2022年2月20日 礼拝「異邦人への救いの進展」使徒10:1−24
- hikaruumichurch
- 2022年2月20日
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更新日:2022年2月24日
おはようございます。さて今日の箇所、使徒の働き10章には、おもしろい出来事が記録されています。私たちにとっては興味深いのですが、初代教会の指導者のひとり使徒ペテロにとっては、青天の霹靂とも言うべき命令を受けることになるのです。敬虔なユダヤ教徒として生きてきたペテロには、自分のユダヤ人としてのアイデンティテーを根底から覆される命令であり、とても受け入れることはできないと思われたものです。
今日私たちは、このペテロへの幻、そしてその後の言動を通して、主イエスの十字架による罪の赦しの福音が、ユダヤ人の枠を越えて拡げられていく出来事を見ます。エルサレムに誕生したキリストの教会は、主イエスを信じ、救われる人々が増えるに従って迫害が強まり、その迫害によって散らされていったキリスト信仰者たちが、その先々で主イエスの十字架と復活による罪の赦しと罪からの救いの福音を宣べ伝えることで、福音宣教は地理的にも拡大し、主イエスを信じる人々が起こされ続けていきました。しかし、これまでのキリスト信仰者はほとんどがユダヤ人たちであり、福音を伝える相手もほとんどがユダヤ人でした。今日の箇所で、指導者の一人ペテロが取り扱われることによって、ユダヤ人以外の国民も、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によって、罪が赦され、罪から救われるという神の救いのご計画が広く認識されることになるのです。
ユダヤ人は神の民として選ばれました。しかしそれは、全世界の人々に祝福をもたらす祝福の民となるために選ばれたのに、自分たちユダヤ人だけが神に特別に選ばれており、神の祝福を受けることができる、異邦人はその祝福からは除外されているという間違った選民意識を身に付けたのです。この異邦人蔑視という意識や考えは、主イエスを信じた後も引きずったままでした。だから異邦人と親しくすることは宗教的に汚れることであり、非難の対象ともなるのです。11章1~3節でペテロが非難されたのはそのためです。だからユダヤ人以外に福音を伝えるという思いは生じなかったのです。
ユダヤ人選民意識はキリスト信仰者になってからも、簡単には解消できませんでした。それで主なる神が特別に介入されたのです。まずペテロが変えられます。そしてペテロの証言を通して、多くのユダヤ人キリスト信仰者が変えられていきます。主なる神は忍耐強く、人間のその時の状態に合わせて取り扱ってくださるのです。
11~13節。主なる神はペテロに夢を見させます。食物に関する律法において、それまでの常識を覆す命令をするのです。律法で汚れていると定められた動物を食することは、ユダヤ人としての自分のあり方を否定することになります。それはユダヤ人にはどうしてもできないことです。しかし主なる神はその考えを覆し、食べるようにと命じたのです。
14節。当然ペテロは、その命令に従えないと答えます。モーセの律法に反することであり、これまでも食べたことはないし、これからも食べることはできないと。
しかし15節。主なる神は新しい基準をペテロに与えます。モーセの律法では確かに汚れた動物として規定されていた。しかし今、主なる神であるわたしがきよめた。それをきよくないと言ってはならないと語られたのです。この幻が3回繰り返されました。
17節。この幻はペテロに大きな衝撃を与えます。ペテロがこの幻について思い惑っているちょうどその時、イタリア隊の百人隊長コルネリウスから遣わされた人たちがペテロを訪ねてきたのです。19~20節。御霊がペテロに語りかけます。わたしが彼らを遣わしたのだと。その語りかけに応じて、23節。ペテロは彼らを泊らせ、翌日、コルネリウスのもとへと向かいました。幻と御霊の促しがなければ決してしなかったでしょう。敬虔に生きようとするユダヤ人にとって、異邦人と寝食を共にすることなど絶対に考えられないことだからです。
ペテロが異邦人を迎え、彼らを泊らせることが、ユダヤ人としてどれほど非常識なことであり、非難されることであったかは、11章にあるエルサレム教会の人たちのことばから知ることができます。1~3節。エルサレム教会は、異邦人が神のことばを受け入れたというすばらしい出来事を喜ぶことよりも、異邦人と一緒に食事をしたペテロを非難したのです。これが当時の初代教会の実態でした。長らく身につけてきた常識や習慣を覆すことは激しい反発を受けることになるということです。
主イエスの大宣教命令は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」でした。あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えることが命じられたのです。1章8節で「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と命じられていた神の教会であるのに、その命令を退けるほどに、自分たちの差別意識の虜になっている現実を見させられるのです。聖霊に満たされて主イエスの証人として証するのも、全世界に散らばっているユダヤ人たちにであり、異邦人へという思いに至らないほどに、誤った選民意識が、彼らの血肉に染み込んでいたという現実があるのです。
しかし15節。主なる神は新しい基準をペテロに与えます。モーセの律法では確かに汚れた動物として指定されていた。しかし今、主なる神であるわたしがきよめた。それをきよくないと言ってはならないと語られたのです。この幻が3回繰り返されました。
17節。この幻はペテロに大きな衝撃を与えます。ペテロがこの幻について思い惑っているちょうどその時、イタリア隊の百人隊長コルネリウスから遣わされた人たちがペテロを訪ねてきたのです。19~20節。御霊がペテロに語りかけます。わたしが彼らを遣わしたのだと。その語りかけに応じて、23節。ペテロは彼らを泊らせ、翌日、コルネリウスのもとへと向かいました。幻と御霊の促しがなければ決してしなかったでしょう。敬虔に生きようとするユダヤ人にとって、異邦人と寝食を共にすることなど絶対に考えられないことだからです。
ペテロが異邦人を迎え、彼らを泊らせることが、ユダヤ人としてどれほど非常識なことであり、非難されることであったかは、11章にあるエルサレム教会の人たちのことばから知ることができます。1~3節。エルサレム教会は、異邦人が神のことばを受け入れたというすばらしい出来事を喜ぶことよりも、異邦人と一緒に食事をしたペテロを非難したのです。これが当時の初代教会の実態でした。長らく身につけてきた常識や習慣を覆すことは激しい反発を受けることになるということです。
主イエスの大宣教命令は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」でした。あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えることが命じられたのです。1章8節で「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と命じられていた神の教会であるのに、その命令を退けるほどに、自分たちの差別意識の虜になっている現実を見させられるのです。聖霊に満たされて主イエスの証人として証するのも、全世界に散らばっているユダヤ人たちにであり、異邦人へという思いに至らないほどに、誤った選民意識が、彼らの血肉に染み込んでいたという現実があるのです。
主なる神が特別に介入され、聖霊に促されることよって、ペテロは自分に染みついた古い考え方から解放されていきます。私たちも、様々な考え方、教会の伝統や神学的な枠組みを大事にしていることもあるでしょう。それは大切にしながらも、それを絶対的な真理として固執してはなりません。みことばの光に照らされて、変えられる必要が示されたなら、みことばに合わせて自分を変えていただく素直さも大事です。
ペテロが変えられていきます。28節。ペテロは幻によって、主なる神が教えようとされたことを理解しました。どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者などと言ってはならないということです。この時ペテロは、自分たちが教え込まれてきた間違った選民思想が、異邦人への差別を生み出していたことを知ります。
34~35節。神はえこひいきをする方ではないこと、神に受け入れられるのは人種や民族によってではなく、神を恐れ、正義を行う人であると、ペテロは知らされます。どの国の人であるか、ユダヤ人であるか、ユダヤ人でないかは救いの基準ではないのです。
コルネリウスの信仰姿勢は本当にすばらしいものです。私たちも彼の信仰の姿勢に倣おうではありませんか。33節。主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。これこそ神を恐れる者の姿、正義を行うに必要な態度です。私たちもこのような態度で主の御前に出ているなら、主が与えようとしている祝福を受け損なうことはないと確信します。毎週の主への礼拝において、毎日のみことばを聞く姿勢において、コルネリウスが身につけていた態度を私たちも身につけて、真に主なる神を恐れる信仰者として整えられていきましょう。
ペテロがコルネリウスたちに伝えた内容が36節以降です。イエス・キリストはすべての人の主です。私たちにもこの認識は必要です。主イエスを信じている私たちの主ということではなく、すべての人の主なのです。主イエスを信じていない人にとっても主です。だからすべての人が、イエス・キリストは主ですと告白できるように、福音を伝える使命が教会に、私たちに委ねられています。イエス・キリストは、天地万物、すべての被造物に対して一切の権威を持っており、全被造物が崇めるべき主権者なのです。
38~39節。このすべての人の主であるお方が人となられ、ナザレのイエスとして地上生涯を歩み、多くの良いわざを行いました。悪魔に虐げられている人たちの癒やし、悪霊に支配されている者たちを解放し、様々な病を癒やすという、神としてのしるしを行っていたのに、人々はイエスをキリスト、神ご自身であると認めることをしないで、このお方を十字架にかけて殺したのです。主イエスの弟子たちはその一連の出来事の目撃者でした。
40~41節。神はこのイエスを三日目によみがえらせ、その証人とさせるために、弟子たちにその復活のからだを示されたのです。弟子たちは復活された主イエスと一緒に食事をしたことで、まさに肉体の復活がなされたと確認しました。
ペテロが語る福音は、すべての人の主であるイエスは神の子キリストであり、つまり神ご自身が人となられて地上を歩まれ、神であることのしるしとして様々な奇跡を行ったけれど、十字架につけられて殺されたこと、しかし三日目に死者の中から復活されたことで、十字架の死は、全人類に罪の赦しを備える、身代わりの処罰であることの証明としたのです。この十字架と復活による罪の赦しと罪からの救いが福音です。
43節。この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられます。だれでもです。これが私たち、先に主イエスを信じて救いに与った者が伝える福音です。だれもが十字架で殺されたナザレのイエスを自分の主として信じる時、十字架による身代わりの処罰によって差し出された罪の赦しを受け取ることができるのです。
44節。ペテロが主イエスについて、十字架による罪の赦しと罪からの救いの福音を話し続けている時、みことばに耳を傾けていたすべての人々に聖霊が臨まれました。ペテロがペンテコステの日に人々に語ったこと、主イエスを信じて、悔い改めるなら、賜物として聖霊が与えられるという約束が、今、コルネリウスとその家族、そしてみことばに耳を傾けていた人々全員に、現実のこととして起こったのです。
45節。割礼を受けているユダヤ人キリスト信仰者は、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことを目の当たりにして驚いたとあります。ユダヤ人にとっての非常識、絶対に起こるはずがないと思い込んでいた事実を前にして、驚愕したということでしょう。しかしペテロは冷静に対処します。47~48節。コルネリウスとその家族、親族、親しい友人たち、みことばに耳を傾けていた人々みなに、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせたのです。異邦人たちにも、キリスト信仰者となる道が開かれた瞬間です。
初代教会のキリスト信仰者たちによって、福音は拡大していきます。地理的に拡大し、今、ユダヤ人の枠を超えてあらゆる国の人々に福音の恵みが広がりました。ペテロによるローマの百人隊長とその家族、そこに集められた人々に福音が語られ、信じた人々に聖霊が賜物として与えられた出来事を通して、初代教会に新たな認識、あらゆる国の人々に福音を伝えるという認識が共有されていくのです。11章19~20節。

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