことによって殺されたとしても、キリストを信じる者とされたこと自体を喜んでいるのです。


 12章。教会はペテロのための祈りを熱心に続けていました。彼らは、ペテロの解放をよりも、どのような圧迫にも怯むことなく、大胆にキリストに従えるように祈っていたと思われます。教会は主なる神にペテロを委ねたのです。彼らは、主は最善をなさると確信していました。ヤコブのように、ペテロの殺害も考えたでしょう。そうなったなら、それが主の最善です。ここに信仰があります。主を信頼し、すべてを主に委ね、主のなさることをそのまま受け入れる信仰です。信仰とは、主への信頼です。主にすべてを任せることが信仰なのです。私たちもまた、どのような状況に置かれたとしても、そこですべてを主に任せる信仰へと成長させていただこうではありませんか。そのためには神の家族とされたキリスト信仰者が共に集まり、心を一つに祈り合うことは不可欠です。独りよがりの、自己中心の信仰から解放されるために、祈り合うことが必要です。


 教会はペテロのために祈り続け、教会の祈りに支えられて、ペテロの獄中生活が続けられました。何日拘留されたのでしょうか。いよいよ引き出される前夜、主なる神は御使いを遣わし、不思議な方法でペテロを助け出します。6~9節。主の許可の下、ヤコブは殺され、ペテロは助け出されます。主のみわざがなされるのです。


 ペテロの反応です。9、11節。彼自身、自分の助けを求めて祈っていたのではありません。ペテロは殺されることも覚悟していたのです。ペテロは町に出て、御使いが去った後で、それは幻ではなく現実であることに気付きます。ユダヤ人が待ち構えているすべてのもくろみから、主が救い出してくださったと知るのです。ペテロも、自分の解放をではなく、どのような扱いを受けたとしても、主を証する言動ができるようにと祈っていたと考えられます。私たちもこのような祈りをする者として整えられましょう。


 教会の反応は12節です。ペテロは救い出されると、皆が集まっていると思われる場所に向かいました。突発的な状況の中で、どこに行けば良いかが定まっていることはすばらしいことです。そこには大勢に人が集まって祈っていたのです。彼らはペテロの処遇がはっきりするまで祈り続けていました。しかしペテロの解放は考えていなかったようです。


 15節。ペテロが外にいると告げたロデという名の召使いに対する、人々のことばが記されています。これは侮蔑的なことばですが、それだけペテロの解放はあり得ないと考えていたことの現れです。さらに16節。彼らはペテロを見て非常に驚きました。ペテロが救出されることは期待していなかったようです。教会は、迫害や脅かしの中で、肉体の守り、いのちの安全ではなく、信仰の守り、主への忠実さを祈っていました。私たちもこのような祈りをささげたいのです。


 今日私たちが、特に注目したいのは、5節の、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていたということ、そして12節の、そこには多くの人が集まって、祈っていたということです。キリスト信仰者とされた私たちは祈りの大切さを知っています。しかし個人としての祈りの大切さに終わらせていないでしょうか。主と個人的に、霊的で親密な交わりの時を持つことは大切です。そのために時間を確保し、祈り続けていくことは、さらに祝福と恵みに満ちた信仰生活を得させます。霊的成熟が期待できます。


 と同時に、新約聖書は、教会に宛てて書き送られているのです。絶えず祈りなさいという勧めも、教会が共に集まり、心を一つにして絶えず祈ることへの招きです。パウロは自分のために祈りの要請をしています。エペソ6章18節。獄中で捕らわれの身となっている自分のために、心を合わせて祈ってほしいと要請したのです。


 私たちは個人主義に気をつけなければなりません。行きすぎた個人主義が、教会の、教会による、教会としての歩みを妨げるからです。個人の権利は大切で、それは尊重され、守られなければなりません。しかし個人の権利を、個人の立場を、個人の都合を主張しすぎて、教会全体の益を求めること希薄になっていたなら、それは問題です。キリスト信仰者は教会に属する者とされました。教会のかしらはキリストであり、私たちはキリストのからだの各器官です。キリストのからだである神の教会に益をもたらさない個人主義は排除されなければなりません。福音の私化、福音の恵みを私物化するという誘惑を退けて、教会の益を共有する私たちであることを追い求めていきましょう。そのために教会は共に集まり、心を一つにして祈ることが大事なのです。


 そもそも教会が祈るのは当然のことでした。聖霊が与えられたペンテコステは、10日間の祈りにおいてです。教会は、主イエスからの約束を待って、一つ所に集まり祈り続けていたのです。そして教会は、まず集まり、使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを割く、すなわち主の聖餐に与かり、そして祈っていたのです。常日頃から共に集まっていたので、危機的な状況の時、突発的な出来事に対して熱心に祈ることも、日常の集まりの延長線上のことでした。私たちの教会もそうありたいと、皆さまは願わないでしょうか。


 物質的な豊かさ、地上生涯での御利益を追い求める社会の中で、その流れに巻き込まれている私たちは、忙しい毎日を強いられています。そして忙しいことが、何か価値があることのように思い込み、忙しくなければ存在価値がないかのように見なしていることはないでしょうか。ここに霊的な貧困に引き込む罠があります。教会本来のあり方、集まって交わり、祈り、主の聖餐に与かり、みことばを学ぶという、初代教会が迫害の直中にあっても、大胆に主を証していた、いのちに溢れる信仰生活を、私たちも歩みたいのです。


 これは信仰生活を続ける中で、いつかは身に付くことなどと、のんきに考えてはなりません。共に集まることを求め、共に祈ることを欲する必要があるのです。祈らないキリスト者は、霊的に枯渇していきます。平常時には信仰が保たれているように見えても、問題が生じると適切に対応できずに、信仰の破船に会う危険と隣り合わせです。


 同様に、祈りに乏しい教会は、霊的な活力に乏しく、霊的洞察力も貧弱で、平常時はそれなりに繕っていても、危機的な状況においては、根底から揺すぶられ、崩されてしまうことになりかねません。常日頃から共に集まり、心を一つにして祈る教会は、非常事態に置かれた時に慌てず、右往左往させられることなく、冷静に祈り、主のみわざを待ち望む共同体として、しっかりと立ち続けることになります。そのような教会として、そのような教会の一員となって、主に仕えていきたいのです。キリストからだである神の教会に属しているという自覚をしっかりと持って、キリストのからだの各器官を担っている私たちが互いに愛し合い、労り合い、支え合って、キリストのからだとしてふさわしい教会を建てあげられていきたいのです。この幸いを、この祝福を共有できる一人ひとりとなりましょう。祈り合う仲間がどれだけ増やされるかが伴です。


 マタイ18章19節。主イエスの教会に対する約束です。そして20節。教会、すなわち主イエスの名において集まるところに、主の臨在の約束があります。主が教会に与えられる祝福を共有するお互いとなりましょう。共に祈り合うことを求めるのです。



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