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2022年4月3 礼拝「身代わりによる赦し」 ルカ 23:13~25

  • hikaruumichurch
  • 2022年4月3日
  • 読了時間: 7分

 私たちの周りには、不合理と思える事柄がいろいろと生じてきます。私たちが悪いことをしたのでもないのに、人々から非難を受けることがあります。誤解され、真意が伝わらないために、ひどく傷つけられることもあります。ただこちらにも、誤解を受けても仕方ない側面もあるので、不合理な扱いを甘んじて受け止めるのです。ただしそのような状況に置かれたとしても、すべてをご存じの全知の神がおられ、最終的には公正な審きがなされると知っているので、不本意な扱いとか、不合理な扱いを受けたとしても、忍耐をもって立ち向かうことができるのが、私たちキリスト信仰者です。


 今日の箇所には、私たちが受けるような不合理な扱いとは比べものにならないほどの不合理な扱いが記されています。罪が全くない方、そして罪を全く犯さなかった方が極刑の宣告を受けて処罰され、代わりに、暴動と人殺しの罪で拘留されている犯罪人が無罪放免とされるのです。これほど道理に合わない扱いはありません。


 ナザレのイエスが捕らえられたのは木曜日の夜で、その晩のうちに宗教裁判が開かれました。その様子は4つの福音書に記されています。ぜひ確認してみてください。この宗教裁判は、有罪判決を引き出すためだけに開かれたのです。これは宗教指導者たちの、当局としての立場を最大限に悪用しての横暴です。ここに神を恐れると口では言いながら、全く神を恐れない宗教指導者たちの実態があります。律法に従っていると言いながら、神の律法を自分たちの都合に合わせて悪用する、ご都合主義の律法主義者たちがいます。主イエス・キリストは、その不当な裁判を甘んじて受けたのです。


 ルカの福音書では22章66~71節が宗教裁判の様子です。簡潔に記されていますが、他の福音書では、多くの偽証人が立てられ、告発したけれど、イエスを罪に定めることはでなかったとあります。それでしかたなく70節、大祭司が直接尋問します。「では、おまえは神の子なのか」と。主イエスが「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と答えた、そのことばを取り上げて、神への冒瀆の罪と断定したということです。


 さて今日の箇所は、ローマ総督による裁判の様子です。14節。宗教指導者たちがローマ総督にイエスを訴え出たその理由です。2節も同じです。民衆を惑わして、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストであるとして、ローマの安全を脅かす危険な人物として訴え出たということです。宗教裁判で死刑に定めた罪状とは全く違います。彼らの、目的達成のためには手段を選ばない、そのご都合主義には驚かされます。


 ローマ総督ピラトは、祭司長たちが訴えているような罪は何も見つからなかったと言います。15節では、死に値することを何もしていないと。だから16節。釈放すると宣言したのです。しかし主イエスは極刑に処せられます。これはどういうことでしょうか。


 この点については、先ほど交読したヨハネの福音書から確認しましょう。18章33節から19章11節までに、イエスとピラトの対話が詳細に記されています。対話を進めながら、ピラトはイエスの無罪と釈放を繰り返し述べています。18章38節。19章6節。12節。


 10~11節。ピラトはローマの権威を傘に着てイエスに語っているけれど、それは神から委ねられた権威であって、預かり物でしかなく、真の権威は神の子、神ご自身である主イエスにあるのです。ピラトは裁判官としてイエスに対しているけれど、結局は自分が判断したようには判決を下せない、公正な審きを行うことさえできない罪人でした。やがて公正な審きが行われるとき、真の審き主であるイエスの前に、ピラトも立たされるのです。そのような関係が主イエスとピラトとの対話に現れています。


 さてピラトはイエスを釈放するための方策を考えます。過越の祭りの時には囚人のひとりを釈放するという恩赦の慣習を用いてイエスを釈放しようとしたのです。18章39節。そこで彼は、暴動と人殺しのかどで捕らえられていたバラバを、イエスの対抗馬として差し出します。マタイの福音書には、ピラトの群衆への語りかけが記されています。「おまえたちは誰を釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか」と。バラバを引き出すなら、群衆はイエスの釈放を要求するに違いないと考えたのです。しかしピラトの目論見は完全に外れます。早朝の総督官邸に集められていた群衆は、宗教指導者たちを支持するエルサレムの住民たちだったということです。


 ルカの福音書に戻ります。18節。提案を拒否されたピラトですが、それでもイエスを釈放しようと努力します。20節。それに対する群衆の叫びは21節、「十字架だ。十字架につけろ」でした。その激しい要求に驚きながらも、ピラトは22節、釈放するのが道理だと説き伏せようとしたのです。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから釈放する」と3度目もイエスの無実を証言し、釈放するのが道理であると宣言したのです。


 しかし23~24節。ピラトは結局、群衆の要求に屈服させられました。なぜローマ総督ともあろうピラトが、属国であるユダヤ人群衆に屈服させられたのでしょうか。この経緯についてはヨハネの福音書で知ることができます。


 ヨハネの福音書19章12節。ピラトはユダヤ人たちの脅しに負けたということです。「イエスを釈放するのなら、あなたはカエサルの味方ではない。自分を王とする者はみな、カエサルに背いている」との脅しに打ちのめされたのです。皇帝に訴えるぞと言われ、ピラトは自分の保身を選んだということです。正義に従わずに、打算に陥るなら、当然の結論でしょう。11節にあるように、ピラトには主イエスに対して何の権威もありません。


 さてバラバ・イエスについては、聖書記者もこの場面でしか記していません。聖書外の資料もないわけです。ですから彼がどういう人物で、どのような生涯を送ったのか知るよしもありません。彼はローマ政府に対する政治的な暴動を起こしたと考えられますが、それも確定はできません。人殺しの罪にも問われています。


 バラバは恩赦の対象にされました。彼が願ったわけではありません。また模範囚として生活し、釈放にふさわしいとして声をかけられたのでもありません。何の功績もなく、価値もない囚人が、突然釈放されたのです。主イエスが彼の代わりに罪に定められた結果、彼が無罪にされたということです。ここに主イエスの十字架の意味が示されています。


 裁判によって明らかにされたのは、イエスには死に値する罪が何もないことです。どんなに偽証を集めても、何の罪もでっち上げられなかった事実が、主イエスが罪を全く犯さなかったことの証言なのです。このお方が極刑に処せられ、その見返りによってバラバは赦免されました。ただバラバが主イエスを信じたかについて、聖書は沈黙しています。バラバが主イエスを信じたなら、罪の赦しを受け取り、主の御前での公正な審きの時に、罪のない者として受け入れられますが、主イエスを信じることを拒んだのなら、神の御前での罪は残り、罰せられることになります。この世で赦免されただけということです。


 主イエスの十字架は身代わりの処刑です。主イエスは、その生涯において何一つ罪を犯さなかったけれど、私たち全人類の罪をその身に負って、私たちの代わりに罪の罰を受けて、その身代わりによって、私たちに罪の赦しが差し出されているのです。本来なら、罪 を犯してきた私たちが、その罪に対する処罰を受けるべきです。しかし主イエスが十字架 で罰を受けてくださったのです。これは神の一方的な恵みによることです。


 私たちに促されているのは、この神の恵みを感謝して受け取ることです。救われるために必要なのは、十字架の身代わりの死によって差し出されている罪の赦しを受け取るだけです。これが神を信じることであり、神を神として認めることなのです。その時私たちは罪のない者、罪を犯さなかった者と見なされ、神に受け入れられます。


 神の子イエスが、神ご自身が、身代わりとなりました。主イエスには、神には、全人類 を遥かに超えた価値があるので、全人類のあらゆる罪を帳消しにする身代わりの処罰となるのです。この身代わりを、大きなお世話だと退けてはなりません。自分のためであると感謝して受け取るべきです。その応答は私たちに委ねられています。私たちが信じるなら、その信仰が神に義と認められ、罪の赦しと、罪から救いに与るのです。




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