2022年4月17日 礼拝「復活の事実」 マタイ 27:57~28:15
- hikaruumichurch
- 2022年4月17日
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皆さんはベン・ハーという映画をご存じでしょうか。古い映画ですが、ご覧になった方もいるでしょう。私は高校生のころに初めて見ました。競技場での戦車の競争シーンとか、キリストが登場するときは、いつも後ろ姿であったとか、興味深いシーンがいろいろありますが、この映画のクライマックスは、キリストの復活です。主人公はキリストの復活を目の当たりにして、主イエスを信じる信仰へと導かれるのです。
この歴史小説ベン・ハーは、リュー・ウォレスという人の作品です。彼はキリストの復活を否定する目的で、研究と調査を始めた人物です。彼はそれまでキリストを信じていませんでした。そして多くの人々が、キリスト教神話の虜となっていることを可哀想に思い、その呪縛から解放したいと考えたのです。そして彼は、キリスト信仰の基盤はキリストの復活にあり、この復活を否定できれば、キリスト教を完全に葬り去ることができると結論づけたのです。鋭い洞察です。彼は中東やヨーロッパ各地の博物館や図書館などを回りながら多くの資料を集め、深く研究を続けました。そして深く、また慎重に研究すればするほど、イエス・キリストについての聖書の記述が否定できない事実であることを認めざるを得なくなったのです。そして彼は、ついにイエス・キリストを自分の救い主、自分の神として受け入れて、歴史小説ベン・ハーを書き著わしました。この作品は、当初の意図とは正反対の副産物としてできあがったのです。
多くの人々は、キリストの復活なんか信じられないと言います。それは当然のことでしょう。死んだ者が生き返るなどということは、一般的にあり得ないことです。だから多くの人々は信じられないとして、キリストの十字架と復活による罪の赦しを拒絶するのです。そしてそれは当然であると理解できます。
しかしどうでしょう。キリストの復活を、信じられるか、信じられないかというレベルで議論して良いのでしょうか。人が主観的に考えて、これは自分にとって信じられることだから、自分は信じるとか、これはとても信じられそうもないから、自分は絶対に信じないなどとするなら、真理を見失うことになります。キリストの復活は、とても信じられないことです。しかしもしキリストが、事実、復活したとするなら、信じられなくても、受け入れなければなりません。そしてキリストが実際に復活したとするなら、それは神であることの証拠として認めなくてはならないのです。
私たちが問いかけるべきことは、キリストの復活は事実なのか、それとも嘘・偽り、作り話なのかということです。私たちが、キリストの復活は信じられないと思っても、もし事実であるなら、受け入れなければなりません。逆に、キリストの復活にこそ望みがある、だから復活を信じるのだと思っても、もし偽りであるなら、受け入れてはならないのです。主観的に考えるのではなく、客観的に、事実は何かと問いかける姿勢が大切です。そして事実を事実として受け入れ、偽りは偽りとして退ける誠実さが大切です。
キリストの復活を信じない人々は沢山います。しかしキリストの復活を否定できた人は誰一人いないという事実を覚えなければなりません。イエス・キリストが十字架で死なれたということは、歴史上の事実です。これを否定する人はいません。無知のゆえに、イエス・キリストは物語上の人物であると考える人はいます。しかしそれは歴史を知らないだけであって、イエス・キリストの歴史性を覆すことはできないのです。イエス・キリストは確かに十字架で死にました。ローマ総督ピラトが死刑の判決を下しました。そして三日目にイエスの遺体がなくなりました。葬られた墓が空になったのです。ここまでは誰も否定できない歴史上の事実です。そしてイエス・キリストの遺体はどこにもありません。誰もイエス・キリストの遺体を見つけ出し、差し示した人はいないのです。
イエス・キリストの墓はなぜ空になったのでしょう。イエス・キリストの遺体はどこにあるのでしょう。多くの人々は、イエス・キリストが復活したことを受け入れられずに、いろいろな理由をつけて説明しようとします。否定するのではなく、受け入れないための理由付けをしているわけです。弟子たちが夜の内に、死体を盗んだとか、イエスは本当は仮死状態だったので、目を覚まして出て来たのだとか、目撃者である婦人たちは涙で目がかすんでおり、全く別の墓に行ったので、イエスが復活したと思ったとか、弟子たちは幻を見て、イエスが復活したと思ったとか、いろいろと説明を考えだして、イエス・キリストの復活を受け入れないように努力しているのです。
しかしどんな説明を考えだしても、墓が空になったという事実、イエスのからだはどこにもないという事実、そして何よりも、臆病だった弟子たちが、大胆にキリストの十字架の死と復活とを宣べ伝え始め、そして命をかけて、勇敢に、語り続けたという事実を、イエスの復活は偽り、作り話とした時に、納得できる説明ができなくなるのです。
イエスは十字架で死にました。それから50日程たってから、突然弟子たちは、キリストの十字架の死と復活の福音を伝え始めたのです。それまで当局の追求を恐れ、逃げ隠れしていた弟子たちが、突然人々の前で、大胆に主イエスの十字架の死と復活とを語り始めました。もはや恐れることも、逃げ惑うこともせず、宗教指導者たちの前で、大胆に証しをし、弁明しました。彼らの言動と指導者たちの対応が使徒の働きに記されています。
ユダヤ教の宗教指導者たちは、苦々しい思いで弟子たちの活動を見ているだけです。イエスの名前によって語ってはならないと命じました。黙らせようと権力を振るうのです。しかし彼らはキリストの復活を否定しないままでした。イエスのからだを人々の前に差し出して、弟子たちは全くのでたらめを伝えていると言えば、この新しい動きを封じることができます。黙らせる必要などないのです。イエスのからだを差し出すことが決定的な反証となるのです。しかしそれはできませんでした。当局の情報網をもってしても、イエスのからだを見つけることができなかったのです。だから圧力をかけて黙らせるのです。
私たちはまず、この事実を確認しましょう。今だかつて、キリストの復活を否定できた者は誰もいないという事実です。死体でも、生存であっても、イエスのからだを見つけ出せなかったという事実です。イエスのからだはどこにもありません。この事実を、まず認めたいのです。ユダヤ当局も、ローマ当局も、弟子たちを迫害しました。しかしその宣教の中心である復活を否定しなかったのです。キリストは確かに復活しました。だから葬られた墓は空になりました。主イエスは40日後に、天に昇っていかれました。だから、この地上のどこにもイエスのからだはないのです。
主イエスが葬られた墓には番兵がいました。宗教指導者たちの要請によるものです。27 章62節から、その時の状況が記されています。墓の入口には封印された大きな石が置かれていました。しかし番兵も、封印も、主イエスを死者の中に閉じ込めておくことはできなかったのです。28章2節。大きな地震が起きました。御使いが天から下りてきて、石をわきへころがしたのです。番兵たちも、婦人たちもその事実を見ました。しかし番兵たちはその事実に目を閉ざしました。彼らは受け入れなかったのです。11~13節。祭司長たちに買収されて、偽りの証言者になりました。
御使いの婦人たちへのことばが6節です。ここにはおられません、前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。主イエスは繰り返し、自分はエルサレムで苦しみを受け、殺されることを、弟子たちに語られました。そして三日目によみがえらなければならないとはっきりと予告していました。今、その予告の通りに、よみがえられたのです。生きている方を、死者を葬っている墓に捜すことは無意味だと御使いは言いました。
愛する皆さん。主イエスは十字架で死なれました。罪のための贖いとなられたのです。そして復活されました。復活は事実です。事実だからこそ、誰も否定できません。信じようとしない人は数多くいます。しかし事実は変わりません。事実だからこそ、それを受け入れた者は神の子どもとされ、力を得ます。主イエスは確かによみがえられたのです。だから今も生きて、信じる者に力を与え、永遠のいのちに生かします。復活は事実なので、信じる者に永遠の希望と確信を与えます。永遠への希望があるので、命を懸けて、大胆にイエス・キリストの十字架の死と復活の福音を宣べ伝えるのです。復活は事実なので、誰もキリスト者からその信仰を奪い去ることはできません。復活は事実なので、今も主イエスを信じる人々に、罪の赦しと罪からの救い、そして永遠のいのちをもたらすのです。
主イエスの復活は事実です。誰も否定できない事実です。だから私たちは、主イエスを信じ、主イエスの十字架の死と復活とを宣べ伝え続けるのです。この方以外には救いはないからです。人が救われるのは、十字架で死なれ、復活された主イエスを信じる以外にはありません。そうして私たちは毎年、主イエスの復活を記念しています。それは復活の事実を確認するためです。そして主イエスを信じるのでなければ、罪からの救いは与えられないのだということを確認し、新たな気持ちで宣べ伝えるのです。
第1コリント15章は、キリストの復活が事実であると確認させる箇所ですが、もしキリストが復活されなかったならという前提で書き記すのです。14節、15節、17節、19節。ここまで言い切る初代教会の弟子たちが、命をかけてキリストの十字架の死と復活による罪の赦しの福音を宣べ伝え続けることができたのは、まさしくキリストは死者の中から復活したことが事実だからです。彼らはキリストの復活の目撃者なのです。キリストの復活は事実であるゆえに、彼らは命をかける価値を見いだしました。そして十字架の死による罪の赦しを宣べ伝え続けたのです。イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しだけが、私たち罪人をその罪から救い出す唯一の方法だからです。
20節。主イエスはまさしくよみがえりました。死に打ち勝って、死者の中から復活しました。キリストの復活はなかったと証明した人は誰もいません。キリストの復活が事実であるなら、私たちは信じられないと思えても、それを事実として受け入れるべきです。そしてキリストがまさしく復活されたので、その十字架の死は、まさしく私たちの罪の贖いのためであり、信じる私たちの罪を赦し、私たちを罪から救うのです。
イエス・キリストは旧約聖書に預言されていた通りにこの地上に来られ、預言され、またご自分で予告した通りに十字架で死に、そして三日目に復活されました。このようなお方は他にいません。このお方こそ信じるに充分な、生けるまことの神です。このお方を自分の神、自分の救い主と信じ、自分の主とすべきではないでしょうか。
そうして私たちも、復活の初穂であるキリストに続いて、復活するのです。永遠を、創造者である神と伴に生きるのです。

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