2022年3月13日 礼拝「主に信頼しきる者の大胆さ」 Iサムエル17:1-50
- hikaruumichurch
- 2022年3月13日
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イスラエル王国二代目の王として選ばれたダビデは一介の羊飼いでしたが、イスラエル全体の前で、衝撃的なデビューを果たす出来事が、今日の箇所となります。
ダビデが王としての任職の油そそぎを受けてから、実際に、イスラエルの王位に就くまでには、さらに多くの時間と様々な試練を要するのです。主なる神の方法は、じっくりと時間をかけて、養い育てるものです。即席に、はいできあがりということはあまりありません。だから私たちは、忍耐を学ぶ必要があります。主なる神の主権の中を生きているという確信をしっかりと保って、主の時と主の御業を待ち望むという意味での忍耐です。
ヘブル人への手紙には「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあります。神のみことばによる約束をしっかりと握りしめて、全幅の信頼を主なる神に置いて、その時を、その御業を待ち望む信仰による忍耐が必要だと招かれているのです。
イスラエル人とペリシテ人が、再度、戦争を始めました。そしてペリシテ人は、大男を代表戦士として立て、一騎打ちを呼びかけたのです。4節。代表戦士の名前はゴリヤテ、背の高さは6キュビト半です。1キュビトは約44cmですからゴリヤテの身長は2m86cmとなります。この教会の天井の高さは2m40cmほどです。この天井よりも46cmも高い大男です。立っているだけで恐ろしいと思う大男が一騎打ちをしようと挑発し始めました。
さらに彼は力持ちです。青銅の鎧は約55kg、槍の穂先は鉄で約6.6kgです。55kgもの鎧を身につけて戦いに臨むほどの怪力の持ち主です。11節。イスラエルの民は皆、ゴリヤテが出てきて挑発する度に、意気消沈し、非常に恐れたとあるのも分かります。誰一人、ゴリヤテとの一騎打ちに挑む者はいませんでした。
そのような戦況の中で、ダビデが登場します。17節。ダビデは父に頼まれて、兄たちの安否を確認するために戦場に来たということです。20節。その時にゴリヤテが出てきて、いつものように挑発したのです。23節、ダビデはゴリヤテのことばを聞きました。24節、イスラエルの人は皆、ゴリヤテの前から逃げ、非常に恐れたとあります。
この状況の中でのダビデのことばを確認しましょう。26節。ダビデは、イスラエルの恥辱を取り除く者という表現を使います。生ける神の陣営をそしることに対して、憤りを覚えたのです。どれほど強く見えても、実際に強い者であったとしても、生ける神が戦う相手にはなりえないと確信しているダビデにとって、生ける神の陣営を侮辱することは、生ける神そのものを侮辱することであり、その侮辱は取り除くべきものと憤るのです。そして生ける神の陣営に属する者なら、誰であっても、イスラエルの恥辱を取り除く者になれると考え、自分を、その恥辱を取り除く者として差し出したということです。
36節。ダビデのサウルの前での、大胆な発言もまた、生ける神の陣営に属する者としての当然の発言です。生ける神の陣をそしったのだから、それ相応の処罰を受けるのは当然だとダビデは語るのです。ダビデが絶対的に強いということではありません。主なる神が絶対的に強いので、生ける神の陣営に属する自分もまた、主なる神の絶対的な強さのゆえに絶対的な強さを持ちうるという確信です。この確信から来る大胆さをダビデは身につけていました。だから大胆な発言となります。37節です。
獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、と言います。自分が強いのではないとダビデは自覚しています。主の守りを確信して、主に頼ることのゆえに、獅子や熊に立ち向かうことができたと自覚しているわけです。だから、獅子や熊の爪から自分を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも救い出してくださるという確信に満たされているのです。自分ではない、自分を救い出してくださる主が戦い、自分に勝利をもたらしてくださるという確信のゆえに、大胆になれたのです。
そのようなダビデのことばによって、38節、サウルは、主の守りに委ねて、ダビデを送り出すことにしました。そして自分の鎧兜を貸すことで、少しでも安全を確保しようとしたのです。しかしダビデは、慣れていない鎧兜を脱ぎ捨てます。どれほどの装備であっても、使い慣れていないものはかえって邪魔になるだけです。私たちも、人の借り物ではなく、自分らしさで物事に対処することが大事です。主なる神に頼りつつ、自分に与えられた持ち味を発揮することで物事に対処する時に、主なる神は私たちを助けてくださり、正しく対処できる知恵と力を与えてくださるのです。
ダビデは、サウルから借りた鎧兜、剣でゴリヤテと戦うことではなく、自分の使い慣れた石投げ器を使って戦うことに決めました。このようなことは戦いに慣れた戦士たちには思いも浮かばない非常識な行動と映ったでしょう。重装備の戦いに慣れた戦士に石投げの道具と石をもって向かって行くダビデです。40節。ダビデはなめらかな石と石投げ、そして杖を手にしてゴリヤテに近づいて行きました。
私たちはこのような場面を目にする時、何と無謀なと思います。特攻精神はあっても、結局は犬死にするだけと考えます。若い時からの戦士であるゴリヤテと、一介の羊飼いダビデ、重装備で身を固めた大男であるゴリヤテと、杖と石投げを手にしているダビデ、どんなにひいき目に見ても、絶対に勝てないと判断される戦いです。
なぜダビデはゴリヤテに向かって行ったのでしょうか。これは自分の戦いではなく、主の戦いだと認識していたからです。自分が戦うのではありません。主の戦いに自分を用いていただくのです。主がご自分の戦いを、自分を通して行われるという確信が、相手が誰でも、どれほど脅威に満ちた存在に見えても、ダビデを勇敢にならせ、ゴリヤテに近づかせたのです。41節からが戦いの実際です。
42節。ゴリヤテはダビデに目を留め、さげすみ始めます。羊飼いの少年が自分に近づいてきたからです。43節。自分が負けるはずがないという驕りをもって侮ります。少年が杖を持って向かってくるのですから、端から相手にならないと思うのは当然です。青銅の兜をかぶり、青銅の鎧で身を固め、青銅のすね当てをして、青銅の投げやりを背負っています。投げやりの柄は機織りの巻き棒のように太く、槍の穂先は7kgほどの鉄製です。さらに剣を持っています。このような重装備の大男ゴリヤテが相手にするのは、杖を持って向かってくる羊飼いの少年です。剣を一振りするだけで打ち殺せると考えるのは当然です。だから、おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやると豪語し、神々によって呪いました。
ダビデの対峙の仕方は45節。おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうと宣言します。万軍の主の支配の中で、主の権威を受けて戦うのだと言うのです。だから46節。主はおまえを私の手に渡されると宣言します。そしてゴリヤテの頭を胴体から切り離し、さらに、ペリシテ人の陣営を死に至らせ、空の鳥、地の獣に与えると、イスラエルの大勝利に終わるのだと宣言するのです。これらのことにより、イスラエルに神、生けるまことの神がいることを、すべての国が知ることになると確信をもって宣言するわけです。
47節。この戦いは主の戦いだと宣言しています。だから、主なる神がおまえたちを我々の手に渡される、つまり、我々は勝利するのだと、主なる神に栄光を帰するのです。ここに私たちは、ダビデの主に対する完全な信頼を見ます。ダビデはそれなりに力を持っていることは間違いありません。しかしゴリヤテを前にする時、明らかに戦力不足です。肉体的にも、戦闘能力においても、装備においても、全く相手になり得ない存在です。
もし私たちが自分の力だけで事に当たろうとする時、自分の力で対処できる事柄であるなら、自信を持って事に当たることができ、充分な成果を手にするでしょう。しかし自分の能力を超えた事柄を前にした時、私たちは意気消沈し、絶望的な気持ちになり、恐怖に襲われて、できることをも含め、何もできなくされてしまうのです。
ダビデは主なる神を信頼しきっていました。主が自分を用いてくださり、神の民イスラエルに対する恥辱を取り除いてくださると確信したのです。主が力を与えてくださる。主が導いてくださる。この確信から来る安心と平安が、ダビデをして、平常心で、そして大胆にゴリヤテに向かわせます。
49節。ダビデは川から選んできた五つのなめらかな石の一つを袋から取り出し、石投げ器にセットし、石をゴリヤテめがけて投げました。その石はゴリヤテの額に食い込んだので、ゴリヤテは地に倒れたのです。どれほど重装備で身体全体を覆ってみても、眉間は空いおり、そこを狙い撃てば相手を倒すことができると、冷静に状況を判断し、投石したダビデを、主なる神は整え、その力を100%発揮させて、正確な投石を実現させてくださったのです。この戦いは主の戦いだとダビデは語りました。その通りに、主ご自身が、ダビデを整え、用いて、ゴリヤテに打ち勝たせてくださったのです。
さて私たちも同じです。主イエスを自分の救い主と信じ、受け入れ、自分の主と仰ぐ私たちもまた、主の戦いを戦う者とされています。そして戦う相手は、パウロがエペソ人への手紙に、次のように書き送っている相手です。終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです、と。
私たちを、主なる神の恵みから離れさせ、救いから遠ざけようとし、また私たちの肉の性質に働きかけ、この世の欲に引き込み、罪を犯させようとする様々な策略に対抗する霊的な戦いを戦う私たちです。また様々な試練に遭遇します。罪人が作り出す社会の中で困難があり、また信仰ゆえの迫害も襲いかかってくることもあります。しかし、どのような戦いに巻き込まれたとしても、恐れてはなりません。私たちは一人で戦うのではないからです。祈りという後方支援があります。神の家族が執り成し祈り、支えてくれます。そして何よりも、主なる神が私たちの味方として、私たちとともにおられるのです。
ローマ人への手紙8章31節。どのような時にも不信仰に陥ってはなりません。罪は罪として認め、悔い改めなければなりません。主イエスの十字架を仰ぎ、罪を認め、悔い改めて、赦しをいただいて、主にあって霊的な戦いに大胆に臨むのです。32~34節。37節。38~39節。主の戦いを戦うのですから、圧倒的な勝利者となるのです。私たちが自分の力で、自分の戦いをするのではありません。主なる神が、主の戦いを、私たちを用いて戦われるのです。だから大胆になれます。圧倒的な勝利者になるのです。主に信頼しきる者に与えられる大胆さによってです。
私たちのために、私たちの罪を赦し、私たちを罪から救うために、十字架でいのちを捨ててくださった主イエスです。これほどの愛で愛されている私たちですから、この主を信頼し切り、主にあって大胆な信仰者として、さらに整えられていきましょう。

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