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2022年1月30日 礼拝「傷を癒す主イエスの愛」 ヨハネ 21:15~17

  • hikaruumichurch
  • 2022年1月30日
  • 読了時間: 10分

 おはようございます。みなさまは、星野富弘さんという方をご存じでしょうか。花の詩画集や、カレンダー、絵はがきなどが、一般の書店でも扱われていて、星野さんのファンも多くいることと思います。星野さんの詩画集を手にすると、その花の絵も、そこに添えられた短い詩も、本当に味わい深いなと思わされます。星野さんの最初の出版となった詩画集『風の旅』に、私の好きな、次のようなことばがあります。「わたしは傷を持っている。でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる」 このように言うことができる星野さんは、どのような体験をしたのでしょう。短く紹介します。


 星野富弘さんは、1970年に、中学校の体育の新任教師として赴任します。そして6月、クラブ活動の指導中の事故で、突然、首から下を全く動かすことができない体になりました。そして九年間の、病院での闘病生活に入ったのです。その失意や絶望、悲しみ、苛立ち、痛みや苦しみなど、想像を絶するものであったでしょう。


 そのような星野さんが、やがて大学の先輩から渡された聖書を開くようになります。そしてイエス・キリストを知り、自分の救い主として信じたのです。先ほど読んだ詩は、星野さんの、入院してから七年目の作品です。「わたしは傷を持っている。でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる」。


 私たちは、自分の傷を人に見せることをあまりしません。下手をすると、その傷が基でさらに傷つけられることがあるからです。心ない人の振る舞いによって、また悪意によって、傷に塩を擦り込まれるような扱いを受けることもあるのです。だから相手がどのような人物であるかが分かるまでは、自分の傷は隠しておいた方が良いと考えます。


 とは言っても、私たちも、星野さんのように、自分の傷を隠すことなく、しかも、その傷のゆえに優しさを味わうことができるなら、それは何と幸いではないでしょうか。傷をもっていることのゆえに幸福感を味わうことができる、そのような関係を作り上げたいと願います。そのためにはまず、私たちが自分の傷をそのまま受け止める必要があり、そしてそこに示された相手の思いやりを素直に受け入れる心を持つことが不可欠です。そのような心を、星野さんは主イエスの愛を受け入れることで、持つことができたのだと言えます。そして星野さんは、自分の傷のゆえに、優しさを味わう喜びを詩に著しました。


 星野さんは主イエスとの霊的な、人格的な交わりを通して、少しずつ自分をありのまま受け入れることになります。そのままの自分が愛されており、そのままの自分がたいせつな宝であると見なされていることを素直に感謝するのです。主イエスに愛され、主イエスや自分に関わってくれる様々な人の優しさに支えられ、それを素直に感謝する。このような生き方は本当に幸いであると言えます。


 星野さんが入院して五年目の作品に、次のようなことばがあります。はなきりんの絵に添えられた詩です。「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ。私のように、動けないものが動けないでいるのに、忍耐など必要だろうか。そう気づいた時、私の体をギリギリに縛りつけていた、忍耐という棘のはえた縄が『フッ』と解けたような気がした。」自分の状態も、自分を取り巻く状況も、何も変わっていません。しかし自分が変えられ、ものの見方が変わる時、その世界は全く変わるのです。自分の今の状態の、ありのままを受け入れ、その中で主イエスの恵みを味わい、生きようとした時、その状況の中で力強く生きるいのちに満たされていくのです。


 私たちは往々にして、状況を変えようともがくことがあります。確かに変えることができるものを変えていくことは必要です。なすべきことを何もしないで、ただ好転することを待っているだけでは何も起こらないのは当然です。しかし自分の力ではどうしようもない状況に置かれた時に、その状況を変えようともがいても何も変わりません。もがけばもがく程、さらに傷口を開くことになりかねません。主イエスが与える癒しは、自分の置かれた状況が何も変わらなくても、確実に日々を生かす、いのちに満ちた救いなのです。そしてこのいのちを与えられた時、その状況の中で、与えられているものを生かして用いることで、結果として状況さえも変えることになるのです。


 みなさもそれぞれに、傷を持っているでしょうか。その大きさも、その原因も、そして自分の生活に与えている影響も違っていることでしょう。その傷は被害者として、人々からつけられたものかも知れません。あるいは加害者として、間違いを犯してしまったことが、癒されない疼きとして残っていることもあるでしょう。また自分という存在が、周りの人々と何か違うということが、自分の傷になっていることもあります。それらの理由が何であっても、深い傷として刻まれていて、それが心を暗くし、前向きに生きることを妨げているのかもしれません。


 そして私たちは、往々にして、自分が抱えている傷に触れないようにしています。忘れようとしていることもあり、完全に忘れてしまったものもあるでしょう。特に被害者として受けた傷は、それが深ければ深いほど、触れないようにしているかもしれません。しかしどうでしょう。本当は、心の奥底では、その傷の癒しを求めていないでしょうか。加害者として抱えている傷なら、その罪責を赦してほしいと願っていないでしょうか。自分をそのまま、ありのままで受け入れてほしい、そのままで受け止めてほしいと、その癒しを求めているのではないでしょうか。


 今日の聖書の箇所は、主イエスとペテロの対話です。15節。ペテロは大きなそして深く刻まれた傷を持っています。それは、ある意味では間違いを犯した加害者としての、赦しを必要としている傷であり、またその間違い犯したことから来ている、自分はもう役に立たない存在だという、自己評価を低めている傷とも言えます。それはまた、主イエスに対しての重い負い目となっていました。


 ペテロは、イエスの弟子たちの中で、自分こそがリーダーだと自負していたのです。主イエスは、自分がユダヤ教の指導者たちに捕らえられ、十字架で処刑される直前に、弟子たちに予告しました。自分が捕らえられる時、あなたがたはみな、自分を捨てて逃げてしまうと。その時ペテロは答えたのです。たとい他の弟子たちが皆逃げとしても、自分は決して逃げない。あなたから離れない、たとえ牢獄であっても御供すると。その思いに偽りはありませんでした。そうできると思っていたのです。しかし主イエスは言われました。今夜鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言いますと。しかしペテロは絶対にそんなことはありませんと言い張るのです。


 その晩イエスが捕らえられました。弟子たちは逃げ出します。ペテロも逃げてしまうのです。しかしペテロは思い直し、何とかイエスの後を追っていくのですが、一旦恐れを感じた者にとって、空元気では通用しません。ルカ22:54~。中庭でたき火にあたりながらイエスの様子をうかがっている時、そこに居合わせた人々に、この人もイエスと一緒にいましたと言われます。最初は召使いの女から、次にほかの男に、あなたも彼らの仲間だと言われます。3度目は別の男が強く主張するのです。確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だからと言われ、3度とも否定しました。マタイとマルコの福音書では、ついに呪いをかけて、そんな人は知らないと誓い始めたと記されています。


 60節。その時、鶏が鳴くのです。61節。主イエスは振り向いてペテロを見つめられたとあります。そのまなざし、ペテロを見つめられた主イエスのまなざしはどのようだったのでしょうか。ペテロは主のことばを思いだして、外に出て激しく泣きます。


 この時ペテロは、主イエスを否認したことに対する赦しは与えられたと思えるのです。主イエスのまなざしは赦しと憐れみに富んでいたのではないでしょうか。ほうら言ったとおりだろうと断罪し、見下す目ではなく、あなたの弱さを知ってるよ、なお愛しているよという眼差しであったと思えるのです。主イエスの愛とあわれみは注がれていました。しかしペテロは、心に大きな傷を持ち続けていたと考えられるのです。


 ヨハネ21章15節。イエスはペテロに「わたしを愛しますか」と問います。この人たち以 上にわたしを愛しますかと問われて、彼は持ち前の率直さで、しかし控えめに、私があなたを愛することはあなたが御存じですと、答えます。イエスは再びペテロに問いかけられます。16節。そして17節。三度目に問いかけられた時、ペテロは心を痛めます。それは、なぜ私を信用しないのですかという心の痛みではなく、あの十字架の前夜の出来事、自分が三度もイエスを知らないと言った、あの出来事を思い出しての心の痛みでした。しかしその問いかけは、ペテロを断罪するためのものではなく、その失敗を責めるものでもなく、心の傷を優しく癒すためのものであることが分かります。あなたの失敗を赦しているよ、問いつめることはしないよという語りかけなのです。


 ただし主イエスは、ペテロの失敗を赦しつつも、その間違いとその原因を思い起こさせています。これは同じ間違いを犯さないようにするために、あえてペテロの弱い部分、つまり、自分の肉の頑張りで事を行おうとする間違いに触れたといことです。肉の頑張りで事を行うのではなく、主に愛されていることを確認し、主を愛するがゆえに、主に委ねられた使命に自分を献げる。主に助けを求めて、主の御力に自分を明け渡して、霊的な指導者としての使命を果たすように招いたということです。


 私たちは自分の間違いを糾弾されても、過去の失敗の原因を突きつけられても、それで 解決できるのでも、回復されるのでもありません。傷を指摘されても、それで癒されるのではないのです。私たちに必要なのは愛と赦しと助けです。自分は愛されている、自分は赦されているという、その確認です。ありのままの自分が、罪を犯してしまった自分が、傷を持っている自分が、そのまま愛されている、受け入れられていると確認することで、まさに傷そのものに、やさしく触れられ、癒しを味わうのです。


 主イエスはあなたをも、そのままで受け入れ、愛しておられます。この主イエスの自分に対する愛を味わい、その愛に応えて、主イエスを愛し、主と共に歩み始める時、自分を取り巻く状況は何も変わっていなくても、新しいいのちに生きることになります。


 星野富弘さんは、自分にあるもの、残っているもの、できることに目を向けるいのちを与えられました。なくなったもの、できないことばかりを見て、嘆き、失望し、意気消沈することを止め、不平不満を捨てました。できること、あるものを感謝する者となり、それを生かすいのちに生きたのです。そして口で花を描き、心に与えられた感謝や喜び、希望をことばに表し、今も、多くの人々に生きる希望を与えています。


 あなたも、主イエスの語りかけに耳を傾け、素直に応じることが大事です。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。主イエスはあなたを愛して、十字架であなたの罪の身代わりに処罰を受けたのです。私の罪、あなたの罪に赦しを与えるために、十字架で死なれました。それほどの愛であなたは愛されているのです。



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