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2022年3月6日 礼拝「揺るがない人生を築くために」マタイ7:24−27

  • hikaruumichurch
  • 2022年3月6日
  • 読了時間: 10分

 主イエスが山の上で、弟子たちに語られた教えも最後の部分になりました。ここで主イエスは、ご自分のことばを聞いていた人たちに対して、それを行う者と、行わない者の違いを、岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人にたとえています。


 主イエスは私たちに「どんな家を建てようとするのか?」ではなく「どこに家を建てようとするのか?」と問いかけるのです。自分の人生という家を、どのような土台の上に建てようとするのか、と考えさせているのです。


 私たちは、ついつい「どんな家を建てるか」「どんな人生を築くか」について関心があります。立派で快適な家を建てることを目指しているかもしれません。人々からうらやましがられる、成功を手にする人生を築くことを目指しているでしょうか。しかし主イエスは、どんな家かは問題にしません。土台をどこに置いて建てているかを問うています。砂の上に建てているか、岩の上に建てているかと問うのです。


 イスラエルの南部、砂漠地帯にも、大量の雨が降るときだけに川となるワディという場所があります。降水量によってどれくらいの川となるのか、そこが川になるか、ならないかは地元の人でないと分からないのです。そして大量の雨が降らなければ地表に現れない場所は特に、そこが川となることなど思いもつかないでしょう。そのような場所で、砂地の上に家を建てるなら、どんなに立派で、大きく頑丈な家を建てても、想定外の雨が降ったなら、濁流となって押し寄せ、土台ごと砂地をえぐってしまい、跡形もなく押し流されてしまうのです。家が立派であればあるほど、その損害は甚大なものとなります。どのような家を建てるかよりも、どこに家を建てるかが重要となるということです。


 主イエスのたとえで分かることは、洪水が押し寄せる前は、岩の上に建てた家も、砂の上に立てた家も、何も問題はなく、しっかりと建っていました。しかし想定外の雨が降った時、はっきりとした違いが現れました。岩の上に建てた家は倒れることはありませんでしたが、砂の上に建てた家は倒れてしまうのです。家が頑丈だからとか、丁寧に造ってあるからとかは安心とはならないのです。岩を土台としているなら、安心できます。


 砂の上に立てた家も、洪水が来るまでは大丈夫でした。すばらしい家、頑丈な家であっても、砂の上に建てていれば、土台ごと濁流に流され、倒れてしまいます。主イエスは、その倒れ方はひどかったと言われます。なぜ倒れたのか。砂の上に建てたからです。家が安普請だったとか、豪華絢爛だったということと関係はないのです。主イエスはどのような家かには触れていません。その家は砂の上に建てられていた。ただそれだけです。


 さて主イエスは、このたとえを話されることで、何を教えようとされたのでしょうか。私たちの人生にもいろいろな洪水が襲ってきます。これまでもいろいろな困難や問題にぶつかり、様々な試練に会ってきたことでしょう。これからもそれらは襲ってくると思われます。耐え難い苦しみや悲しみも生じるかもしれません。病気になります。失敗をします。私たちの生活を根底から覆すような自然災害に遭うこともあります。罪が横行する世の中で、いろんな嵐に見舞われます。事件や事故、戦争に巻き込まれ、今までの生活ができなくなりこともあります。そして、最後は死という大洪水が私たちを覆います。


 しかし岩の上に建てた家はびくともしません。それに対して、砂の上に立てた家の倒れ方はひどいと言われるのです。そして、この岩の上に家を建てるなら、どのような嵐が来ても、決して倒れない、と主イエスは断言されたのです。


 24節。主イエスは言われました。「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな」です。主イエスが語られたことばを聞きます。なかなかすばらしいと思います。恵まれたと感じます。主イエスが山の上で語られたことばを聞いた人々は驚きました。28~29節。主イエスの権威、力強さ、神ご自身が教えられたと感じるそのことばに驚いたのです。ではそのことばを聞いた人々は、それを行う者となったのでしょうか。それとも聞いただけで終わったのでしょうか。主イエスは行う者となるようにと招きます。


 主イエスはたとえたのです。わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができますと。ここで言われた主イエスのことばとは、直接的には、5~7章で語られた、主イエスの山の上での教えです。それを聞いて行う人、ということです。それはまた、神のことば全体と言うこともできます。


 私たちもいろいろな道徳訓とか人生訓というような教えを受けてきたでしょう。それらは、神さま抜きで成り立つもの、ある程度自分の努力、人間的な知恵で行うことができるものとも言えます。しかし主イエスが教えられた一つ一つの教えは、神さま抜きで成り立つものではありません。自分の努力とか、人間的な知恵で行うことはできないのです。


 この山上の説教の冒頭は、5章3節、心の貧しい者は幸いです、です。この世の常識とかかけ離れています。この世では、心の豊かな人は幸いだと考えるのです。しかし主イエスは、創造者である神に全幅の信頼を置かなければ生きていけないという意味での心の貧しさを説き、心の貧しい者は幸いですと招いたのです。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいと招かれます。この世では、そんな馬鹿げた考えはしません。敵は叩きのめすべきでしょう。迫害する者のために祝福を祈ることなど、自虐的だと非難されます。そのほか様々な教えを語られました。それができたら素晴らしいかもしれないけれど、現実離れしている、絵に描いた餅、机上の理想だと退けられてしまうようなことばかりです。


 しかし主イエスは言います。それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえられると。聞いて行うことは、自分の力ではできないと正直に認め、だから助けを神に求めるのです。心の貧しい者は幸いを見るのです。


 岩の上とは主イエスを土台とし、創造者である神を土台として家を建てる、人生を築くということです。砂の上とは、主イエスと無関係に、創造者である神を神とはせずに、自分や人間的な拠り所を土台として家を建てる、人生を築くということです。


 この世の多くの人は、自分の人生を、自分の能力や実力という土台の上に建てようとします。ある人々は、地位や財産を土台と考え、それを確かなものにしようと努力して、自分の人生を築き上げていきます。私たちもかつてはそのように考えていたとも言えます。


 自分の能力や実力を土台として生きる人は、神に頼るほど自分は弱くはないと思っています。自分の努力で、いろいろと勉強し、技術や技能を身につけ、磨くことで、自分で道を切り開くことが出来ると信じてがんばります。そんな努力は馬鹿げている、必要ない、何もしないでも大丈夫だと言っているのではありません。自分にできることを努力することそれ自体は大切です。実力や能力を人生の土台にしてはならないと言っているのです。


 自分に自信のある人は、ずっと健康で、自分の努力次第でどんなことにも対処してきたと考えます。病気になるとか、能力が衰えることなど、考えもしないのです。しかし病気になります。怪我をします。年老いていきます。自分の実力で対処できない問題や困難にぶつかることがあります。その時、今まで築いてきた人生が根底から覆されるのです。


 財産や地位を土台にして生きる人がいます。どうやったら儲けることができるか、どれだけ貯蓄があるのか、を追い求めます。どれだけ地位が上がったかを考えます。しかし不安は尽きません。いくら財産があっても、いくら高収入で、莫大な預金を持っていても、それで安心はできないので、もっと稼ぐこと、もっと貯蓄することに奔走するのです。地位が高いからといって安心はできません。失脚しないこと、その地位を奪われないこと、さらに高い地位を目指すために、足を引っ張り、人をけ落とすことを考え始めたりすることもあります。与えられた地位や財産を有効に用いるのではなく、それをなくさないことばかりに心を向け、労力を費やす人生になりかねなません。


 しかし今まで築いてきた人生が、根底から崩されてしまう洪水が押し寄せます。それでも人生をやり直すことはできます。しかし死という洪水が押し寄せたとき、確かな土台の上に自分の人生を築いていなかったなら、やり直しはできないということです。確かな土台、どんな嵐に翻弄されても、決して崩されることのない土台の上に自分の人生を築くことが大事です。最大の嵐、大洪水である死に対しても、崩されることのない人生です。


 1995年の阪神淡路大震災の時に、一週間ほど被災地に入り、兵庫県西宮市に滞在しました。被災地を歩いていて、活断層との関係で被害の状況が違っているのを見ました。立派な大邸宅が倒れている、その比較的近くに、さほど頑丈とも思えない家がそのまま建っていたのです。どんな家を建てるかも大事ですが、どこに家を建てているかが鍵となるということです。私たちはどんな土台の上に自分の人生を建てようとしているでしょうか。


 主イエスは語ります。24節。わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえられると。主イエスのことば、神が語られた聖書のことばを私たちは聞きます。それを聞いて行おうとするとき、自分の力ではとてもできないと思います。できないと認めて、行う一歩を踏み出すのを諦めるのか、できないと認めるから、心を貧しくして、父なる神に、主イエスに、聖霊に助けを求めて、行う一歩を踏み出すのか、その違いは歴然となるのです。自分の力や努力で、主イエスのことば、神のことばを行うことはできません。しかし助けを求めて一歩を踏み出すと、神のことばにあるいのちそのものが私たちを生かし、行わせてくださるのです。


 創造者である神、全能の神を信頼し、自分の神と仰ぎましょう。十字架でいのちを捨てて、私たちに罪の赦しを備えてくださった主イエスを信頼し、自分の主と崇めましょう。創造者である神、全能の神を信頼し、神のことばにあるいのちと力に信頼して、神のことばに自分を合わせて生きる一歩を踏み出すことが大事です。主イエスを信じる者の心に住んでおられる聖霊が助けてくださるからです。そうして私たちは、神のことばを行う者となるのです。心を貧しくする者に与えられる霊的な祝福を味わいましょう。


 心を貧しくしない者は、主イエスのことばを聞いても、それを行う者にはなりません。自分の思いや力を優先する者は、神に聞き従うことなど愚かしいと思うのです。自分はそんなに弱くはないと。逆に、自分にはとてもできないと思い、何もしないのも、自分の力に頼るからです。どちらであっても、心を貧しくすることを嫌がっている結果です。


 主イエスの招きに応じる者となりましょう。わたしのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に例えられると言われる主イエスの招きに応じることが大事です。十字架で私のために、あなたのために死なれた主イエス、罪の赦しを備えた神の御子、イエス・キリストを信じて、神のことばを聞いて行う者となるのです。


 主イエスのことばは明確です。聞いて行う者か、聞いて行わない者か、それだけです。聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人と言われるのです。神のことばを聞いて自分を合わせ、それを行う一歩踏み出す。それだけです。神の助けを求めて、神のことばを行う一歩を踏み出すのです。神の御前での賢い人となろうではありませんか。




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