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2022年4月24日 礼拝「全世界よりも重いいのち」マタイ16:21~26

  • hikaruumichurch
  • 2022年4月24日
  • 読了時間: 9分

 「終わりよければすべてよし」ということばがあります。良い終わり方ができるなら、その生涯の過程においていろいろと問題があったとしても、その生涯は良いものだったと言えるということです。もし私たちが、自分の人生、この地上生涯において、良い終わりを迎えたいなら、日頃から良い歩みをめざしていることは重要になります。いい加減な生活をしていて、良い終わりを願ったとしても、悪事を働いていて、人生最後の時には、有終の美を飾って終わろうと考えたとしても、良い終わりを迎えられる保証はありません。自分の終わりがいつかは分からないからです。まだ先があると思っているうちに、人生の終わりは突然やってきて、罪滅ぼしも、人生を改善することもできずに、この世を去るかもしれません。もし、自分の人生を、良い終わりで締めくくりたいと願うなら、そう思う時が、生き方を変えるチャンスだということです。


 今日の聖書の箇所に記されている主イエス・キリストの語りかけの、特に26節に注目しましょう。ここで主イエスは、人は、たとえ全世界を手に入れても、と言われました。昔から、天下取りというのは、大きな野望です。天下を治めることを求めて、力を誇示した人もします。戦国時代の武将たちも、まさに、天下を取るために、戦いに戦いを続け、そうして自分の領土を拡げようとしました。


 世界帝国をめざし、実際に帝国を築いてきた国もたくさんあります。アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシア帝国、ギリシア帝国、そしてローマ帝国など、世界の歴史には、それぞれの時代の覇者となった王たちが、巨大な帝国を築き上げ、権力をその手にしました。それでも全世界を手に入れたわけではありません。


 主イエスは言われます。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるかと。全世界を手に入れたとしても、死んだならそれで終わりです。さらに永遠のいのちを失ったなら、何ものにも替えがたい、最大の損失だと言われたのです。


 私たちは冷静に考えましょう。この世でどれだけ権力を手にしても、どれほどの富を築いても、どれだけ業績を残しても、それがまことのいのち、神のいのち、永遠のいのちを得ることに結びつかないのなら、それらはすべて、むなしいということです。


 私たちも、多少の差はあっても、何らかの野望を持っています。この世において成功したいという思いもあります。実際に、地位や名誉、富は大きな魅力があり、あった方が良いと思えます。しかしそれらの、この世での成功、あった方が良いと思う、地位や名誉、富のゆえに、神のいのちへの道が閉ざされしまうなら、私たちは潔く、それらを捨て去ることを選び取れるでしょうか。それらから自由になっているかという問いです。


 この世のすべての物質的な祝福を失ったとしても、まことのいのちを得ることの方が、はるかに大きな価値があるのです。全世界を手に入れるよりも大きな価値が、永遠のいのちにはあるということです。それだけの価値があるからこそ、神の御子は人としてこの地上に来られました。私たちを罪から救い、滅びからいのちに移してくださるために、ご自分のいのちを捨ててくださったのです。私たちが、まことのいのちを手にすることができるために、主イエスは十字架でいのちを捨ててくださいました。


 25節。この主イエスのことばも深いです。いのちという同じことばを使いながら、一方では、この地上生涯を生きるいのちが言われており、他方では、永遠を生きるいのちが言われています。いのちを救おうと思う者はそれを失うのだと主イエスは言われました。このいのちは、地上生涯を生きるために与えられたいのちで、この地上を生きるいのちに固執すると、永遠を生きるいのちを退けることになると言われたのです。


 他方、イエスのためにいのちを失うとは、地上生涯を生きるために与えられたいのちに固執しない、永遠のいのちのためには、地上でのいのちを失っても良いと、そのいのちから自由になっていることが言われており、そのような人々は、そのまことのいのち、永遠を生きる神のいのちを見出すのです。


 さて、私たちは、今を生きるいのちがすべてであると考えているでしょうか。永遠を生きるいのちがあると言われているのに、そのいのちを求めないで、この世がすべてであるかのような生き方で終わらせて良いのでしょうか。


 私たちには、永遠という概念があります。不思議ですね。なぜ私たち人間は、永遠を思うのでしょう。その答えは、永遠があるからです。そして天地万物を創造された、生けるまことの神が、私たちの心に永遠を思う思いを与えられました。これが旧約聖書・伝道者の書にある宣言です。そしてまことの神は、永遠に存在しておられ、私たち人間を、ご自分のかたちとして、ご自分に似せて、永遠を生きる者として創造されたのです。本来私たちは、永遠を生きる存在とされていたのです。


 しかし人は、神に聞いて生きるという造られた本来のあり方を拒み、自分の自由意思を神から離れることに使いました。これが聖書が指摘する罪です。罪とは、神から離れた状態、神に聞いて生きることを拒み、本来のあるべき状態から逸脱した状態のことです。人は罪を生きる者となったので、永遠を生きるいのちを失いました。神に聞いて生きることを止めるなら、必ず死ぬと言われた神のことばが現実となったのです。


 今私たちは、地上生涯を歩んでいますが、それは死に向かっているということです。人は必ず死にます。不老不死をどんなに願っても、人は老い、そして死ぬのです。今は老化防止について研究が深められ、近いうちに実現されるかもしれません。老いを味わわない生涯が手に入るかもしれません。それでも死は防げません。120歳のモーセのように、目はかすまず、気力も衰えなかった、つまり老化はしなかったけれど、死にました。私たちは必ず死ぬのです。この地上のいのちに固執する者を、主イエスは、いのちを救おうと思う者と言われ、その者は永遠のいのちを失うのだと言われたのです。


 21節。そのときからとあります。これは弟子たちを代表して、ペテロがイエスに、あなたは生ける神の子キリストですと告白した、その時からです。弟子たちは、イエスを約束のメシヤ、キリストと認め、告白しました。しかし彼らは、イスラエルの国を復興する力ある王、政治的に、社会的に、ローマの支配下から解放する王を願ったのです。


 だから主イエスは、弟子たちの間違った考え、誤った期待を正す必要があり、キリストは殺され、三日目によみがえられなければならないと示し始められたのです。


 22節。ペテロは主イエスのことばに対して、そんなことが、あなたに起こるはずがありませんととイエスをいさめます。


 23節。主イエスはペテロをサタン呼ばわりして、叱責しました。神のことばとして受け入れるのではなく、自分の好み、願いを優先することで、神のことばを退けようとする、そのあり方がサタンそのものだと叱責されたのです。ここに罪が指摘されています。神のことばを神のことばとして受け入れないで、自分の思い、自分の都合、自分の好みを優先することで、神のことばを退けてしまうこと、このあり方が罪そのものであり、人は罪人として生きることで、具体的な罪や過ちを数多く犯しているのです。


 24節。主イエスは、サタン呼ばわりしたペテロを始め、弟子たちの一人ひとりを、永遠のいのちに招きます。自分の思いではなく、イエスを神の子と崇め、神のことばを神のことばとして受け入れ、神のことばを聞いて生きること、それが自分を捨てて、イエスについていくことであり、永遠のいのちを生きることなのだと招いたのです。自分の十字架を負うとは、神に従わずに、自分中心の生き方をする自分を十字架につけることです。


 自分の十字架を負うということを、困難や苦しい状況を、自分の十字架であると受け止めて、それをあえて負って生きることのように言われることがありますが、ここで主イエスが言われた、自分の十字架を負うこととは違います。自分を優先して、神のことばを退けてしまう罪人の自分を、十字架に付けることへの招きなのです。ペテロは自分の願い、自分のメシヤへの期待を、主イエスのことばよりも優先しました。これが罪です。


 自分を優先する、人間中心に考える罪人のあり方を十字架に付けて、古い自分に死に、主イエスのことばをそのまま受け入れ、神のことばに聞いて生きる、全く新しい自分に生きることを、自分の十字架を負って、わたしについてきなさいと言われたのです。


 主イエスは十字架で処刑されました。自分で予告したとおりに、エルサレムで、長老、祭司長、律法学者たちから、またローマ兵の手によって、多くの苦しみを受け、罵られ、嘲られ、むちで打たれ、十字架刑という、最も重い死刑の方法で処刑されたのです。


 それは私たちこそが受けなければならなかった罪の処罰を、主イエスが代わりに受けてくださったことなのです。罪のない方が、罪を犯さなかった方が、罪人であり、罪を犯してきた私たちの代わりに、十字架刑で処罰されました。あの十字架刑は、本来私が受けるべき処刑なのに、主イエスが代わりに処刑されたのです。この身代わりによって、私の罪の処罰は終わったと感謝して受け入れるなら、私たちの罪は赦されます。この救いへの招きを、神のことばだから受け入れるのかが問われているのです。


 そんなことは信じられないと、自分の思いを優先して、神のことばを退けるのか、そんなことは信じられないけれど、神のことばだからと、自分の思いを退けて、神のことばを受け入れるのかが、問われています。自分の思いを退けること、これが自分を捨てるということです。自分の十字架を負うとは、主イエスの十字架は、私の罪の処罰であり、あの十字架に私が付けられていると認めることです。その上で主イエスについていくのです。イエスを自分の救い主であると信じ、受け入れ、自分の主と崇めて、そのことばに聞いて生きる、そのようにしてイエスについていく。これが救いです。


 自分のいのちを救おうと思う者は、自分を優先する生き方に固執する者です。神のことばが語られていても、それを退けていきます。自分の考え、自分の思い、自分の好み、自分の都合を、つまり自分を、神と神のことばよりも優先することで、神のことばだからとそれを聞いて生きる、まことのいのちを損じることになるのです。


 このいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。全世界でもいのちを買い戻すことはできません。ただ主イエスの十字架を、自分の罪のためであると感謝して受け取る、神のことばだからと、その約束を感謝して受け入れる、そのことだけが、まことのいのち、永遠のいのち、神のいのちを手に入れる唯一の道なのです。


 私たちは必ず死にます。地上生涯には終わりがあります。その時、良い終わりとして、永遠のいのちを手にしているのか、悪い終わりとして、永遠のいのちを損じているのか、みなさまはどちらの終わりに進んでいるでしょうか。進もうとしているでしょうか。


 良い終わりが差し出されています。それを感謝して受け取ることが大事です。そしてそれは今です。明日があるという保証はないからです。



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