2022年3月27日 礼拝「死と復活の予告と実際」マタイ16:13-23
- hikaruumichurch
- 2022年3月26日
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みなさまの中で、自分がいつ、どこで、どのように死ぬかを、正確に予告することができる人はいるでしょうか。人間である私たちには、将来何が起こり、どのようになるかを誰も正確に予測することはできません。自殺を予告して、この世を去ろうと計画しても、その通りに実行できるかは確定できないのです。いのちを支配しておられる創造者である神が許可されるなら、その通りに死ねますが、神が許可しなければ、死ぬことはできません。私たちには将来を正確に予告することも、確定することもできないということです。
将来は神のものであって、私たちのものではありません。私たちも計画を立て、その実現に向かって努力しますが、その通りに歩めるかは分かりません。また、その時に自分が生きていることも前提です。このように将来のことは、私たちのものではなく、神の支配の中にあるのです。予告し、その通りに歩むことは、人間にはできないことです。
しかし主イエスは、自分はどこで死ぬか、誰に殺されるかを予告しました。そしてその予告の通りに死なれたのです。これは驚くべき事柄です。主イエスが弟子たちに、自分の死についてはっきりと語られたことが、マタイの福音書では3度記されています。
最初の予告は今日の箇所、16章21節にあります。殺される場所はエルサレムで、長老、祭司長、律法学者たち、ユダヤ教の宗教指導者たちから多くの苦しみを受け、そして殺されると明言します。ユダヤ教指導者たちからねたみを買い、反発を受けている状況から、 いずれ殺されるかもしれないと予測することは、さほど難しくないかもしれません。
2度目の予告は、17章22~23節です。主イエスはご自分を指して「人の子」と言われました。人の子は人々の手に渡される、つまり実際に主イエスに手を下すのは群衆であると言わたのです。「十字架に付けろ」と叫んだのはユダヤ人一般民衆です。民衆からはそれなりの人気を得ていたことから考えると、本当かなと思える予告と言えます。
3度目の予告は、20章18~19節です。人の子は人々に捕らえられ、祭司長たちや律法学者たち、宗教指導者たちに引き渡されます。宗教指導者たちは宗教裁判をして、イエスを死刑に定め、十字架につけると、処刑の方法はローマ帝国の極刑である十字架刑だと明確に予告しています。そのために宗教指導者たちはご自分を異邦人、ローマ人に引き渡すのです。ローマ兵はイエスを嘲り、むちで打ちます。
十字架刑とはローマ帝国への反逆行為を抑えるための、見せしめの極刑です。ローマ帝国への反逆行為が立証されない者を十字架刑に処すことは通常あり得ません。ですからここまで詳細に予告すること自体が驚くべきことなのです。そして主イエスは、その予告の通りに捕まり、不当な裁判を受けて、ローマ人の手で十字架で殺されました。
さて、主イエスが予告したのは死だけではなく、三日目によみがえることも予告されたのです。殺されるかもしれないことは、それなりに予測できることであっても、復活の予告は、まさに驚くべきことです。16章21節では、よみがえらなければならないと、復活の必然性が語られています。主イエスのよみがえりは必ず起こるべきことであると示されたのです。その予告の通りに主イエスは死に、そして復活しました。十字架による死と三日目の復活が実際に起こったこと、この事実から、私たちは、イエスをキリスト、神ご自身であると信じるに足る、十分な根拠があると覚えたいのです。自分の将来を知っていることそれ自体が、イエスは単なる人でなく、神そのものであると告げているのです。
さて今日私たちが、主イエスが弟子たちにされた、ご自分の将来に関する予告を3箇所見て分かることは、十字架での死とその後の復活はセットで予告され、しかも繰り返し予告されたことで、主イエスが弟子たちの心備えをしておられたということです。
しかし弟子たちは、この予告を受け留められませんでした。創造者である神の救いの計画は、敗北とも思える十字架での処刑によって信じる者を救うという、人間的な常識からは生まれてこない方法だからです。このような救いの方法は、弟子たちばかりではなく、多くの人々にとっても信仰の妨げになるでしょう。私たちは謙遜になる必要があります。神のことばの前では、自分の人間的な理性や常識は引き下ろさなければなりません。
さて21節。そのときからとあります。そのときから主イエスは、繰り返し、ご自分の死と復活について、弟子たちに予告されました。そのときとは、13節からの出来事です。
13節。主イエスは、ご自分に対する人々の評価を聞いています。人々は自分のことをどのように考えているかと尋ねたのです。人々は概ね、主イエスに対して良い評価をしていることが分かります。いつの時代にも、イエス・キリストを悪く言う人は少ないのです。このような人物を、十字架刑という極刑で処刑することはほとんどないと言えます。当時の多くの人々は、ナザレのイエスを預言者のひとり、しかも特別な使命を委ねられた大預言者のひとりであると評価していました。14節。
人々の評価を聞いた上で15節、ではあなたがたはわたしを誰だと言いますかと、弟子たちの考えを聞きます。ここに信仰告白の大切さがあります。世の多くの人々が考えていることが正しいとは限りません。世の多くの人々の考えと違っていても、神が啓示された真理を告白することが重要になります。これが信仰告白です。人々が何と言っても、神のことばに自分を合わせ、それを事実として、それに同意して告白するということです。
弟子たちを代表してペテロが答えます。16節。ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えています。ここに私たちが告白すべき信仰告白があります。世の人々は、ナザレのイエスについていろいろと評価しています。それが多くの人々に受け入れられ、支持される説であったとしても、私たちは、聖書と聖霊とに教えられた、生ける神の子であり、キリストである主イエスを告白するのです。そしてこの告白こそが、キリストの教会の立つべき最も大切な基盤、土台となるのです。18節。この信仰告白の上に、主イエスは「わたしの教会を建てる」と言われたのです。
この時からです。弟子たちがイエスを生ける神の子キリストと認め、告白したその時から、主イエスはご自分について、死と復活をはっきりと弟子たちに伝え始めたのです。神が罪人を救う救いの方法は、救い主が苦しみを受け、殺されることによってもたらされるということです。そしてこれは、旧約聖書において、前もって預言されていたことです。
メシヤは苦難のしもべとして来るという預言のひとつが、先ほど交読したイザヤ書にあります。イザヤ書53章5節。メシヤは私たちの背きのために刺されるのです。メシヤへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、6節、主なる神は私たちすべての者の咎を彼、メシヤに負わせました。10節。彼、メシヤ、キリストを砕いて病を負わせることは、主のみこころであったとあります。7~9節には、主イエスの裁判、処刑、葬りまでもが預言されています。これらの預言の通りにナザレのイエスは歩まれたということです。
マタイの福音書16章17節。ペテロが正しく告白できたのは、父なる神が明らかにされたからだと言われます。私たちが、イエスはキリストである、神の子であると告白できるのも、父なる神が明らかにしてくださり、その通りですと認めることによるのです。人間的な理性とか判断、そしてこの世の常識的な考え方では、イエスをキリスト、生ける神の子であると告白できません。聖霊によらなければ、だれもイエスは主ですと告白できないのです。だから私たちは、確信をもって、イエスをキリスト、生ける神の子と大胆に告白すべきです。この世の人々に理解されなくても、人々から侮蔑されたとしても、それは当然だと割りきって、大胆に、イエスはキリスト、生ける神の子であると告白しましょう。
今やはっきりと、イエスは生ける神の子キリストであると示されました。そして弟子たちを代表してのペテロの信仰告白を受けて、いよいよキリストとしての使命、十字架への道を明らかに示し始めたのです。20節で、弟子たちが戒められているのは、多くのユダヤ人は、栄光の王としてのメシヤを待ち望んでいたので、弟子たちがイエスこそキリストであると言い広めるなら、人々が間違った期待をイエスに向けてしまうからです。
メシヤは十字架で殺されます。そして三日目によみがえらなければなりません。主イエスが人としてこの地上に来られたのは、私たち全人類の、あらゆる罪をその身に負って、私たちの代わりに、十字架で処刑されるためでした。主イエスの十字架の死は、反対者たちの妬みや陰謀によって引き起こされた、不本意な出来事によることではなく、唯一まことの神の、罪人をその罪から救うためのご計画によるものだと示すために、主イエスは、はっきりと、しかも繰り返し、十字架の死と復活を弟子たちに語り始められたのです。
この神のご計画は、人間的な考えからは出てきません。処刑され、排除されるという、普通に考えるなら失敗と思われる方法によって、救いがもたらされるということに、神の知恵があるのです。人間的な理性に固執しないで、神のことばであるからそれを受け入れるという決断、自分の人間的な判断よりも、神のことばに従うという決断によって、救いに与かるようにされたのです。神を神とすることが救いであるということです。
22節。メシヤを長い間待ち望んでいたユダヤ人にとって、ようやく見い出した救い主が殺されるということは、断じて受け入れられないと考える話でした。だからペテロは「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と諫めたのです。
23節。主イエスの厳しい叱責がペテロに向けられました。「下がれ、サタン」と。人間的な常識は往々にして神の計画を妨げます。常識は大切ですが、その常識を、神のことばを否定することに使ってはなりません。ペテロは人間的な常識、これまで培ってきたメシヤに対する人間的な思いで、主イエスのことばを受け、それを否定したのです。神のことばへの否定は、結局、神の計画を邪魔するだけです。私たちも気を付けましょう。
イエス・キリストの十字架での死と復活は、どうしても避けられない事柄です。神が罪人のために備えられた唯一の救いの方法なのです。そして今、私たちの前に、その救いが差し出されています。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死なれました。そしてそれを信じる者の救いが確かであることの証拠として復活されたのです。予告の通りに死に、予告の通りに復活された方、主イエスは、信じるに十分過ぎるほどの価値があります。そして、このお方を信じる者は、彼のいのちに生かされるのです。
今週のみことば 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

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