top of page

2022年2月27日 礼拝「教会はキリストのからだ」 1コリント12:12-27

  • hikaruumichurch
  • 2022年2月27日
  • 読了時間: 10分

 おはようございます。今日私たちは、教会とは何であるかを確認して、真に祝福された教会生活を歩む者とされたいと考えています。まず新約聖書で初めて教会に触れられたのは主イエスご自身です。マタイの福音書で「わたしの教会」と宣言されたのです。イエスに対して「あなたは生ける神の子キリストです」と告白する、その信仰告白の上に、ご自分の教会を建てると。教会は私たちの教会ではなく、キリストの教会です。


 私たち人間が、自分たちの集まりを、キリストの教会であると宣言したとしても、主イエスを生ける神の子キリストですとの信仰告白がないなら、主イエスが建てる教会とは全く違う集まり、人間の集団だということです。この違いを確認しておきましょう。


 さて私たちは礼拝で、教会についての信仰告白もしています。第8条です。その前半には「教会は、キリストをかしらとするからだであり、・・・聖霊によって新生した者の集まりである」とあります。これは、キリストをかしらを仰ぐすべてのキリスト信仰者を含む公同の教会、目に見えない教会、その本質的な教会像を告白するのです。後半では「教会は、神のみこころに従い、神を礼拝し、聖書を学び、バプテスマと聖餐の礼典を守り、福音を宣教し、・・・」とありますが、これは主に、地域教会、目に見えるキリスト信仰者たちの集まりによって、具体的に交わりをし、福音を伝える教会の姿を告白するのです。


 今日私たちは、石垣島に建てられた目に見える一つの地域教会、八重山福音光る海教会を念頭において、主イエスが「わたしの教会」として建てられた教会を確認します。


 私たちは主イエスを信じ、イエスを生ける神の子キリストですと告白しています。この信仰告白の上に、主イエスは「わたしの教会」を建てました。光る海教会は主イエスが建てた「キリストの教会」であり、私たち一人ひとりはキリストのからだの各部分です。光る海教会に集められた「イエスは生ける神の子キリストである」と告白する者たちを含め全世界の、全地域の、あらゆる国民の、同じ信仰を告白するすべてのキリスト信仰者が、キリストをかしらとするからだである神の教会であると認識した上で、その具体的な交わり、神を礼拝し、聖書を学び、バプテスマと聖餐の礼典を守り、互いに仕え、福音のために共に戦い、愛のわざに励み、主の再臨を待ち望む、一地域教会を確認するのです。


 パウロが一地域教会であるコリントにある神の教会に宛てた手紙から、私たち八重山福音光る海教会について、互いの関係について学び、教会の本質を、具体的な交わりを通して生きる私たちとして整えられていきたいのです。


 みなさまは不思議だなと思ったことはなかったでしょうか。なぜ自分は教会に加えられているのだろうかと。私はイエス・キリストを信じたけれど、教会に加わろうと思ったわけではありません。しかし結果として私は、一地域教会の一員として信仰生活を続けています。そして私の信仰と信仰生活は教会を離れては考えられません。もし私たちが一地域教会から離れ、自分の好き勝手な信仰生活をしているなら、私たちの信仰は変質し、キリストの福音とは異なるものとなっていきます。キリストを信じた私たちが一地域教会に属すること、そしてこの地上に数多くある地域教会の中で、八重山福音光る海教会の一員とされていることは、私たちが決めたことではなく、私たちの意思を越えた主のご主権による導きであることを認めなければなりません。あたかも、私たちが自分の家庭を選んでこの世に生まれたのではないこと、私たちは、命を与えられ、生まれた家庭に、初めから属するものとされ、それを自分の意思では変えられないことと同じです。


 12節。パウロは私たちのからだを例にして、キリストをかしらとするからだである教会の各部分である私たち、イエスを生ける神の子キリストですと告白するお互いの関係について説明するのです。自分自身のからだを考えましょう。私たちは皆、ひとりの存在であり、からだにあって生きています。からだには多くの部分があるけれど、からだは一つです。私たちのからだの各部分はばらばらに動いているのではなく、それぞれに与えられた働きをして、からだ全体の秩序を保っているので、私たちは生きているのです。


 キリストもそれと同様です。教会もではなく、キリストも同様ですとあります。ここに注意を向ける必要があります。キリストをかしらとするキリスト信仰者一人ひとりが、キリストのからだを構成する一器官として召されているということです。キリスト信仰者一人ひとりは、キリストのからだの各部分としての立場が与えられているのです。


 13節。私たちがキリストのからだであるかを判別する、もう一つの基準です。つまり同じ聖霊によって生きる者とされているかということです。いつも聖霊によって生きているかではなく、聖霊によって生きる者とされたかが問われているのです。私たちは、絶えず聖霊に導かれたいと願いながら、聖霊の導きを拒んで、自分の好き勝手な歩みをし、聖霊を悲しませてしまうこともあります。それでも私たちキリスト信仰者は、聖霊によって生きる者とされたことには変わりありません。


 私たちが聖霊によって生きる者とされたかは、イエスを神の子キリストであると告白しているかで判別できます。3節。神の御霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言いません。聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うこともできません。私たちがイエスを主と告白し、イエスは生ける神の子キリストですと告白しているなら、聖霊は私たちの内におり、私たちは御霊によって生きる者とされている証拠です。だから私たちは、常に聖霊の導きに素直に従って生きるように努力しましょう。


 14節以降では、からだとその各器官の関係を説明しながら、キリストのからだである神の教会を構成する私たちのお互いについて、その関わり方について説明しています。からだは一つの部分からではなく、多くの部分から成っている。キリストをかしらとするキリストのからだ、教会も同じです。私たちはこの事実を認めましょう。キリストのからだである神の教会には、キリストをかしらとする多種多様のキリスト者が集められています。 教会が同質、同等のキリスト者しかいないとするなら、それはキリストのからだとは言えないし、同質、同等のキリスト者しか認めない教会であるなら、キリストのからだにふさわしいあり方を、自己否定しているのです。人のからだには多種多様の器官があるのと同じに、教会には多種多様なキリスト信仰者が集められて、その一人ひとりが大切な、神の教会の構成員であるということです。この事実を認めなければなりません。


 だから15~16節。キリスト信仰者は自己卑下をしてはならないのです。まず自分という存在が創造者である神に認められ、受け入れられていると知らなければなりません。私たちがキリストのからだを構成する器官の一つとされているのは、人間の定めによるものではなく、神の恵みによる招きだからです。主なる神が、キリストをかしらとするキリストのからだである教会に多種多様な持ち味を持つキリスト信仰者を集められたのです。


 私たちは教会に属そうなどと考えて教会に来たのではなく、イエスを信じ、救われたいと願って教会に来ました。そうしてイエスを自分の救い主であると信じ、自分の主と仰ぐ信仰者となりました。そのような私たちを、キリスト信仰者を、主イエスが、ご自分のからだの各器官として集められたのです。主イエスが「わたしの教会」を建て、私たち、キリストをかしらとして歩む者たちを、ご自分のからだの各部分とされたということです。


 18節。私たちがどの器官を担うのかは、私たちが決めることではありません。また互いの器官を比較して、優劣を決めてはなりません。なぜならすべての部分が必要であり、大切な器官だからです。不必要な器官は何一つないということです。だから自分は不必要だなどと自己卑下をしてはなりません。


 21節。また教会に属するキリストをかしらと仰ぐキリスト信仰者を、どんな理由があっても不必要としてもなりません。主イエスが十字架刑で、ご自分の血をもって贖い出されたキリスト信仰者を不必要とすることは、キリストご自身を否定することだからです。主イエスを信じているなら、自己卑下したり、他人を見下してはなりません。キリスト信仰者一人ひとりは、キリストのからだを構成する大切な器官とされているからです。


 18節、25節。キリストをかしらとするキリストのからだである神の教会に加えられた私たちは「イエスは生ける神の子キリストです」という同じ信仰を告白しますが、この信仰以外では、一人ひとりの個性や持ち味を認め、受け入れ合うのです。お互いの違いは比較し合い、優劣をつけて、自惚れたり、見下したりするのではなく、お互いの違いや持ち味を生かして、互いに労り合い、助け合い、補い合うことで、教会にある豊かな多様性が用いられていくのです。それぞれが自己主張をし、他の人々を自分に同調させようとすると分裂が生み出されます。


 主イエスは、ご自分をかしらとするキリスト信仰者を、多種多様な持ち味を持った者たちを、ご自分のからだを構成する各器官として召し集められたのです。教会は豊かな多様性を生かし合い、協力し合うことで、教会を用いての主の働きも豊かなものとされていくのです。主なる神は私たち一人ひとりに期待しておられるのです。


 26節。私たちが一つのからだであるなら、からだの一つの器官の喜怒哀楽を共有するお互いであるはずです。指先をナイフで切ったならば、からだ全体でその痛みを感じます。足を骨折したならば、松葉杖を用いるように、からだ全体でその機能を補うのです。一つのからだだから、それらを当然のこととして行います。


 私たちも同じです。私たちがイエスを信じているなら、イエスを主と崇めているなら、イエスは生ける神の子キリストですと告白しているなら、私たち一人ひとりはキリストのからだの大切な一器官とされています。キリストのからだである神の教会の具体的な一つが八重山福音光る海教会であり、主なる神はキリスト信仰者である私たち一人ひとりを、この教会の各部分として、キリストのからだを構成する大切な一器官とされたのです。この神のみわざを否定してはなりません。拒否してはならないのです。


 私たちはキリストのからだである神の教会の一員です。キリストのからだを構成する大切な一器官です。互いに労り合い、補い合い、協力し合い、生かし合うことで、光る海教会がキリストのからだとしてふさわしく建て上げられていくために、私たち一人ひとりは召されているということです。互いの違いを理解し、認め合って、互いに助け合う関係を築きあげることが大事です。27節。


 エペソ人への手紙4章15~16節。「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」




Comments


bottom of page