2022年1月9日 礼拝「狭い門から入る」マタイ7:13~20
- hikaruumichurch
- 2022年1月9日
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おはようございます。主イエスが山の上で語られたメッセージの確認を再開します。今日の箇所で主イエスは、狭い門から入りなさいと招いています。
13~14節。狭い門はいのちに至る門だと言われています。そのいのちに至る門は狭いとあります。いのちに至る門を見いだす者はまれだとも言われるのです。
狭き門というと、受験戦争に追い立てられた時のことを思い出す人もいるでしょう。みんなが行きたいと考えている有名な学校に入るためには、一所懸命勉強をし、高い競争率を勝ち抜かなければ入れません。まさに狭き門をくぐるのです。
しかし、今日の箇所で主イエスが言われた狭い門とは、そのような、みなが行きたいから、結果として入るのが困難な門ということではありません。いのちに至る門は、多くの人は知ろうとしない門であり、多くの人々にとっては魅力に欠け、あまり行きたいとは願わない、そのような意味で狭い門だと言うのです。
そこに向かうなら、いのちに至ると明確に約束されているのに、多くの人々は、そこに向かうことを求めません。逆に、そこに向かうなら、その行く先は滅びだとはっきり警告されているのに、でもと言いながら、多くの人々はそこに魅力を感じて、滅びの道を追い求めます。その滅びへの道を進むことには、時間も労力も、お金も費やすことに躊躇はしません。しかし、いのちへの道に進むことには、時間も労力もお金も費やすことを、惜しいと思うのです。そうして、いのちに至る道には進みません。どうしてと思うのですが、この世の価値観に囚われると、滅びへの道を求めなければ負け犬であるかのように思わされて、滅びに至る道、創造者である神から離れる道へと煽られていくのです。
主イエスの招きと約束は明確です。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。私たちが求めるもの、そのために時間や労力、お金を費やして惜しくないのは、まず神の国と神の義を求めることです。しかしこの道を見いだす者、この道を歩もうとする者はわずかのです。
私たちキリスト信仰者は、主イエスを信じる信仰が与えられました。天の御国に入る者とされ、いのちの至る道を見出したのです。それを見出す者はわずかですと言われた、その道を見出して、いのちへの道を歩んでいます。だから、この道から外れてしまうことのないように、主イエスから目を離さないで、信仰の道を歩み続けることが大事です。
15節。突然主イエスは、偽預言者について語り出します。偽預言者たちに用心するようにと警告したのです。偽預言者ですから、神のことばを語っているように見せかけます。しかし偽預言者は、そのことばを聞く人々を大きい門へと誘い、広い道を進ませ、滅びへと引き込んでいくのです。警戒しなければなりません。本物の預言者なのか、偽預言者なのかは、彼らの実、神の御前で遜っているのか、神の栄光を現しているのか、自分の業績を誇っているのか、高ぶっているのかで、見分けることができると言われています。
新約の時代に生きる私たちは、週報に記した今週のみことばによっても、その人々が本物の預言者であるか、偽預言者であるかを見分けることができます。つまり、人となって来られたイエス・キリストを告白しているかどうかです。神の御子が人となられた、つまりイエス・キリストは神であられたのに、人となって来られたと告白しているかで見分けるのです。神が人となられた目的は、十字架で処刑されるためです。私たちの罪をすべてその身に負って、私たちの代わりに、罪の処罰を受けてくださいました。そのために、神の御子は人となられたのです。この事実を告白している、つまり罪を指摘し、罪の赦しの福音を伝えているなら、神から遣わされた者であり、この事実を告白しないなら、つまり罪の指摘することなく、罪の赦しの福音を伝えていないなら、神から遣わされた者ではなく、偽預言者として排斥しなければならないということです。
偽預言者は、神のことばに聞くことを妨げます。神に聞くことではなく、自分の好みに合う歩みをして良いと人々を惑わします。人は罪の性質を引きずっていますから、基本的に自分の好みに従って生きることを選び、神のことばに聞いて生きることを嫌がります。神に聞いて生きることは、束縛されると勘違いし、窮屈さを感じるのです。神の自分に対する愛が分からない、神が祝福と恵みに満ちておられるお方だと信頼できないなら、当然の反応でしょう。罪人は基本的に、自分の好みに合わせて、自由気ままに、自分の欲求を満足させる行動に進みたいのです。
しかしこのような行動は、良い結果をもたらしませんでした。自由気ままに、自分の好き勝手に生きた結果、様々な罪を犯し、人を傷つけ、自分も傷つけられたのです。自由気ままには、まさに滅びへの道であると分かり、罪と罪の現実を前にして、罪の愚かさと恐ろしさに気づかされ、罪の赦しと罪からの救いを願って、主イエスを信じたのが私たちキリスト信仰者です。そうして、自分の好き勝手に生きることが罪であり、創造者である神に聞いて、神の絶対的な基準を生きることが救いであると確認したのです。滅びに至る道に進むことを止め、いのちに至る道に進み始めたのがキリスト信仰者です。
しかしこの、いのちに至る門は狭く、その道も細いものです。この道や門を見出す者はわずかだと、主イエスは私たちキリスト信仰者にも警告を与えるのです。まことの神を知る者となり、まことの神に知られているはずなのに、まことの神に聞いて生きることではなく、自分の好みに合う生き方をなおも求めさせるのが、私たちにある罪の性質です。私たちは罪の愚かさ、罪の恐ろしさを味わい知り、犯してきた数々の罪を赦していただきました。しかし私たちが罪人であることに変わりはありません。私たちキリスト信仰者は、罪を赦された罪人である、という事実を忘れてはならないのです。
旧約の神の民イスラエルには、多くの偽預言者が現れ、人々を神のことばに聞くことではなく、自分の好みに合うことばを欲するように惑わしました。新約の神の民、キリスト信仰者に対しても、偽預言者や偽教師たちが、神のことばに聞くことではなく、自分の欲求を満足させる、自分の好み合うことばを求めるようにと惑わします。使徒たちの手紙から、初代教会を、キリスト信仰者たちを惑わす存在を知ることができます。
使徒ヨハネはその手紙に、偽預言者がたくさん世に出て来たと注意喚起し、その霊が神からのものかどうか吟味しなさいと促しました。いつの時代にも、偽教師たち、偽預言者たちが、キリストの教会を、キリスト信仰者たちを惑わして、神のことばに聞いて生きることを止めさせようとします。罪に引き込もうとしているのです。警戒しましょう。
パウロはコリントの教会に書き送りました。サタンでさえ光の御使いに変装します。だからサタンのしもべどもが、義のしもべに変装してとしても、大したことではありませんと注意を促しています。私たちは惑わされてはならないのです。
21節。この段落は、次回確認するのですが、いのちに至る道と滅びに至る道が記されています。いのちに至る道は、父なる神のみこころを行う者の道であり、自分を主なる神に差し出して、神のことばに聞いて生きることで、父なる神のみわざに用いられる道です。滅びに至る道は、自分のわざを行う者の道であり、自分のわざを行うにあたって、主イエスの権威を利用するという道です。自分のわざ、自分の計画、自分の好み、自分の願いの実現が重要であって、その実現のために、イエスを主と呼ぶのです。彼らは、父なる神のみこころがなることには、関心がありません。自己実現が目的です。
自己実現ですから、多くの人はその道を選び、進んでいくのです。しかしそれは滅びの道です。罪の性質に自分を委ねる歩みです。私たちは自己吟味をしましょう。自己実現を求めているのでしょうか。自分の好み、自分の思い、自分の願いや計画の通りに事が運ぶことを願い、自己満足を求めているなら、それは罪そのものです。キリスト信仰者ではない多くの人々が求めている道です。
私たちは自己中心が罪であることを知り、自分中心の生き方を止めて、神を中心にして生きる全く新しい歩みに進むことを目指して、主イエス・キリストを信じました。イエスを自分の主としたのです。私たちは神の子どもとされ、神の民とされました。主イエスは言われました。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。主イエスを信じた私たちは、神のことばに聞いて、父なる神のみこころに行う者へと変えられました。助け主の聖霊に助けを求めて、神のことばに自分を合わせる一歩を踏み出し続けることで、父のみこころを行う者とされるのです。
もし自分の好きなように生きたいのなら、キリスト信仰者であることを止めた方がはっきりします。キリスト信仰者として歩みたいのなら、自分を主なる神に明け渡し、用いてくださいと自分を差し出すことが大事です。その人は、時が来ると実を結びます。父なる神のみこころを行うという実を結ぶのです。私たちは罪の愚かさと恐ろしさを知っているはずです。罪の赦しを求め、罪からの救いに与るために主イエスを信じたはずです。そのような私たちですから、自己中心から解放され、神を中心にして生きることが大事です。
旧約の神の民とされたイスラエルの多くの人々は、神に聞いて生きることを退け、そして滅ぼされました。イエスを神であると信じたユダヤ人は、神の民イスラエル全体から見るなら、ほんの一握りと言えます。まさに、いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。それを見出す者はわずかですと言われているとおりです。
新約の神の民も同様の危険があります。日本のクリスチャンの数は、人口の1%ほどと言われています。統計の取り方では2~3%という数字もあります。1%として120万人のクリスチャンがいることになります。では定期的に教会に集まり、礼拝を献げている人はどれほどいると思われますか。20~30万人だそうです。これが日本の実状です。主イエスの父のみこころを行いたいと祈り、歩んでいる人々はわずかなのです。
私たちは父なる神のみこころを行いたいと願い、祈り、歩む者でありましょう。神のみ こころを知るためには、神のことばに触れ続ける必要があります。信仰と生活の唯一絶対の規範である聖書から、神のみこころを知る必要があるのです。自己中心の信仰にならないために、自己満足の信仰で終わらないために、真に祝福された信仰生活を歩むために、聖書から神のみこころを知る努力をすることが大事です。狭い門から入る信仰の歩みを積み重ねることが大事になるということです。
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