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2022年1月2日 礼拝 「真に幸いな人生を歩む」詩篇1:1~6

  • hikaruumichurch
  • 2022年1月2日
  • 読了時間: 8分

 あけましておめでとうございます。主の年2022年が始まりました。この新しい年の、最初の主日礼拝を、みなさまと主なる神にお献げできる幸いを心から感謝しています。この年も、主なる神を信頼し、全知全能の神に聞いて生きる、さらに真に幸いな人生を歩みましょう。


 今日私たちは、詩篇1篇から、真に幸いな人生へ招かれていることを確認します。真に幸いな人生を歩むことができるのだから、そのように歩む一歩を踏み出すようにと招かれているのです。真に幸いな人生の秘訣を確認して、そのように歩もうではありませんか。


 1節には、幸いであるための、消極的な歩みが、2節では、幸いであるための、積極的な歩みが、そして3節には、幸いである者が味わう祝福が述べられています。


 1節。幸いであるための、消極的な歩みです。歩まず、立たず、着かないとあります。幸いな人は、これらの行動をしません。そのような行動から遠ざかる人たちです。悪しき者のはかりごとに歩まない人。罪人の道に立たない人。嘲る者の座に着かない人です。悪しき者とは、意図的に神のことばに背く者、意識して神を自分の神としないで歩む者たちです。罪人とは、的を外して歩む者、神のことばの絶対的な基準から離れて、自分の好む、相対的な基準で歩む者たちです。嘲る者とは、誇り高ぶる者、創造者である神とそのことばを愚かであると退ける者たちです。


 幸いな人は、悪しき者のはかりごとに歩みません、罪人の道に立ちません。嘲る者の座に着きません。歩むとは、行動を起こすことであり、立つとは、自分の立ち位置を決めること、座に着くとは、自分が定めた座に留まり続けることで、そのあり方を変えることはしないということです。幸いな人は、ある時には悪しき者のはかりごとに引き込まれたとしても、その間違いに気づいて、悔い改めて、神に聞いて生きることをし直す者です。


 2節。幸いであることの、積極的な歩みです。幸いな人とは、主のおしえに背くのではなく、主のおしえを喜びとする人です。喜びとするとは、自分の意思を用いて選び取ることです。背くことも選び取ることなのですが、そうではなく、喜びとするのです。パウロはピリピのキリスト信仰者たちに「喜びなさい」「主にあって喜びなさい」と書き送りました。無理して喜ぶということではなく、主にあって喜ぶのです。喜べない状況に置かれます。しかし主にあることを確認するとき、私たちは主に、いのちを捨てるほどの愛で愛されていること、主が私たちのために、すべてのことが働いて益となるようにしてくださることを確認するとき、どのような状況に置かれたとしても、そこで、主にあって喜びとすることができるのです。私たちは自分の姿勢を確認しましょう。背くことを選び取っていないか、つまり喜びとすることを退けていないか、喜びとしているか、喜びとすることを選び取っているかを吟味することが大切です。主のおしえを喜びとすることが幸いな人 生を歩む秘訣です。


 主のおしえを喜びとする具体的な行動が、昼も夜も、そのおしえを口ずさむことです。 口ずさむとは、楽しいからでしょう。心から同意して、楽しんでいると、自然と口ずさんでいます。主のおしえは、元々は主の律法ですが、主のことば全般に拡げても良いと言えます。主のおしえに触れることを楽しむのは、主なる神との触れ合いを楽しんでいるからです。父なる神との、御子イエスさまとの、聖霊なる神との霊的な交わりを楽しむ者は、主のおしえに触れることを楽しみ、昼も夜も、そのおしえを口ずさむことになります。脚註を見ると、口ずさむと訳したことばは、思い巡らすと訳すこともできるとあります。みことばを思い巡らす、その時間を楽しむのです。


 3節。真に幸いな人の幸いな生涯が約束されています。その人は、流れのほとりに植えられた木と言われています。その人は主なる神によって、流れのほとり、神が作られた水路に植えられたので、たとえ日照りになったとしも枯れることはありません。絶えず水分が供給されているので葉は枯れません。時が来ると実を結びます。主なる神が良いとされる時を定めて、実を結ばせてくださるのです。だから、その人のなすことはすべて栄えると言われます。


 礼拝招詞で読んでいただいた礼拝への招きのことば、ヨシュア記1章8節には、このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめと招かれました。そのうちに記されていることすべてを守り行うためであると、口ずさむ目的が記されています。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからであると、明確に、祝福された人生が約束されています。悪しき者となってはなりません。


 詩篇92篇12節。悪しき者ではなく、正しい者は、なつめ椰子のように萌え出でるとあります。なつめ椰子は根を地中深く伸ばすので、地面が乾ききっていても、地中深くから水分を吸い上げているからです。


 13節。正しい者たちは、主の家に植えられて、神の大庭で花を咲かせるのです。だから14節。年老いてもなお、青々と葉を生い茂らせ、実を実らせるのです。これが正しい者たち、主にある真に幸いな人生を歩む者たちに約束された祝福です。


 ヨハネの福音書15章5節。主イエスを信じる私たちは、ぶどうの木である主イエスにとどまる枝です。主イエスからいのちの水、霊的な養分を受け取っているので、多くの実を結ぶと約束されています。私たちキリスト信仰者は、主イエスから離れては何もすることができないのです。悪しき者となってはなりません。罪人の道に立ってはなりません。嘲る者の座に着いてはならないのだと肝に銘じましょう。


 詩篇1篇4節。悪しき者は、そうではないと断言されています。真に幸いな者、主のおしえを喜びとする者、正しい者とは全く違って、悪しき者、主のおしえを軽んじる者、主のおしえに従おうとしない者は、風が吹き飛ばす佅殻だと言われます。実を結ぶ者は倉に収められ、実を結ばない者、佅殻は火で焼き尽くされるのです。何という違いでしょう。私たちは主イエスを信じた者として、主にあって実を結ぶ者でありたいのです。


 5節。人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっていると、ヘブル人への手紙の著者は書き記します。そのさばきの座に立たされ、犯した数々の罪、赦しを受け取ることを拒絶した罪を指摘されて、罰せられるのです。彼らは、正しい者の集い、主イエスを信じて罪の赦しを受け取り、神に義と認められた者の集いから排除されます。これもまた、正しい者と悪しき者の、人生の結果の違いです。


 6節。正しい者の道は主に知られています。主との霊的で、人格的な交わりの積み重ねの中で知られ、永遠の祝福の中に入れられます。いのちの書に名前が書き記されるという知られ方です。しかし悪しき者の道は滅び去るのです。この世で成功を収め、人々から素晴らしいと称賛された歩みであっても、いのちに至る道ではなく、滅びに至る道を歩んでいたということです。まことに、悪しき者の道は滅び去ります。


 今日私たちは詩篇1篇を通して、真に幸いな人生への招きを確認しました。私たちは、真に幸いな人生を歩む者へと招かれています。その招きに応じるか、応じないかは、私たちが決めることです。悪しき者とならないように自戒しましょう。悪しき者とは、意図的に神のことばに背く者、神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もしない、意識して神を自分の神としないで歩む者たちです。


 創造者である神は、責任を取らせます。神は侮られる方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。良い種を蒔けば、豊かな実を刈り取ります。悪い種を蒔けば、主なる神はその刈り取り、悪い実の刈り取りをさせるのです。私たちが犯した罪に対する処罰は、神の御子、主イエスの十字架でその責任を取らせました。私たちのために責任を取って、罪の赦しを備えてくださった愛する御子イエスさまに感謝しつつ、罪を悔い改め、罪の赦しを受け取ることが大事です。自分の言動に対して、知らんぷりはできません。公正なさばき主である神は、必ず結果責任を問うからです。悪しき者となってはなりません。


 日々、一日一日です。主のおしえを喜びとするのです。主にあって喜ぶのです。主のおしえを口ずさみ、主のおしえを思い巡らすのです。主のおしえに自分を合わせて、主のおしえに歩むためにです。その人は、主からの霊的な栄養たっぷりな養分を受け、どのような状況に置かれても、なお葉を茂らせ、神の定めた時に実を実らせます。しかも豊かに実を実らせるのです。これが正しい者に約束されている、真に幸いな人生です。


 日々みことばに養われましょう。2022年、聖書通読に挑戦しましょう。これまで一度も聖書全巻を通して読んだことがない人も、この新しい年、聖書通読に挑戦する初めの年にしてください。聖書通読は始めたけれど、途中で断念したという方も、改めて挑戦することをお勧めします。みなで読み進めましょう。聖書通読は牛のよだれのようだと表現した人がいますが、まさに牛のよだれは、切れそうになりながら続いているとのことです。通読表に従って読み進め、読めなかった日のことは忘れて、いつもその日の箇所を読む。それを繰り返すことで、いつしか毎日読み進める新しい習慣が身に付きます。悪い習慣は努力しなくても身につきますが、良い習慣は努力することで身につきます。そして習慣化したなら、もう努力はいりません。自分の生活の一部になったのです。


 テモテへの手紙第二3章16節。聖書、神のことばの効能が記されています。おしえとはどのように歩むことが幸いであるかを知らせます。戒めとは、どこで間違ったのかを知らせます。矯正とは、正しい道に立ち返る方法を知らせます。義の訓練とは、継続的に主のみこころに従って歩む者へと整えていくのです。神のことばに触れていなければ、これらの効能を味わうことはできません。どれほどすぐれたことばであっても、それは絵に描いた餅のように眺めるだけです。神のことばに触れ、神のことばを思い巡らし、神のことばに自分を合わせて一歩を踏み出していく。その繰り返しです。身につくまで、繰り返し努力することが大事です。


 詩篇1篇3節。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実がなり、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。真に祝された幸いな信仰生活、地上生涯を送る私たちとされようではありませんか。




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