2022年11月4日 礼拝「拒む者と受け入れた者」ヨハネ1:9〜13
- hikaruumichurch
- 2022年12月5日
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アドベント第2週を迎えました。先週私たちは、クリスマスに来られたお方はどなたかを1章1~5節で確認しました。今日私たちは、クリスマスによって何が与えられたのかを確認します。父なる神が、子なるキリストを人として地上に贈られたことによって、私たちに何を与えてくださったのかを確認するのです。そうして、私たちは、キリストを信じることを通して、何を受け取ったのかを改めて確認して、喜びを新たにしたいのです。
一つ想像してみてください。今日、皆さんに養子縁組の話が持ち掛けられたとします。しかもその相手は一寸した財産家などではなく、世界に貢献してきた大財閥、ロックフェラー家から、養子に迎えたいと打診されたとするのです。俄には信じられないでしょう。しかし事実と分かったなら、有頂天になって喜ぶと思うのですが、いかがでしょう。ロックフェラー家のことを調べるなら、これは物凄く光栄なこと、物凄い栄誉です。夢のような話ではないでしょうか。
しかし、私たちにはもっと凄い、ロックフェラー家など比較にならないほどの養子縁組の話が持ちかけられているのです。夢のような話しではありません。事実として差し出されているのです。クリスマスによって私たちに差し出されたこと、それが神との養子縁組です。神の子どもとなる特権です。
ロックフェラー家がいかに巨大財閥だといっても、その資産は、全世界の総資産の一部 に過ぎません。そしてその家の養子に迎えられたとしても、地上生涯を終えたなら、その時点で膨大と言える資産とも無関係になりますす。
クリスマスによって差し出された養子縁組は、神との養子縁組であり、神の子どもとなる特権が差し出されたのです。天地万物を創造し、そのすべてを支配しておられる神、無から有を造り出し、何もないところにどんなものをも存在させる全能の神、このお方の子どもになる特権が差し出されました。地上生涯が終わったとしても、永遠の効力が保証されている養子縁組、永遠を父なる神とともに生きるという特権が与えられたのです。これ以上の光栄、栄誉、祝福はありません。神の子どもとされるのだからです。
さて、今日の箇所から確認しましょう。9節。4節で人の光であったと言われた方が、ここでは、すべての人を照らすそのまことの光と言い換えられています。この光は、すべての人のためにあります。人であるならだれもが、この光に照らされる必要があります。この光はまことの光です。まことの光は、人を魅惑するイルミネーションとは違います。人を幻想の世界に引きずり込む虚飾の光ではなく、人の真実を知らせ、誤りを悟らせ、人を正しく導くまことの光です。このお方が、世に来ようとしていました。
10節。このまことの光である方は、もとから世におられました。初めにあったことば、神とともにあったことば、神であったことばなるお方です。世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。
11節。ご自分の民イスラエルだけが、この方について知らされていて、彼らはこの方、メシヤの来られるのを待っていました。この方の到来に関しては、旧約の時代に、度々神によって預言されていたからです。女の子孫として、ひとりの処女から、ベツレヘムで生まれること、しもべとして来られ、人々から蔑まれ、捨てられ、殺されること、と同時に、栄光の王として世界を裁くために来られることも含めて、数多くの預言が旧約聖書にあります。しかしイスラエルは、王の王として来られるメシヤを待ち望んではいても、苦難のしもべとして来られる預言のことばを、いつしか退けてしまったのです。
こうして神の定めの時に、この方、神の子キリストが来られました。しかしイスラエルはこの方を受け入れなかったのです。この方を拒み、この方を十字架につけて殺してしまいました。11節にある「ご自分のところ」「ご自分の民」は、自分のもの、自分の所有という意味の同じ単語です。「ところ」は中性形、「民」は男性形なので、ご自分のところ、ご自分の民と訳したのです。この方は、自分が所有しているところに来たのに、自分が所有している民、すなわちイスラエルは、この方を受け入れませんでした。本来ならこのお方を、ご自分の民イスラエルは喜んで受け入れ、神が備えられた救いの恵みを全世界に証するはずでした。証が神の民の第一の使命です。しかし彼らは受け入れなかったのです。
12節。神の民イスラエルは受け入れなかったけれど、受け入れた人々もいました。11節の受け入れなかったは、12節の受け入れたという単語の強調形です。すなわちイスラエルはこの方を頑なに拒んだ、この方が神であることを、決して受け入れようとはしなかったのです。彼らは神が用意された救いをではなく、自分たちが望む救いを求めました。その結果、まことの光が来られたのに、この方を神の子、救い主として認めることを頑なに拒み、決して受け入れようとはしなかったのです。
しかしこの方を受け入れた人々がいました。すなわちことばである神が人として来られた、そのお方が神の子であり、私たち一人一人の罪を負って十字架にかかった救い主、ナザレのイエスであると信じ、素直に認めたのです。この方はその人々に神の子どもとなる特権を与えられました。神の子どもとなる特権、これが、神が私たちに与えられた救いの内容です。そしてこの救いこそ人間にとって、最大の祝福です。創造者である神の子どもとなる養子縁組が差し出されたのですから。
いつの時代でもそうですが、人間は神のなさることに対して相反する2つの反応をします。すなわち神のみわざを素直に受け入れるか、頑なに拒むかです。私たちは神のみわざを、その申し出を、素直に受け入れる者であり続けましょう。
信仰生活においては、神の御思いが分かっているのに、それに従うことを拒んだとしても、神が与えようとしておられる祝福や恵みを受け取り損ねたり、罪に陥り、傷つくことでしょうが、悔い改めることでやり直しが効きます。しかし救いへの招きを頑なに拒むなら、やり直せません。頑なに拒むか、素直に受け入れるのかのどちらかを選ぶのです。この、神が用意された救いを拒む人には、決して与えられない神の子どもとなる特権は、この方、人となられたことばなる神を受け入れた人々、 主イエスを信じた人々には、誰にでも与えられるのです。この方を受け入れる以外の条件は、何もありません。
13節。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれるのです。神の救いに、血筋は何の益ももたらしません。アブラハムの子孫だからとか、敬伲な牧師の子どもだからとか、代々教会指導者を出している家系だとか、それらは良い影響を与えることはあっても、そのことがその人を救うのではありません。その人が主イエスを受け入れることだけです。この人々はただ、神の憐れみによって救われました。神を無視し、自分勝手に生きていた私たちを、神は一方的に憐れんでくださり、救いの道を開き、キリストを信じる信仰を与えてくださったのです。
クリスマスが与えるもの、それは、神の子どもとなる特権です。神との養子縁組の道が備えられたということです。大財閥の家に養子に迎えられることは、想像もつかないほどの感激に震え慄くことかもしれません。しかしどれほどの莫大な資産を相続することになったとしても、それは一時的であり、この地上のことだけであって、すべてをこの世に残すことであり、それは空しいと言えます。しかもそれは特別に選ばれた人だけです。
しかし私たちに差し出されているのは、神の子どもとされる特権であり、それは、すべての人に差し出されています。地上生涯という限定ではなく、永遠の祝福です。この世での羨ましがられるような祝福とは比べられないほどの光栄と喜び、感激のはずです。それが私たちに差し出されています。これがクリスマスで備えられた、私たちへの神からのプレゼントです。神の子どもとされる特権、永遠を父なる神とともに生きる特権、この世が決して与えることはできない平安を心に宿す特権が、キリストを信じる信仰によって与えられるのです。この事実に感激し、心から喜ぼうではありませんか。
アドベントの第2週を迎えています。クリスマスを待つ期間、クリスマスに備えられた大きな特権を確認して、心からの喜びと感謝をもって、クリスマスを迎えましょう。

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