2022年2月13日 礼拝「心を見る主なる神」Ⅰサムエル16:1 ~13
- hikaruumichurch
- 2022年2月13日
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おはようございます。第二主日礼拝では、原則として旧約時代の信仰者から教えられて いますが、今日から、ダビデの生涯を通して、その信仰を確認していきます。
今日は、主なる神は、私たちの心をご覧になっていて、私たちとの関わりをなさるお方であることを確認します。まず週報に記されている、今週のみことばを確認しましょう。歴代誌Ⅱ16章9節「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」
イスラエルの初代の王サウルは、主なる神に聞いて行うことを軽んじました。自分が正しいと思うことを優先し続けたのです。その結果、主なる神から完全に退けられることになります。主なる神は、私たちが主の御声に聞き、そのことばを生きる者となることを、何よりも喜ばれるということです。
今私たちは、主イエスを信じる信仰によって罪の赦しが与えられ、罪からの救いに与ります。そうしてイエスをキリストであると信じる信仰を通して、天地万物を創造された、唯一の生けるまことの神を、自分の神、自分の主と崇める者となり、このお方のことばを聞いて、それを行おうとする、全く新しい生き方を始めるのです。神のことばを聞いて、それを生きようとする、これがキリスト信仰であり、そのような者とするために、主なる神は私たちを、罪からの救いに導き出してくださるのです。
今日私たちは、神の民イスラエルを統治する二代目の王としてダビデが選ばれる経緯を見ます。16章1節。主なる神はサムエルを慰め、励まし、サウルの次に、イスラエルの王位に就く者に、任職の油を注ぐようにと命じます。それでサムエルはベツレヘムに赴き、エッサイのこどもの中の一人を、イスラエルの王位に任じるのです。
6節。サムエルの前にエッサイの息子たちが連れて来られました。サムエルは長男のエリアブを見た時、彼こそが、主が選ばれた人物だと確信しました。その容貌とや背の高さを見て、イスラエルの王にふさわしいと思えたからです。サムエルにそれだけの思いを抱かせるのですから、エリアブはそれ相当の風格を身につけていたと言えるでしょう。
しかし7節。主はサムエルを戒めます。外面的な風貌に心を奪われてはならない。うわべを見てはならない。うわべだけで人を判別してはならない。人間がどのような評価を下そうとも、それが神の評価と同じではないと諭すのです。主がご覧になるのは、人の外面ではなく、その人の心の有り様なのだと戒めたのです。
私たちも気をつけましょう。人を評価する時、その人の容貌とか、肩書きとか、能力や 立ち振る舞いなどの、外面的なものに左右されてはなりません。人間の評価と神の評価が同じとは限らないからです。外面的なものは、その人の真実を現しているわけではありません。私たちは、人を外面的なものだけで評価してはらないのだと覚えましょう。
さて、サムエルは、うわべを見てはならない、主は心を見るのだと諭されて、自分の前にくるエッサイの息子たちを見た時、彼らのだれひとりとして、主に王としては選ばれていないと結論づけました。主なる神の心を自分の心としているかを問うたのです。日々主なる神を思い、その心を自分の心にしようとする、その積み重ねが重要なのです。私たちキリスト信仰者は、日々みことばに親しむことができます。祈りによる神との霊的な、人格的な交わりで自分の心を神に近づけることができます。これらみことばと祈りを通して、聖霊の導きに敏感にされていき、主の心に自分の心を近づけられていくのです。
10節。サムエルは、今自分の前にいる者たちが、イスラエルの王として選ばれていないと知って、11節、他に息子はいないのかとエッサイに聞きます。そしてダビデが連れて来られました。12節。ダビデはどのような姿をしていたのでしょうか。血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだったと記されています。エリアブとダビデはどこが違うのでしょうか。サムエルはエリアブを見た時、彼の容貌や背の高さを見てはならないと戒められました。今ここでダビデを見る時、やはりサムエルは、ダビデの容貌を見ているのではないでしょうか。血色が良く、目が美しく、立派な姿を見たのです。
そしてサムエルは主からの迫りを受けます。この者に油を注げ、この者がそれだ、との主の御声に促され、兄弟たちの真ん中で、サムエルはダビデに油を注ぎます。エリアブとダビデの違いはどこにあるのでしょう。表面的には同じように立派で、容貌としては申し分のない姿だと言えます。しかし心が違っていたということです。エリアブのは持って生まれた外見の良さでした。それに対してダビデは、心の良さが滲み出ていて外見に現れていたということです。主の心を自分の心とするという点において、ダビデは主なる神に認められたのです。内面が姿として現れてくるということです。
13~14節。ダビデには、その日以来、主の霊、聖霊が激しく臨むようになります。それに対して、サウルからは、主の霊、聖霊が離れ、主からの、わざわいの霊がサウルをおびえさせるようになるのです。旧約時代、聖霊は、ある特定の働きをさせるために、ある特定の者に、特定の期間、遣わされました。だからダビデは詩篇の中で願い求めています。
詩篇51篇10~12節。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように」と。神の霊、聖霊は、ある選ばれた者を、主なる神の働きに用いる時に、与えられたということです。これが旧約時代の聖霊と私たち人間との関わりでした。旧約時代に主なる神に用いられたギデオンも、サムソンも、サウルも同じです。ある特定の期間です。
今、新約時代には、聖霊は、主イエスの十字架の身代わりの死を自分の罪のためであると受け入れ、救い主と信じ、主イエスを自分の主と仰ぐ者の心に遣わされています。心に住むと言われているように、ある特定の期間住んでくださるということではなく、キリスト信仰者の心には、いつも、いつでも聖霊が住んでおられて、キリストに似た者に変え続けようと、私たちが助けを求めるのを待っておられるのです。だから私たちキリスト信仰者は、積極的に、聖霊の助けを求めるべきです。聖霊ご自身を心の隅に追いやって、何の助けも求めないで、自分の好き勝手に歩むことほど、大きな損失はありません。
主なる神がサウルから、聖霊を離れさせ、わざわいの霊がサウルをおびえさせることを許可されたのは、サウルの下にダビデを仕えさせ、ダビデが次の王として人々に認められ、受け入れさせるための、神のご計画でした。14~16節で、主の霊と神の霊とが使い分けられています。この文脈では、主の霊は、聖霊ご自身です。神の霊とは、わざわいをもたらす霊がサウルをおびえさせるのを、神が許可されたということを意味しています。
わざわいをもたらす霊がサウルをおびえさせることが頻繁になってきた時、家来たちは王のために、上手に竪琴を弾く者を、王のそば近くに侍らせることを進言します。そして18節。ダビデが推薦されます。その推薦のことばにある、主がこの人と共におられますという証言に、ダビデの主なる神との関係が表されています。このような紹介を受けることができたなら、これほどの幸いはないと言えますね。そうして、ダビデはサウルに仕えることになりました。一介の羊飼いであるダビデが、王に仕える者となり、王のお気に入りとなり、王の道具持ちとなって、人々から勇士として認められていくのです。主なる神のご計画は着々と進められていきます。
さて、ダビデが、主に受け入れられる心を持っていたことは、ダビデの生涯を通して証されています。次回詳しく見ますが、17章にある、ペリシテ人の勇士ゴリアテとの一騎打ちに至る経過の中で、イスラエルの兵士は皆怯えて、意気消沈している時に、ダビデが主君サウルに進言することばに、ダビデの、主なる神への全幅の信頼が表明されています。ゴリアテは生まれたときから戦士として鍛えられ、身長3メートル弱の大男です。
37節。主への全き信頼の中で生きてきたダビデにとって、主が共におられ、共に戦ってくださることは当然のことでした。ダビデは主を信頼して疑わなかったのです。主への信頼ということは、ダビデの生涯のすべてに見ることができます。
その後ダビデは、サウルに命を狙われ、追い回されることになります。その逃亡の中で2度、ダビデがサウルを殺すことのできる機会が訪れます。しかしダビデは、主が油を注いで任職された王を、人間の手で殺してはならないと、部下たちを戒めるのです。サウルが生きている限り、自分の命が狙われ続けることを知った上での決定です。主なる神が任職された。だから主なる神が裁きを下す。自分はその時を待つという信仰の表明でした。
ダビデの最大の汚点は、姦淫と殺人です。王としての成功でダビデは高慢になり、心が主なる神から離れ、その結果、生活が乱れ、夕方に起き出すという昼夜逆転の生活となったのです。そのような中で誘惑に晒され、罪に引き込まれてしまいました。
ダビデは、人妻であると知った上でバテ・シェバという女性と姦淫をし、妊娠させます。その事実を隠すため、忠実な部下である彼女の夫ウリヤを、戦場で合法的に殺してしまうのです。その後ダビデは、何事もなかったかのように、未亡人となったバテ・シェバを妻として召しいれます。姦淫と殺人という大きな罪を、ダビデは犯したのです。
預言者が遣わされ、罪が指摘されました。その時ダビデは、王としての権威で預言者を怒って排除し、開き直ることはせず、素直に神の御前での罪を認め、悔い改めました。
ダビデはこの時の出来事を詩篇51篇に記しました。1~4節。ダビデは、主なる神への罪と自覚し、罪の赦しを心から求めたことが分かります。16~17節。罪を赦されないままでは、どれほどの宗教的な儀式も、主なる神には受け入れられないことをダビデは理解していました。これがサウルとの根本的な違いです。サウルが罪を指摘された時に、それを素直に認めず、また心から罪の赦しを請うこともせず、表面的に繕うだけでした。ダビデは、心から罪の赦しと罪からの解放を求めたのです。主なる神だけが、自分を罪から救うと信じたからです。ダビデはイエス・キリストの十字架は知りませんが、罪からの救い主としての神を仰いでいました。そして主なる神は、そのような心を喜ばれるのです。
サウルとダビデ、主に捨てられる心と主に愛される心、私たちもダビデのような心で主なる神に仕えようではありませんか。主は心をご覧になります。主は私たち一人一人の心のありようを見ておられます。頑なに自分に固執するのではなく、主を信頼することのゆえに、主の心を自分の心として、主なる神に聞き、それを生きる私たちとなりましょう。
主は心を御覧になります。私たちは、うわべを取り繕うことにエネルギーを使うのではなく、自分の心を点検する者となりましょう。礼拝をささげる時の主への心は主に喜ばれるものでしょうか。信仰的な決断をするとき、主なる神を自分の神として崇めるにふさわしい決断になっているでしょうか。繰り返し吟味し、繰り返し正されましょう。私たちの日々の信仰生活において、主に受け入れられ、主に喜ばれる心となっているか点検し続けることが大事です。主なる神の祝福に与る秘訣ですから。
今週のみことば。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全 く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」

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