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2022年1月23日 礼拝「迫害者サウロの回心」使徒 9:1~22

  • hikaruumichurch
  • 2022年1月23日
  • 読了時間: 9分

 おはようございます。使徒の働きからの学びを再開します。前回私たちは、8章を通して、キリスト信仰者たち、そしてキリストのからだである神の教会に対する激しい迫害が始まった経緯を見ました。ユダヤ社会からの公的な迫害の始まりです。初代教会で役員の一人として選ばれたステパノが石打ちされ、殺されました。それをきっかけとして、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、その結果、キリスト信仰者たち、特にギリシア語を使うキリスト信仰者たちはユダヤとサマリヤの諸地方に散らされたのです。


 キリストのからだである神の教会を迫害する、その急先鋒がサウロです。8章3節。サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して牢に入れました。22章や26章に記されたパウロの弁明を見ると、キリスト信仰者たちに対して、死にまでも至らせたということも分かります。多くのキリスト信仰者が苦しめられました。多くの関係者が悲しみのどん底に落とされたのです。自分のこととして想像してみてください。夫が、妻が殺されました。親が、子が投獄されています。親族が、友人が拷問を受けているのです。被害者家族の立場、その関係者の立場で考えるなら、そこで繰り広げられている弾圧のひどさから生じる、悲しみ、嘆き、苦しみが想像できるのではないでしょうか。サウロを決して赦してはならないと考えるのは当然と思えます。


 しかし主なる神の恵みは、サウロのような人にも向けられます。どれほど非人道的な罪を犯したとしても、その人にも主の恵みは注がれるのです。その恵みを自分のものとして受け取るなら、主の恵みはその人に満ちあふれて、その罪は赦され、救いに与ります。私たちはサウロが救われたという事実を前にして、まだ救いを受け取っていない人々のために、忍耐をもって、執り成し祈り続ける必要があります。希望があるということです。


 さてサウロの回心を確認しましょう。1節。なおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻きと記されています。サウロがキリスト信仰者たちを抹殺することに、全存在をかけていたことが分かります。そして彼は、遠く、ダマスコにいるキリスト信仰者を見つけて、縛り上げ、エルサレムに引いてくるための許可を取りました。2節。


 ダマスコ、今はシリヤのダマスカスです。イスラエルの北部に位置していて、エルサレムからは300kmほど離れています。迫害を受け、散らされた人々は、その先々で福音を宣べ伝えながら巡り歩きました。その一部の人たちは遠くダマスコにまで行って、そこで主イエスとその福音を伝え、そして多くの信仰者が生み出されたということが分かります。罪を赦され、罪から救われたことを喜ぶ、その喜びと感謝が彼らをして、迫害のただ中にあっても、主イエスを信じる信仰のすばらしさを伝えさせたということです。


 サウロは、ナザレのイエスをキリストであると信じる者たちを捕え、殺害することは、神の御前で正しいことであると結論づけていました。ユダヤ教の教義から導き出される当然の結論としたのです。人間中心、自己中心の解釈によることなのですが。


 サウロは、木にかけられた者は神に呪われた者だとする旧約聖書のことばから、十字架で処刑された者、神に呪われた者であるナザレのイエスがメシヤ、キリストであるはずがないと結論づけたのです。しかし今、ナザレのイエスをメシヤ、キリストであると信じ、それを伝えるキリスト信仰者、そして教会は神を冒瀆している、だから、そのような存在を抹殺することは神への忠誠であるとしたのです。そして、殺してはならないという十戒の戒めも、キリスト者には当てはまらないと結論づけます。


 サウロは、自分の行為を神にあって正当化できる理由を、自分で作り上げました。このような姿勢は、自分の思いや考えを神のみこころ、計画、み思いの上においているのに、自分は神に仕えていると錯覚させます。この時のサウロはまさに自分が神でした。神を信じている、神に従っていると言いながら、実際には神のことばを曲げている。しかもそのことには気づかないで、心底神に従っていると思い込んでいる。このような時、神の名前で、人道的には、そして神の前においても、決して許されるはずのない残虐行為が行われ、しかもそれを正当化していくのです。キリスト教会の歴史においても、十字軍の遠征や、数々の宗教裁判、植民地支配、そして湾岸戦争やイラク戦争などなど、みな神の正義を掲げて行われてきました。キリスト教会の負の遺産として認めて、同じ間違いを犯さないように、私たちは自分を戒めておくことが大事です。


 サウロは神に熱心でした。しかしその熱心は、殺害しようと息巻きと表現されるもの、神のことばに対する真の謙虚さに欠けていたものだったのです。だから彼の神への熱心さは、結果として、神に敵対する行動を生じさせました。そのようなサウロに対しても、主なる神の憐れみと恵みは豊かに注がれたのです。サウロを断罪し、滅ぼすということではなく、悔い改める機会を差し出されました。復活の主イエスご自身がサウロに現われ、その間違いに気づかせてくださったのです。3節。天からの光がサウロを照らしました。26章13節には、真昼の天からの光を見た。それは太陽よりも明るく輝いてとありますが、その光によってサウロの目は見えなくされました。


 4節。自分に語りかける声をサウロは聞きます。なぜわたしを迫害するのかと。突然の光、そして語りかける声とそのことば、恐れ戸惑いながらも、自分に語りかけるそのお方を知ろうとサウロは問いかけます。5節。そのお方は自分が怒りを燃やし、その信者であるなら誰であっても抹殺すべき存在と見なし、それは神からの至上命令であると思い込んでいた相手イエスでした。そして6節。彼のこれからの処遇についての指示を受けます。


 9節。サウロは3日間目が見えませんでした。また飲み食いをしなかったとあります。サウロが受けた衝撃の大きさを思わせられます。そしてこの3日の間、サウロはキリストについての聖書の預言を思い巡らし、確認したと考えられます。自分に現れたお方、十字架につけられ、殺されたあのナザレのイエスは、聖書で預言されていたキリストなのか。キリストは苦しめられ、辱めを受け、殺されることは神の救いのご計画なのか。聖書のことばをいろいろと思い起こしながら確認し、検証した3日間であったと思います。そして自分の間違いに気付きます。自分が迫害していたイエス、自分が憎しみを燃やしていて、抹殺することが神を愛し、神に仕えることになるのだと固く信じてきたことは、すべて自分の、人間的な解釈であり、それは神に敵対していることなのだと。


 サウロが幸いであったのは、旧約聖書を読み込んでいたパリサイ人であったこと、そして何よりも神が備えてくださった自分を省みる機会を、十分に用いようとする謙遜さにあると言えます。今まで読み飛ばしてきたイザヤ書53章など、苦難のメシヤ預言にも真正面から向き合ったと考えられます。さらに、サウロを神の御前で謙虚にさせたのは、キリスト者たちの言動であり、大きな影響を与えたのではないかと思うのです。


 サウロはステパノが処刑される時、そこに居合わせました。7章58節。8章1節。サウロはステパノを殺すことに賛成し、石を投げつける者たちの着物の番をしながら処刑の一切を見ていたのです。そして少なからず疑問を抱いたのではないかと思うのです。なぜステパノはイエスのために死ぬことを恐れないのか。なぜ自分を殺そうとする者のために赦しを求めて祈れるのか。その平安と愛はどこから来るのか。また教会を弾圧し続ける中で見られるキリスト者たちの振る舞いとことばにも、驚かされたことでしょう。平安と喜びをもって迫害を受け留め、希望を固く抱いて死んで行く。命をかけてイエスを信じることを貫き通す。それらの一つ一つの言動が、パウロの心に、自分がしていることは本当に正しいのだろうかという思いを起こしていたのではないかと想像するのです。


 サウロは、主の一方的な憐れみと恵みによって、ナザレのイエスを約束されていたキリストであると認め、イエスを自分の救い主と信じ、自分の主と崇めました。自分に向けられた一方的な恵みを、素直に感謝し、十字架の死を自分のための身代わりであると受け入れたのです。サウロは自分の間違いを認め、悔い改めました。そしてサウロは主イエスを信じたという、ただその信仰のゆえに、すべての罪を赦していただいたのです。


 10~12節。主なる神はアナニヤをサウロのもとに遣わします。アナニヤの不安は13~ 14節です。その不安を打ち消すように15~16節で、主なる神のご計画、サウロの召しについて語られるのです。サウロは苦しみを受けつつ、主イエスの福音を宣べ伝える宣教者として選ばれたということです。17節、アナニヤも素直に主のことばに従いました。


 サウロは三日間の確認を通して、ナザレのイエスが神の子であり、約束されたメシヤ、 キリストであると受け入れました。神のことばの前に真摯に自分の間違いを認め、悔い改めの祈りをしたのです。そのサウロに赦しの宣言をするためにアナニヤが遣わされ、アナニヤによって、サウロは主なる神からの赦しを確信できたということです。サウロは目から鱗のような物が落ちて目が見えるようになり、聖霊に満たされました。


 今日私たちは、神に敵対した、最大の迫害者に対しても、主の恵みは注がれていることを確認しました。そしてサウロが、主の恵みを自分のものとして受け取り、主イエスを自分の救い主と信じたことで、罪が赦され、救いに与るという主の救いの御業を見ました。今私たちは、今はとても信じるようには思えない人も、どれほど極悪な人であっても、主イエスの救いから排除されてはいないと確認しておくことが大事です。その人の救いを求めて祈り続ける必要があるということです。


 先ほど交読したローマ人への手紙5章20節で、パウロは、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれましたと書き送っています。自分の罪を自覚して、その罪の赦しを求める者には、罪がどれほど増し加わっていたとしても、その罪を赦す恵みはさらに満ちあふれるということを忘れてはなりません。すべての人の、あらゆる罪に赦しを与えるために、神の御子キリストは人となられ、十字架で身代わりの処罰を受けられたのです。


 私たちは、身近な人のために、その人が主イエスを信じ、回心し、主イエスを信じる者として生きられるように、諦めずに祈り続ける必要があるのです。その人が拒み続けていても、この世を去るその時まで、その人に対する主の恵みは注がれ続けています。主の恵みは満ちあふれており、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いを、その人が受け入れるとき、すべての罪は赦され、罪のない者と見なされるのです。その人の救いを祈り続けることができるのは、その人をよく知っているあなただけです。主イエスを信じる信仰によって救いに与り、罪の赦しを受けることのできた喜び、そして永遠のいのちに生きる幸い、天の御国への希望を証しできるのは、私たちだけなのです。




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