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2022年4月10日 礼拝「十字架上での救い」ルカ23:32-49

  • hikaruumichurch
  • 2022年4月10日
  • 読了時間: 8分

 極刑に処せられて当然の犯罪者が、その罪を赦され、救われるとしたら、皆さまならどのように感じるでしょうか。特にその人によって被害を受け、その心に大きな傷を受けた被害者本人や家族にとっては、その人に極刑を求めるのは当然だと考え、その人の罪が赦されることなどあってはならないと言うかも知れません。


 今日の箇所には、その生涯の終わりに至るまで、考えることは悪いことばかりで、極悪非道を続けてきた結果、その当然の報いとして極刑を受けている犯罪人が、死の間際に罪を赦され、救いに与かるという出来事が記されています。この救いは私たち全人類にとっての先例でもあるのです。私たちも、どのような人生を歩んできたとしても、それが決して赦されない罪であり、しかも死の間際まで罪を犯し続けてきたとしても、主イエスが備えてくださった罪の赦しと罪からの救いに招かれているということです。


 今週私たちは、主イエスの十字架での死を記念する受難週を過ごします。今週は満月を迎えます。この週の金曜日が受難日です。主イエスは、今週金曜日に、十字架刑に処せられました。私たちはキリストの十字架での死が、私たちに罪の赦しをもたらすという神の恵みを覚え、救いの確かさを深く味わい知り、感謝を新たにしましょう。


 主イエスが十字架で処刑された時、二人の犯罪人が一緒に十字架につけられました。マタイの福音書やマルコの福音書には、この二人が十字架につけられているイエスを罵っていたと記されています。しかしルカの福音書では、そのうちの一人の犯罪人の心に変化が生じたことが分かります。彼は主イエスに救いを求めたのです。


 34節。十字架上での主イエスの最初のことばです。主イエスは、自分を嘲り、侮蔑し、そして殺そうとしている人々のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」と執り成し、祈られました。十字架上での最初のことばが、人々の赦しを求める祈りであることに驚きを覚えます。


 この主イエスのことばに、人として来られた神の子キリストの目的が現われています。私たちをその罪から救い出すために、私たちに罪の赦しを与えるために、主イエスは十字架で、身代わりの処罰を受けるために、人としてこの地上に来られたのです。本当なら罪を犯してきた私たちが、その罪のゆえに処罰されることが当然であるのに、主イエスが代わりに罪の罰を受けてくださったということです。


 執り成し、祈る主イエスと、罵り嘲っている宗教指導者との落差に驚かされます。祈る主イエスに対して、侮蔑するユダヤ人たち。抹殺を考え、それを成功させた者たちと、そのような者のために、赦しを求めて祈るお方。表面的に見るならば、明らかに敗北に追い込まれたと見える主イエスが、イエスを十字架に架けることができて、勝ち誇っているユダヤ人たちのために祈っています。処刑されているお方には罪がなく、処刑している者たちはさばかれるべき罪人であって、赦しを必要としているということです。そのために主イエスは今、十字架につけられ、痛みと苦しみに悶えながら罪の罰を受けているのです。


 イエスと一緒に十字架につけられた二人の犯罪人も、当初はイエスに悪口を言い、罵っていました。誰かを痛めつけることで、自分たちの苦痛を少しでも和らげようとしたのかも知れません。手と足を釘で打ち付けられ、呼吸をするために胸を上げる度に激しい痛みに襲われ、少しずつ出血していくことで喉が渇いていく中で時間が過ぎて行くのです。そのまま2日も3日も、ある者は一週間も、死ぬまで十字架から降ろされないのです。まさに見せしめのための拷問、痛めつけることが目的の処刑が十字架刑です。少しでも苦痛を和らげようと、見物人たちと一緒にイエスを罵ろうとするのも理解できます。


 そのような中で、一人の犯罪人の心に変化が生じました。もう一人は相変わらず悪口を言い続けています。39節。ばかにした言い方です。自分が悪いとは決して認めようとしない姿です。これは本当に残念としか言いようがありません。自分の罪を認めようとしない者は、罪の赦しを求めることはしないので、罪の赦しは得られません。


 しかしここに、自分の罪を罪と認めた幸いな犯罪人がいました。彼も始めは赦しを求めようとはしなかったのです。しかし十字架上のイエスを見、イエスのことばを聞く中で、彼の心に変化が生じました。彼はこの世の法律で裁かれ、死刑が宣告され、今処刑されています。これは当然の報いであり、仕方のないことだと受けとめていたでしょう。運が悪く捕まったのだからしょうがないと。しかし罪の赦しがあり、その赦しは自分にも差し出されているということに気がついたのです。


 人間社会では決して赦されない重罪を犯してきて、その当然の報いとして処刑されているけれど、自分の罪が赦しの対象になっていると気づいたとき、彼は神を恐れる者となりました。40節の彼のことばに驚きます。「おまえは神を恐れないのか」と。彼自身が、神をも、何者をも恐れずに悪の道を突き進んで来たのではなかったでしょうか。しかし、赦しがあると知ったとき、赦しを与えてくださる方を恐れることになるのです。それは、赦しが差し出されているのに、その赦しを拒むことがどれほど大きな罪となるかを知って、恐れおののくということです。詩篇130篇5節「あなたが赦してくださるゆえに、あなたは恐れられます」と、同じ真理が謳われています。まさにその通りであると言えます。


 この犯罪人の主イエスに対することばです。41節。まず彼は自分の罪を認めます。自分には罪があると自覚することがとても重要です。罪を自覚して初めて罪の赦しを求めることになるからです。


 42節。次に彼は、信仰の告白をします。イエスを権威ある主権者と認めて、呼びかけています。あなたが御国に入られるときにはと、神の国の主権者と告白したのです。だから自分を思い出してくださいと願うことができました。そして思い出していただけるなら、自分にも罪の赦しが及ぶ、自分も救われると信じたのです。


 この犯罪人のことばに、罪の赦しを受けるための3つの大切な要素が含まれています。まず第一に、自分の罪を認めること。自分は赦されなければならない罪人であるという認識と自覚が必要です。罪の自覚が罪の赦しを求めさせます。2つめは、イエスの十字架の死は自分の罪を赦すための身代わりであったと受け入れることです。イエスは処罰されなければならない罪を何も犯さなかったのに、私を罪から救い出すために、代わりに罪の処罰を受けたことを認めるのです。この主イエスの十字架の身代わりの処罰によってのみ、罪の赦し、罪からの救いがあると信じるのです。そして3つめは、主イエスに救いを願うということです。罪を赦す権威を持っておられることを認めて赦しを願うのです。


 この犯罪人の求めに対して、主イエスの応えが43節です。主イエスは、ご自分を求める者を、決して拒みません。そして言われました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と。本当にすばらしい、慰めと希望に満ちたことばです。今日です。彼はそのときから、主イエスと共に生きる者とされたのです。主イエスは彼の罪を赦し、救いの約束を与えました。救いが得られないのは求めないからです。自分は救われなければならないと思っていないので、自分にはまだ良い部分があると考えているので、切実に求め ることをしません。そのために、結局は罪の中を歩み続けるのです。まさに悲劇です。


 この犯罪人は、地上生涯の最後の最後になって救いを得ました。彼は主イエスと共に地上生涯を歩むという幸いな経験をほとんどしないまま、地上の生涯を閉じました。彼の生涯はある意味むなしかったと言えるでしょう。生涯のほとんどを神と無関係に生きてきたからです。年輩になってから主イエスを信じた人ほど、もっと早く信じれば良かったと告白します。というのは、それまでの人生は、この地上に何かを残すための人生であって、天の御国に携えていくことのできないもののために多くの時間と労力を費やしてきたと分かったからです。今罪からの救いに与っている私たちは、自分の地上生涯の早い段階から、主イエスとともに、主イエスのために、主イエスにあって歩むことの幸いを、もっと深く味わってほしいと思います。


 主イエスは十字架で、私たちの代わりに罪の罰を受けてくださいました。今、罪からの救いが私たちに差し出されています。私たちが求めるその時、主イエスは罪の赦しと罪からの救いを与えてくださるのです。主イエスは今日と言われます。私たちに与えられているのはいつも、今日です。明日が与えられるかは分かりません。この犯罪人は、十字架上で主イエスを信じました。そして永遠のいのちが与えられ、創造者である神を自分の神とし、救い主イエスを自分の主と仰ぐ者となりました。そうして天の御国の住民となる約束が与えられて、この地上生涯を閉じたのです。本当に感謝だと言えます。


 私たちも同じです。ほとんどの人は、今が、死の間際だなどと思ってもいません。しかしこれから何年生きるとしても、私たちに確実なのは、今日、です。そして全人類、すべての人に、罪の赦しと罪からの救いが差し出されています。その赦しと救いを受け取るなら、私たちにも「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と語りかけられ、地上で救いが与えられ、そのときから、永遠のいのちに生かされるのです。


 神のいのちに生かされた時から、永遠のいのちを生きる者となり、地上生涯において、地上生涯を終えても、主なる神とともに生きる救い、祝福を味わうのです。主イエスを信じ、呼び求めるなら、どのような生涯を歩んできたとしても、主イエスはその人を救いに入れてくださるのです。




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