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2022年2月6日 礼拝「天の御国に入る者」マタイ7:21~23

  • hikaruumichurch
  • 2022年2月6日
  • 読了時間: 8分

更新日:2022年2月8日

 おはようございます。主イエスが山の上で語られたメッセージも終わりに近づいてきました。このメッセージ、山上の説教は、主イエスを信じている弟子たち、そして主イエスを信じようとしている者たちに対して語られたものです。


 前回私たちは、狭い門から入りなさいとの主イエスのことばを確認したのですが、今日の箇所から、狭い門とは、天の御国の門であると、分かります。そして主イエスは、ご自分に向かって「主よ、主よ」と言う者がみな、天の御国に入るとは限らないと、驚くべきことばを語っています。今日私たちは、天の御国に入るのは、どのような人なのかを確認し、私たちがみな、天の御国に入る者とされたいのです。


 私は、この箇所に触れるたびに襟を正されます。主イエスのことばですから、なおさら真摯に受け止めさせられます。21節。主イエスを自分の主と告白するのでなければ、だれも天の御国に入ることはできません。しかし、主イエスを主と告白する者がすべて、天の御国に入るとは限らないと言われたのです。これはどういうことでしょうか。


 私たちが招かれている信仰姿勢は明確です。6章33節。まず神の国と神の義を求める、です。求めるなら、神の国と神の義に加えて、必要はすべて与えられます。私たちが時間も、労力も、お金も、費やして損をしないのは、神の国と神の義を求めることです。そして、この道を見いだす者はまれだと言われています。多くの者はこの道を求めません。


 今私たちは、主イエスを信じる信仰が与えられ、天の御国に入る者とされ、いのちに至る道を見出しています。それを見出す者はわずかですと言われている、その道を見出し、いのちへの道を歩んでいるということです。だから、この道から外れないように、主イエスから目を離さないで、天の御国への、信仰の道を歩み続けましょう。


22節。この人々は、主イエスを信じていて、口先だけで「主よ、主よ。」と言っていたのではありません。彼らは主イエスを救い主として信じ、自分は主の弟子であると考えていたことに間違いありません。さらに彼らは、自分こそは、主イエスの権威を認めて、主イエスに従って来たと自負している人々です。


 22節の、彼らのことばで分かることは、彼らは主イエスの権威を認め、主イエスの権威によって力あるわざを行なってきたと考えているのです。彼らは実際に、主イエスの権威によって預言をしました。実際に、主イエスの権威によって悪霊を追い出してきました。実際に、主イエスの権威によって多くの奇蹟を行なっていたのです。だから彼らは、主イエスの御前に立った時、あなたの名によって預言してきました、あなたの名によって悪霊を追い出してきました、あなたの名によって奇跡をたくさん行いましたと言うことで、当然自分は、天の御国に入る資格があると主張したのです。


 しかし彼らは、主イエスの厳粛な宣告を聞くことになります。23節。わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。これほどの悲しい結末はありません。イエスを主と告白し、イエスの権威によって、人々が驚くような不思議を行い、自分でも、また人々も、すばらしいクリスチャンだと考えていたのに、最後の審判の席上で、主イエスから、わたしから離れて行けと宣告されるなどとは、全く予想してはいなかったことでしょう。これほどの悲劇的な結末はないのです。なぜ彼らはこのように言われてしまったのでしょうか。


 もう一度、主イエスの福音を確認しましょう。私たちが神に受け入れられるのは、ただ主イエスを信じる信仰によってだけです。それは私たちが罪を犯してきたからです。罪とは神の基準ではなく、自分の基準を生きることです。神のことばを行うのではなく、自分の考えを行うことです。この人々は確かに主イエスを神として信じました。主イエスの神としての権威を認めています。その権威で様々な力あるわざを行ってきたのです。


 しかしその過程で彼らは迷い出てしまいました。父なる神のみこころを行うことからずれてしまったのです。確かにイエスの名によって預言をしました。イエスの名によって悪霊を追い出しました。イエスの名によって奇跡をたくさん行ったのです。しかしそれは神のみこころを行うことではなく、自分のわざを、主イエスの権威を使って、行ってきたということです。にもかかわらず、彼らは、その大きな力あるわざのゆえに、自分は神の働きをしていると錯覚したのです。神の御前で謙虚に自己吟味し、神のみこころを確認し、みこころに合っているかを点検することをせず、自分で自分を正当化し、自分で自分を認めるという、罪そのもののあり方に陥ったということです。


 偽預言者は、人となって来られたイエス・キリストを否定します。私たちの行いを救いを得るための条件とするのです。救いに与った私たちが、その感謝と喜びのゆえに、神に受け入れられる、神が喜んでくださる行いをしたいと願い、求めるのは当然です。神に用いていただきたいと、自分を父なる神に差し出すのは、救われた者の特権です。だからといって、その行いのゆえに、自分で自分を是認する間違いに陥ってはならないのです。


 この人々が、最後の審判の席で、主イエスから排除されたのは、主イエスの権威を用いての、自分の力あるわざによって、天の御国に入ろうとしたからです。他のキリスト信仰者と比べて、彼らはすばらしいわざを行ったことは事実です。しかし彼らは迷い出てしまいました。自分はこれだけのわざを主のためにしてきたのだ。だから自分は、天の御国に入る資格があるのだと錯覚したのです。私たちは絶えず、神の御前での謙遜さを身につけましょう。どれほどのわざを行えたとしても、それは主の恵みによる主のみわざであり、主に用いられた結果です。主なる神が私たちを通して行われた神のみわざであるという事実を忘れてはなりません。


 ルカの福音書17章9~10節。私たちは「主よ、主よ。私はあなたの名によって、これだけのことをしてきました」と言う者になるのではなく、「なすべきことをしたただけです」と答える者になりたいと思います。主のために何をしてきたかと誇る者ではなく、主にどう用いられたかを確認し、喜ぶ者でありたいのです。主に命じられたことを行えたことを喜ぶという、主の喜びを自分の喜びとする、主の御前での真の謙遜を身につける者、そのような自分であるかを吟味する者でありたいのです。主なる神は、私を通して、何をなさろうとしているかに心を向け、そのために自分を主に差し出す。この繰り返しの中で、私たちは、神のみこころを行う者へと整えられていきます。主なる神が、私を通して、ご自分のみわざを行われたことを確認し、主なる神をほめたたえる者となるのです。


 天の御国に入ることに、私たちが何をしたかは関係ありません。私たちは主の御前でど のようであるかが問われるのです。日々みことばに触れ、神の基準を確認することが大事です。日々の祈りにおいて、父なる神との霊的な、人格的な交わりを欠かしてはなりません。その繰り返しの中で、主イエスは私に何をさせようとしているかに敏感になることが大事です。またどのように変えようとしておられるかに敏感でありたいのです。


 みことばを通しての神の語りかけに耳を傾け、聖霊の助けを求めて、神の促しに素直に応答するのです。主よ、主よと告白しても、自己中心の信仰生活であるなら、主イエスと何の関わりもありません。主イエスが主人であって、私たちは主イエスの言いつけを正しく聞き、言われたことを忠実に行なう、そのような信仰姿勢を身につけていくことが大事です。その時、父なる神のみこころを行う者へと、少しずつ、しかし着実に、聖霊ご自身によって整えられていくのです。その結果が21節です。


 天におられる父のみこころを行う者として整えられる幸いを味わいましょう。14節。いのちに至る門は狭く、その道は細く、それを見出す者はわずかであっても、私たちはそのわずかである信仰者へと整えられたいのです。24~25節。


 私たちキリスト信仰者は、主イエスを信じる信仰によって、罪の赦しを得ています。ルカの福音書10章20節。天に自分の名が書き記されている者たちです。天の御国の住民とされている、このこと自体を喜ぶ者として、さらに父なる神のみこころがなることを求め、自分を主に差し出すことを喜ぶ、そのような者となりたいのです。


 今週のみことば。詩篇27篇4節。一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。


 このように願い、歩み続けるなら、私たちに与えられた、神中心の信仰から逸脱するこ とはなくなるはずです。





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