2022年12月18日 礼拝「キリスト来臨の約束」2ペテロ3:1〜14
- hikaruumichurch
- 2022年12月18日
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アドベントの期間も第4週目を迎えました。来週はクリスマスの礼拝を主にお献げします。クリスマスは神のひとり子が人となって生まれたことを記念する日です。私たちの教会も、西方教会の定めに倣って、12月25日を救い主誕生の記念の日として過ごしているのです。ユダヤでは日没から一日が始まり、翌日没までが一日となります。今年は25日が日曜日ですので、今週土曜日24日の夕方にイヴ礼拝を献げ、25日にクリスマス礼拝を献げるという、イヴ礼拝、クリスマス礼拝とも、ユダヤ歴の一日で行う年ということです。
私たちはこれまで、4週に亘ってアドベント、キリストの来臨を待つ期間を過ごしてきました。第1週目と第2週目は、クリスマスを待つ期間、キリストが人として生まれたことを記念する期間として過ごし、私たちの罪の赦しが備えられたことを確認し、改めて神の愛と恵みに思いを向けて、クリスマスを待つ心備えをしたのです。
第3週目に、もう一つのアドベント、再臨の主を待つ私たちであることを確認しました。クリスマスは、すべての人に救いが差し出された日です。御子が来られたのは人をさばくためにではなく、御子によって人が救われるために備えられた日です。しかし主の再臨の日は、御子を信じない者をさばくために定められています。人となられた神のひとり子を信じる者は永遠のいのちが与えられますが、信じない者は、神のひとり子を信じないことのゆえにすでにさばかれており、そのことが明らかにされる日なのです。
今日も私たちは、主イエスの再臨について、みことばから確認します。そうして、主イエスのおいでを待ち望む私たちであることを、改めて自覚したいのです。
3節。初代教会において、すでにキリストの再臨の約束を嘲る人々がいたことに驚かされます。主イエスと共に生活した使徒たち、主イエスの十字架と復活の目撃者、主イエスが天に昇っていかれる時にそれを眺めていた人々がまだ生きている時代に、すでに神の約束のことばを否定する人々が、神の教会の中にいたという事実に驚かされるのです。しかし現実に、神のことばを否定し、自分の欲望を貫く人々が神の教会の中にいて、教会は少なからずその影響を受けていたのです。それでペテロはこの手紙を書きました。
彼らは神のことばを否定します。しかし私たちはそのような人々に惑わされてはなりません。神のことばを、神のことばとして受け止め、神の約束のことばにしっかりと立てば良いのです。人が神のことばを否定しても、私たちは神のことばに従って歩むことが肝要です。私たちはキリスト信仰者として、キリストの再臨についても、神の約束を、主イエスのことばをそのまま受けとめ、主の再臨を待ち望むのです。
まず主イエスご自身のことばを、先ほど交読したマタイ24章で確認しましょう。この24章は、ローマ帝国によるイスラエルの完全な滅亡の予告であり、それと重ね合わせるかたちで、世の終わりについての予告です。またそれはご自身の来臨の予告です。27節。 主イエスはご自分を「人の子」と表現します。主イエスの到来は、稲妻がひらめくのと同じようにして実現するのです。青天の霹靂ということばがあります。雲一つない青天なのに、突然雷が鳴り響き、そして雨になったり、雹が降ったりするのです。全く予測できない事態が起きるように、主イエスの来臨は突然起こります。30節。32~33節。37~39節。42節。44節。50節。主イエスは繰り返し、ご自分の再臨について語られました。
主イエスが復活された後、天に昇っていかれる時、御使いは主イエスの再臨について、その様子を見ていた人々に語りました。使徒1章9~11節。パウロも手紙の中で、繰り返し主の再臨について言及しています。
ペテロの手紙に戻りましょう。3章4節。このように言う人はいつの時代にもいます。その時、私たちは明確に答えられるようにしておきましょう。この天地は滅び去ります。天も地も、そのすべては跡形もなく消え去るのです。主イエスの明確な宣言です。神の定めの時に、天地宇宙のすべては消えてなくなります。7節。10節、12節。
11節。聖なる敬伲な生き方とは、自分に委ねられている物質的な祝福を正しく管理して用いるということでしょう。そのための知恵をいただく必要があります。地上の生活、物質的な祝福に依存する生き方ではなく、それらはみな創造者である神から委ねられたものという自覚をもって、正しく管理し、主のために誠実に、有効に用いるということです。
再度確認しておきましょう。私たちがどれほど、この地上に物質的なもの蓄えても、それらのものは何一つ、天の御国には持っていけません。またこの世のすべてものは消え去る定めとなっています。だから委ねられている物質的な祝福を、自分のためだけに使うことはむなしいと言われるのです。主なる神は私たちに、この地上生涯で、様々なものを委ねておられます。それらのすべて、能力や財、時間、その他のあらゆるものを、どのように主にあって、主のために活用できるかを考える者でありたいのです。主イエスはもう一 度この地上に来られます。その時、よくやった、良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれとの語りかけを、主イエスから聞きたいのです。
さて、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天から約2000年が過ぎました。そして主イエスの再臨はないと嘲る者たちがいます。3節。終わりの時とは、これから来る終末の時ではありません。すでに終末の時代になっているという意味の終わりの時です。神の御子が人となられ、十字架で身代わりの処罰を受けて罪の赦しを備え、死者の中から復活したことで、罪の赦しが完成した時から、終末の時代に入っているのです。いつ主イエスが再臨されても良い時代になったからです。嘲る者たちは、自分の欲望に従いながら、神を恐れない不敬伲さで、神の約束を否定して、人々を不信仰に引き込もうとします。私たちは惑わされてはなりません。神の約束はそのときが来れば必ず実現するからです。
では、なぜ主イエスは未だに、再臨されないのでしょうか。ペテロはその理由を2つあげます。8~9節。その第一の理由は時間の感覚です。私たちは時間に制約されて生きています。その時間を創造されたのは創造者である神です。時間を創られた生ける神は時間を超越しておられ、時間に縛られてはいません。私たちは一日と千年ではとてつもない違いに感じられます。しかし時間を超越しておられる神は、私たちの世界のいつの時代にも介入できる生ける神です。主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようなのです。永遠の前では千年も一瞬に過ぎません。私たちの感覚で、主の御業を遅いとかは言えないのです。主の御前での謙虚さをなくしてはなりません。
第2の理由が9節です。生ける神は、約束を遅らせているのではなく、私たちに対して忍耐しておられるのです。主イエスの十字架の身代わりの処罰は、すべての人に罪の赦しを備え、御子を信じる者を滅びから解放し、救いへと導き、永遠のいのちを与えるためにあります。だからだれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられのです。御子を信じる者のために、忍耐しておられることを、心に刻みましょう。
ペテロは私たちを招きます。どのように生きるかを知らせるのです。12節。主なる神が私たちに期待しておられることは、私たちが神の日、すなわち主イエスの再臨の日を待ち望むということです。ただ漫然と時を過ごすのではなく、この世の営みに追われ、埋没してしまうのでもなく、この世で委ねられている自分の社会的責任を果たしながら、主イエスの再臨を待ち望むのです。それはそのまま、主の到来を早める生き方です。
神の日の来るを待ち望み、主の到来を早める生き方とはどのようなものでしょうか。その生き方として、この手紙で述べられていることを確認しましょう。1節、純真な心を奮い立たせる。11節、聖なる敬伲な生き方をする。14節、しみも傷もない者として神に見出していただけるように努力する。17節、自分自身の堅実さを保ち続けることです。
自分の回りの人々がどのようであっても、信者か不信者に関わりなく、その人の生き方に影響されるのではなく、神の御前での真のキリスト信仰者として歩むことを追い求めるのです。それはとりもなおさず、神のみことばに従って生きるということです。そのための努力を惜しんではなりません。
神の日の来るを待ち望み、主の到来を早める生き方の二つ目は、9節から、すなわち十字架の福音を伝える生き方です。神は忍耐しておられます。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ、そのために、私たちに対して忍耐しておられるのです。先に救われた私たちキリスト信仰者が、神の教会が、福音を伝えるのでなければ、福音を知り、それを受け入れることはできません。私たちキリスト信仰者が真に聖い生き方をする、神に属する者としての聖なる敬伲な生き方ををもって、またことばで福音を伝えることで、人は初めて、罪と、罪の赦し、救いを知ることができるのです。
今日交読したマタイの福音書24章には、御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ますと述べられています。主イエスの再臨の日を待ち望み、その日の来るのを早めるためには、教会が、そしてキリスト信仰者個々人が、御国のこの福音を伝える必要があります。忙しいこの世の社会機構の中にあって、どのように時間を管理して主に仕え、福音を伝えるために時間を使うか、知恵を求める必要があるでしょう。このことにおいても、祈りの中で備えなければなりません。
13節。私たちの心からの願いは、義の宿る新しい天と新しい地に住むことです。だから私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいますと心から告白したいのです。告白しなければなりません。年末で、何かと慌ただしいこの時期に、アドベントがあります。クリスマスが設けられています。神の約束にしたがって、主イエスは人として生まれました。神の約束にしたがって、主イエスは再臨するのです。
私たちは、このアドベントの期間、主イエスの来臨の約束に心を向け、そうして心して主イエスの再臨を待ち望む生き方をし、主イエスの再臨の日を早める生き方を心から求めましょう。私たちの思いを地上に向けるのではなく、天上に向けて、主イエスにある生き方をするのです。神の約束にしたがって、主イエスの再臨は必ず実現します。新しい天と新しい地が再創造され、私たちは永遠を、神とともに生きるのです。救いの完成を確認しつつクリスマスを喜び迎えましょう。

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