2022年1月16日 礼拝「主は聞き従う者を喜ばれる」1サムエル15:1~23
- hikaruumichurch
- 2022年1月17日
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更新日:2022年1月26日
おはようございます。今日私たちは、イスラエルの初代の王として立てられたサウルを通して、主なる神を信じる信仰について考えます。サウルは、主なる神に退けられることが、どれほどの悲劇であるかを自覚しないまま、その生涯を閉じていきます。
私たちが、創造者である、唯一まことの神を信じる信仰とは、そのお方を信頼して、聞き従うという信仰です。主なる神は私たちに、聞き従うことを求め、私たちの従順さを喜ばれるのです。私たちは、主なる神に聞き従う信仰者へと整えられることが大事です。
さて今日の箇所を前にして、ある人々は躓きを覚えるかもしれません。「聖絶」を命じる神に対して、とても受け入れられないと感じるのは当然と言えます。
3節。私たちが信じる神、信じようとしている神は、このような非人道的な、残酷極まりない命令を下す神です。愛も憐れみも、微塵もないほど徹底的に滅ぼし尽くすことを命じる神、私たちはこのような神を前にして、このお方を自分の神として信じ、信頼し、受け入れることが求められ、そしてその命令に聞き従うことが求められるのです。
「聖絶」について確認しましょう。レビ記27:28~29。聖絶とは、完全に滅ぼして神に献げる、神のものとして完全に滅ぼし尽くすの意です。主である神が聖絶を命じるのは、その対象を、主のものとして献げよとの命令です。「聖絶」が多く出てくるのは、申命記とヨシュア記です。イスラエルの所有として与えた約束の地、カナンの先住民は滅ぼし尽くすべき存在とされ、神の民イスラエルに「聖絶」が命じられました。
創世記15章13~16節。主なる神はアブラムに、カナンの地を与えると約束しました。しかし実際にその地がアブラハムの子孫のものとなるのは400年後です。それは、その地の住民たちの咎がまだ満ちていないからということです。しかし400年の間に、彼らの罪は激しくなり、もはや滅ぼす以外に救いがないほど、その咎は満ちると予告されました。だからイスラエルは彼らを、完全に滅ぼし尽くして神のものとして献げるのです。しかし現実には、イスラエルはカナンの聖絶すべき対象を滅ぼし尽くしませんでした。そしてこの不徹底さが、結局は、イスラエルを創造者である神から引き離す罠となり、イスラエルは霊的な堕落に引き込まれ続け、結局滅ぼされることになるのです。
これが聖絶の思想です。聖絶ということばが使われなくても、聖絶が、ノアの時代になされました。全世界が暴虐に満ち、人の悪は増大し、心はいつも悪いことだけに傾くようになった世界、そしてその時代の人々を、神は洪水で滅ぼし尽くされたのです。
ソドムとゴモラも同じです。救いようがないほど罪が満ち溢れ、火と硫黄によって滅ぼされました。主である神ご自身が直接手を下されたので、聖絶ということばは使わされませんが、思想としては同じです。主なる神が滅ぼさざるを得ないと判断し、その神の命令に従って、神の民が、神のものとして滅ぼし尽くし、神に献げる、これが聖絶です。そしてやがて、私たちが住む天も地も、跡形もなく消え去るときが定められています。そして新しい天と新しい地が再創造されるのです。
サムエル記第一15章。今日私たちは、神である主の命令に従わないサウルを見ます。主なる神が求められたのは、アマレクの聖絶です。その理由が2節です。ここで主なる神はサウルの心を見ておられます。サウルが神の命令にどれだけ従おうとするか、つまりサウルは、主なる神を自分の神、自分の主とするかを試したのです。聖絶せよという、罪に対する神の厳しさを、サウルが自分のこととして受け止め、主なる神の思いに、心から同意して、従おうとする従順さが、サウルにあるかを問うているということです。
4節。さてサウルは兵を集めます。そしてアマレク討伐に出発します。6節。聖絶の対象以外には手を下してはならないので、ケニ人たちに避難を勧めます。そして主の命令に従ってアマレク人への聖絶を始めます。
しかし9節。サウルとその民は、聖絶の命令に従いませんでした。肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんだのです。主の命令に完全に従うことをしなかったのです。しかし13節。サウルは主のことばを守った、従ったと自負します。14節でサムエルに、家畜の声が聞こえると言われても、15節で、あなたの神、主に、いけにえをささげるためだと自己正当化し、その他は聖絶したと付け加えます。
18~19節。サムエルはなお、神の命令の厳格さを再確認させ、サウルが主の御声に聞き従わなかったこと、それは、主の目の前に悪を行ったのだと詰問しても、サウルは何が悪いのか分かりません。20節。サウルは、主の御声に聞き従った、主が授けられた使命の道を進めた、アマレクを聖絶した、と言い張るのです。
サウルは、主である神の、罪に対する厳しさを知ろうとしませんでした。神ご自身を知ろうとしないで、自分の思いを優先させるのです。聖絶を執行させるほどに、罪を処罰される神の厳格さを、私たちも知らなければなりません。神の罪に対する厳格さ、どんな些細な罪をも見過ごさずに処罰しようとされる、その厳しさを知る必要があるのです。これほどに厳しく罪を罰するお方だからこそ、と同時に、罪人である私たち人間を愛し、罰することを猶予され、罪の赦しを差し出されるお方だからこそ、御子イエス・キリストを十字架で処罰されたのだと知りたいのです。聖絶で現わされた神の聖さ、義である神の罪に対する厳しさが、罪の全くない方、イエス・キリストを十字架にかけて、私たちの身代わりに罪を処罰させたのです。だから私たちも、罪に対して厳しさを持つべきです。罪を曖昧にして、自分を甘やかしてなりません。神の聖さ、神の正しさに照らして、罪は罪として認め、悔い改める必要があります。罪の赦しを受け取ることが大事です。
私たちは十字架で処刑されたイエスを見続けなければなりません。どんな小さな罪をも見過ごすことなく処罰される神の義が、十字架に現わされています。と同時に、私たちを愛して、すべての罪を赦そうとする神の愛が十字架で明らかにされているのです。私たちは、罪人の私をこよなく愛してくださる愛の神を、そしてまた、私が犯すどんな小さな罪をも苦々しく見ておられる義の神を、いつも十字架に見続けるべきです。そして罪を知らされた時、十字架で罪の贖いをされた主イエスを仰いで、罪を悔い改めるべきです。
サウルは、聖絶を命じられる神の聖さ、罪に対する厳しさに、自分を合わせようとしませんでした。サウルは、自分の基準で聖絶を、主なる神の命令を受け取りました。私たちも気をつけなければなりません。自分なりの基準を握り締めたままで、主のことばを聞いてはならないのです。まず自分の思いや計画、願いや好み、自分の都合や基準を捨てて、その上で、主のことばを聞き、従うことが大事です。肝に銘じましょう。
サウルは、自分の考えを主のことばよりも優先させました。主のことばを軽んじた、つまり、主ご自身を軽んじたのです。どれほど正当化できる理由を述べたとしても、主のことばを退けた事実に変わりはありません。自分の考えを正しいとしている限り、主なる神のことばに100%従うことはしなくなります。自分の考えに合う限りにおいて、主のことばを行うのです。しかし主である神は、主の御声に聞き従うことを、私たちに求めます。 22~23節。主のことばを退けてはなりません。
あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。何という悲劇的な宣告でしょうか。サウルは、ここまではっきりと言われて、ようやく自分がとんでもない罪を犯したことに気付きました。24節。しかし彼の心はどうしようもないほど頑なです。サウルは、罪を犯したと告白はします。そして罪の赦しを請います。しかし心の奥底から、自分が悪いとは思っていないのです。罪を犯したのは民を恐れたからだと、人のせいにしました。失敗したとは悔いますが、自分が罪を犯した、悪かったとは認めないのです。
30節。今は、私の面目を立ててくださいと頼みます。自分の罪を認めない、心底から悔い改めようとしないサウルは、完全に、主から退けられるのです。26節。
サウルは死ぬまで、イスラエルの王位に就いていました。ですから、主がサウルを王位から退けたことの意味は、イスラエルの王位にふさわしい者ではないとの宣告です。もはや悔い改めることは期待できないと判断されたということです。これは悲劇です。その生涯において、悔い改めはないと判断された、つまり救いはないと断定されたのです。
私たちは反面教師としてサウルから学ぶことが大事です。罪の恐ろしさと、罪の対する神の厳しさを知る必要があります。罪の恐ろしさと、罪に対する神の厳しさを知る時、罪の赦しを心から求めることになります。罪を犯さないようにしたいと願うのです。罪とは主の御声に聞き従わないで、自分の思いを優先させることです。23節。主の御声、神のことばに背くこと、従わないことは、占いの罪、偶像礼拝の罪と同じだと言われます。肝に銘じましょう。だからこそ、主の御声に聞き従うことを、何よりも求めるのです。
主を信じる信仰とは、主を信頼する信仰だと述べました。主なる神を信頼して、主のことばをそのまま受け取るということです。私たちが主と仰ぐお方は、祝福と恵みに富んでおられる創造者である神です。愛の神が私たちを救おうとして、御子イエス・キリストを人として遣わしました。十字架で死なせ、私たちに罪の赦しを備えるためです。このお方を信頼し、このお方に聞き従うことを求めるということです。
主である神は聖書を通して、ご自分を明らかにし、ご自分の思いを明らかにしておられます。それを知って、そのままを受け入れ、自分の神、自分の主と仰いで、聞き、従っていくのです。このような神であってほしいと、自分の希望や期待を主なる神に押しつけてはなりません。主が明らかにされたそのままを受け入れ、自分の主とするのです。自分の主とあがめて、信頼し、従うということです。
サウルは主に退けられました。私たちは心を頑なにしてはなりません。主のことばを退 けることに平気であってはなりません。自分の弱さのゆえに、主のことばを退けることが あったとしても、その時、主のことばを退けたことに平気になるのではなく、それを罪と 認め、罪の赦しを求め、主のことばに聞いて、従い直すことを追い求めるのです。主に退 けられないようにしましょう。主イエスの十字架を仰ぎ、神の愛、主イエスの恵みを、自 分のものとして確認し、その愛と恵みの中を歩む私たちであり続けるということです。

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