2022年3月20日 礼拝「時が良くても悪くても」使徒11:19~21
- hikaruumichurch
- 2022年3月20日
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私たちはイエス・キリストを信じることによって罪が赦され、救いに与りました。主なる神の一方的なあわれみと恵みのゆえです。私たちが救われたときに、この地上から天の御国に移されたなら、この地上での様々な苦悩から解放されたのにと思うのですが、私たちは救われた後も、この地上に置かれています。私たちに委ねられている、その大きな使命の一つは、人々にみことばを伝えるということです。
11章19節。初代教会のキリスト信仰者たちは、迫害によって散らされましたが、その先々でみことばを語っていました。20節では、主イエスの福音を宣べ伝えたとあります。この、19節の「みことば」と20節の「主イエスの福音」を入れ換えても、この文脈では意味が全く同じになります。つまりみことばを語るとは、主イエスの福音を伝えると言い換えられます。私たちキリスト信仰者がこの地上になおを置かれているその目的、使命の一つは、みことばを語る、つまり主イエスの福音を伝えることなのです。
今週のみことば。パウロによる厳かな命令です。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさいと命じました。この命令は、パウロを通して私たちにも委ねられた主なる神からの使命であると心得たいのです。
19節。ステパノのことから起こった迫害とあります。ステパノは使徒の働き7章で殺されます。そして8章で、教会への迫害が始まりました。この迫害の主な対象は、ステパノと同じ、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者であると考えられます。教会に対する迫害が激しくなり、特にギリシア語を話すユダヤ人キリスト者は目の敵とされ、方々に散らされることになりました。しかし彼らは、主イエスを信じることができたこと、罪の赦しが与えられ、永遠のいのちに生きる者とされたこと、それ自体を喜び、感謝したのです。だから地上での物質的な祝福のすべてが奪わることになったとしても、神の子どもとされた光栄を覚え、やがて手にする永遠の重い栄光を望み見つつ、散らされて行ったのです。
これは、初代教会のキリスト信仰者に共通の姿勢です。主イエスを信じること、それはそのまま迫害を受けることになるという社会情勢の中で、迫害を受ける覚悟をもって主イエスを信じたということです。彼らは、主イエスを信じる信仰によって与えられる霊的な祝福、恵みを見つめていました。5章40~42節。4章29節。だから迫害によって意気消沈し、信仰を捨てることはなく、財産を没収され、いのちの危険に晒されても、散らされた先々で、みことばを語り、主イエスの福音を伝え続け、永遠のいのちへの希望を証したのです。彼らは本物を見つけ、手に入れました。真理を知ったので、地上の、物質的な祝福がすべて奪われたとしても、その真理を手放すことはしなかったのです。
私たちも同じです。私たちも真理を見出し、主イエスを信じました。代用品ではなく、本物を自分の神とすることができたのです。本物が分かったので、代用品はすべて不要になったということです。さらに私たち自身も、主イエスを信じる信仰によって神の子どもとされ、神の国の市民とされ、天に国籍を持つ者となり、この世のものではなくなりました。私たちキリスト信仰者は、この身分を、この事実を誇りとし、喜びとしています。
フランスの哲学者、物理学者、数学者、思想家、キリスト教神学者であったパスカルは言いました。「人の心には、創造者である神が作った空洞がある。その空洞は神でしか埋めることができない」と。そう言われるとなるほどと思うのではないでしょうか。人はだれでも心に空洞がある。そして私たちもかつてはその空洞を、創造者である神以外のもの によって埋めよう、空しさを埋めようと、いろいろなものを求めたのです。諸宗教や快楽で心の渇きを潤そうとした人もいるでしょう。物質的な祝福で満たそうと、お金や出世を求めた人もいるでしょう。様々な物質的な祝福を手にすることで、一時的な満足は得られますが、それらは代用品だということです。達成感を味わい、喜びを覚えたとしても、再び心に隙間風を感じて、次の代用品を捜し求め始めるのです。
その空洞を完全に満たすのは、私たちの創造者、生けるまことの神だけです。自分の創造者である神を心に迎え入れるまで、人は心の空洞を満たすものを捜し求め続けます。そうして今、私たちは主イエスを信じ、心に創造者である神を迎え入れたことで、心の空洞は満たされ、決してなくならない感謝と喜びを味わい、永遠の希望に生きる者となりました。本物が分かったので、代用品はすべて要らなくなりました。私たちはこの本物を、十字架で処刑されたナザレのイエスこそが生けるまことの神であり、永遠のいのちに生かす神であり、私たちを真の喜びと感謝に満たす神であることを伝えているのです。
11章19節。ギリシア語を話すユダヤ人キリスト信仰者は、主イエスを信じたゆえに迫害を受け、散らされたにもかかわらず、みことばを語り続けました。主イエスの福音を伝え続けたのです。主イエスを信じることで与えられた喜び、感謝に溢れて、地上生涯がどれほど困難な状況であっても、創造者である神が味方であることの平安を味わいつつ、永遠の希望を証しました。だから行く先々で、みことばを聞いた人々が、キリスト信仰者たちが持っている希望、喜び、感謝に関心を持ち、彼らが伝える主イエスの福音に耳を傾けたので、人々は主イエスを信じる信仰によって、主に立ち返ったということです。
私たちも同じです。主イエスの福音を伝えてくれる方がいました。多くの人に祈られてきて、主イエスを自分の救い主として信じることができたのです。主なる神は、私たちを救う救いのみわざに、先に救いに与ったキリスト信仰者を用います。主なる神は私たちをも用いて、福音宣教のみわざを推し進めておられるのです。
さて、私たちがみことばを語るとは、主イエスの福音を伝えることでした。それは、時が良くても悪くてもです。時が良いとは、何の邪魔もされずに主イエスの福音を伝えることができると思える時でしょうか。時が悪いとは、伝えることに躊躇を覚える時、妨げを感じる時でしょうか。どちらにしても、それは私たちが、時が良いとか悪いとか、判断しているということです。しかしパウロは、時が良くても悪くてもしっかりやりなさいと励まします。私たちがどのように感じるかは脇に置いて、みことばを語ること、主イエスの福音を伝えることを止めてはならないということです。初代教会は迫害の直中に置かれていましたから、時が悪い状態がずうっと続いていたと言えます。
福音はすばらしい喜びの知らせです。主イエスを救い主と信じ、あの十字架の死は私たちの罪を赦すための身代わりの処罰であると認め、受け入れるなら罪が赦され、救われるという良い知らせです。神の御子が、神ご自身が人となられ、私たちの、あらゆる罪をその身に負って、十字架で身代わりの処罰を受けてくださいました。本来なら罪を犯した私たちが受けなければならない罰を、主イエスが代わりに受けてくださったのです。この主イエスを信じ、十字架と復活の福音を受け入れる時、私たちの罪は赦され、私たちは罪からの救いに与るのです。本当にすばらしい、喜びの知らせです。
主イエスの福音は、そのまま審きの知らせでもあります。つまり、この救い、主イエスの十字架による罪の赦しを拒むなら、救いはないという厳粛な宣言なのです。
私たちは、このみことばを委ねられました。喜びの知らせであり、審きの知らせである主イエスの福音を人々に伝える、十字架と復活の福音を伝える。これがキリスト信仰者に委ねらた使命です。ヘブル人への手紙には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。その審きの座に、つまり、生きている人と死んだ人とをさばくキリスト・イエスの御前に、すべての人が立たされる時が来ます。その時、主イエスを信じた者、十字架を自分のための身代わりとして受け入れ、罪の赦しを受け入れた者は、さばくべき罪は何もないと宣言されます。赦されているからです。本当に感謝です。しかし主イエスを拒んだ者、十字架による罪の赦しなど要りません、大きなお世話ですと断った者は、この地上で犯したあらゆる罪のすべてを見せられ、その罪に対する当然の報いを受けることになるのです。死と死後の審きは定められています。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かに映ります。しかし救いに受ける私たちには神の力となります。十字架のことばはある人にとっては躓きであり、他の人には愚かに思えます。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。主イエスの十字架による身代わりの死だけが、罪人を救うための唯一の救いの方法だからです。
私たちは、その人が福音を拒んだらどうしようと心配になり、みことばを語ることを躊躇するかもしれません。自分はうまく話せないから、人を福音から遠ざけてしまうのではないかと恐れるかもしれません。そのような心配は無用です。救いは主のものです。主なる神は私たちが主イエスの福音を、十字架のことばを伝えるようにと命じておられます。ある人は主イエスの福音を受け入れます。しかしある人は主イエスの福音を拒むのです。 私たちが理路整然と、相手に有無を言わせないまでに福音を伝え、説得できたと自負しても、それでその人が主イエスを受け入れるとは限りません。逆に、自分ではうまく話せなかったと思える証によって、その人が主イエスを受け入れることもあるのです。私たちが伝えるのは、主イエスの福音、十字架と復活の福音です。その人が受け入れて救われるのか、その人が拒むのかは、聖霊なる神のみわざなのです。
私たちがすることは、神のことばを神のことばとして語ること、神のことばを神のことばとして生きることです。神のことばに誠実であり、忠実であることを求めることが大事です。このあり方が私たちを、神の前に芳しいキリストの香りとして整えていきます。その香り、神の前に芳しいキリストの香りは、ある人にとっては、死から出て死に至らせる香りとなり、ある人にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りとなるのです。私たちは、神のことばに混ぜものをしないで、そのまま語れば良いのです。主イエスの福音はそのような私たちを通して伝えられ、主の福音宣教のみわざは、キリスト信仰者の集まりである教会を用いて、推し進められているのです。
11章21節。主の御手が、迫害によって散らされた人々とともに、みことばを語り、主イエスの福音を伝えるキリスト信仰者たちとともにあったので、信じて主に立ち返る人が多く与えられました。救いは主のものです。聖霊によるのでなければ、だれも、イエスは主ですと告白することはできません。罪について、義について、さばきについて、聖霊がその誤りを認めさせてくださいます。聖霊は、神のことばを神のことばとして語る私たちを用いて、救いのみわざを推し進めておられるのです。
私たちのすることは、みことばを語ること、時が良くても悪くても主イエスの福音を伝えることです。救いは主のものですから、伝えた後のことを心配する必要はありません。証すること、福音を伝えることを難しく考えて、慎重になりすぎて、何も語れなくなってはなりません。自分の見たこと、聞いたことを、自分が受けた恵みをそのまま伝えるのです。主の恵みと、主のみわざを、自分が味わっている感謝を、喜びを、希望を、平安を、そのまま伝える、証するだけです。その証を聖霊が用いてくださいます。

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