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2022年11月20日 礼拝「聖霊の導きに従う」使徒の働き16章1〜14節

  • hikaruumichurch
  • 2022年11月20日
  • 読了時間: 8分

 前回私たちは、15章後半で、第二次伝道旅行の出発直前に、パウロとバルナバの間に、ヨハネ・マルコを同行させることについて激しい議論が起こり、結局二つの伝道チームに分かれたことを確認しました。今日私たちが見ているのは、パウロのチームについての記録です。15章40~41節で、パウロはシラスを選んで、トルコ半島に向かいました。


 今日配布した地図は、第二次伝道旅行の旅程です。シリアのアンティオキアを出発したパウロとシラスは、パウロの出身地タルソを含むキリキアを通り、デルベに、そしてリステラに向かいました。地図ではルステラと表記されている町です。


 1節。リステラにテモテがいました。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であったと紹介されています。このユダヤ人女性はユニケと言い、その母親ロイスと共に主イエスを信じた女性たちです。パウロはテモテへの手紙の中で、テモテのうちにある偽りのない信仰を思い起こしていると書き、そしてその信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると確信していると書き送ったのです。この記述から、ロイスとユニケは同時に主イエスを信じる信仰を持ったことが分かります。もしかするとバルナバとパウロのよる第1次伝道旅行のときに、二人は主イエスを信じ、その偽りのない信仰がテモテに受け継がれたのかも知れません。


 2節。テモテはリステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であったとも紹介されています。偽りのないキリスト信仰を持ち、純粋な思いで主なる神に聞き従う信仰生活をしていたこと、それが教会の中で、人々に認められていたということです。


 3節。パウロはこの伝道旅行にテモテを同行させたいと考えました。そうして、主イエスを信じる信仰によってのみ救われるという十字架の福音を伝える同行者とするために、その地方にいるユダヤ人たちのために、テモテに割礼を受けさせたのです。この行為は、主イエスを信じる信仰によってのみ救われるという福音に反するのではないかと考える人もいるでしょう。なぜパウロはテモテに割礼を施すことを良しとしたのでしょうか。


 この時のパウロの心を思い計るために、パウロの福音宣教の原則を確認しましょう。コリント人への手紙第一9章19~22節。パウロは福音のためにあらゆることをしていると言い切ります。その人が主イエスを信じて救いを受けることができるために、その人のようになるというのです。これは福音を伝えることに障害となるなら、それを取り除くという考えでしょう。その人が福音を聞く前に、心を閉ざしてしまうことのないように、その障害となるものを除去しておくということです。何とかして、何人かでも救うために。


 目的のためには手段を選ばないということではありません。その人が福音を聞くことができるように、手段を選ぶということです。今パウロは、トルコ半島に住むユダヤ人たちが福音に耳を傾けることの妨げになるかもしれないテモテの無割礼を除去することが必要と考え、テモテに割礼を受けさせたということです。


 4節。伝道チームとして町々をめぐり、主イエスの十字架の死による罪の赦しと罪からの救いの福音を伝え続けました。それに併せて、エルサレム公会議で決めた規定を守るべきものとして伝えたのです。その規定が15章28~29節にあります。割礼を受け、モーセの律法を守る生活をするなど、ユダヤ人のようにならなければ真の救いは得られないとする一部ユダヤ人キリスト者たちが主張していた教えは採用しないという公式の通告です。


 5節。福音が福音として伝えられた結果、諸教会は信仰を強められ、主イエスを信じる人たちも日ごとに増えていったのです。ここには記されていませんが、パウロたちは祈りつつ、聖霊の導きを求め、それに従った結果であったと考えられます。


 6節。パウロの心には、ピシデヤのアンティオキアから、アジア州の州都エペソに向かい、福音を伝える思いがありました。しかし、聖霊がそれを禁じたのです。祈りつつ、主の導きを求めているパウロの姿を見ます。そして主の導きに従うパウロの姿があります。祈りつつ、アジア州の町々への訪問を計画していたと思われますが、どうもアジア州へ行くことは止められていると感じたということです。計画を進めるにあたって、平安が得られなかったと考えられます。


 私たちが主の導きを確認していくための要素としては、まず第一にみことばに反していないこと、第二に自分の置かれた状況が、その計画を進めていくのを妨げていないこと、第三に心に主の平安があること、などが考えられます。何かの志が与えられたとき、これらのことを確認しつつ、一歩一歩進んでいく。進みながら、主の導きを確認し続けていくことが大切です。これが道だ、これに進め、というような、主からの強い導きを覚えることもあるかもしれませんが、そのようなことは稀だと言えます。一歩一歩主の導きを確認しながら進むことが、主のみこころにふさわしい堅実な歩みを得させると言えます。


 7~8節。パウロはアジアへの道を閉ざされたので、次に北方のビティニヤ州に行こうと考えます。しかしまたもや、イエスの御霊の後押しを得ることができませんでした。そうしてトロアスに導かれました。トロアスでパウロは、幻を見せられ、主のご計画を確認するのです。それは9節、マケドニアへの導きでした。ギリシアに向かうなど、パウロの思いには全くなかったのですが、聖霊が進ませる道を歩んだ結果、ヨーロッパへの福音宣教へと導かれるのです。これがこの時の神のご計画でした。エペソでの福音宣教、そうしてアジア州全体に福音が伝えられることは、次の機会まで待たされることになるのです。


 私たちは主のみこころ、そのご計画のすべてを知ることはできません。主のみこころはその時々の祈りによる導きを確認しつつ歩み、振り返ってみて、導かれてきた結果を見ることで、初めて分かることの方が多いのです。一歩一歩、主にあって祈りつつ歩み、みこころに反していないかを問いかけつつ、信仰生活を進めていくことが大事です。


 10節。ここに今までにない表現が出て来ます。これまでは、パウロの一行はとか、彼らはとか、三人称で記されてきたのに、ここで初めて、私たちという一人称での記述がなされるのです。このことから、このトロアスで、使徒の働きの著者ルカが加わったということに気づかされます。この後の使徒の働きの記述を読み進める中で、主語が私たちとあるなら、ルカが同行しており、そうでなければ、ルカは同行していないと分かります。


 もしパウロが、自分の計画や考えに固執して、エペソに向かっていたなら、またビテニヤへの計画変更に固執したのなら、ルカと会うこともなく、ルカによる福音書記載も、使徒の働きの記載も、なかったかもしれません。私たちには、主なる神のご計画の全体像を知り尽くすことはできないと謙虚に受け止めて、一歩一歩主の導きを確認しながら信仰生活を進めていくことが大事です。私たちが主の働きをするのではありません。主が私たちを用いてご自分の働きをなしておられるのです。このことを謙虚に認めて、主の働きに自分をお献げすることが、主の祝福と恵みに与ることなのだと再確認しましょう。


 私たちは主イエスを信じる信仰によって、罪を赦され、罪からの救いに与り、神の子どもとされました。永遠のいのちに生きる者としてこの地上生涯を歩んでいます。私たちの心には、助け主の聖霊が住んでくださり、私たちを神のことばで取り扱い、内側から整えて神の働きに参与させ、用いようとしておられるのです。


 今週のみことば。ガラテヤ人への手紙5章25節。かつての私たちは、肉の欲求に従って生きていた者であったけれど、今はキリスト信仰者として、御霊によって生きる者と変えられました。私たちは、御霊によって生きる者とされたのだから、御霊によって、すなわち御霊の導きを仰いで、その導きに従って進もうではありませんかと、パウロは勧めるのです。まさにパウロ自身の信仰姿勢であり、その信仰体験で確信した、真に祝された信仰の歩みと言えます。


 今日交読したローマ人への手紙も確認しましょう。8章4節。肉に従って生きることを止め、御霊に従って生きる時、私たちは、真に神のことばを生きる者とされるのです。


 6節。肉が私たちに及ぼすのは、死に至らしめるもの、御霊が私たちに及ぼすのは、いのちと平安に至らしめるものです。それは7節。肉の思いは神に敵対するのです。だから8節。肉のうちにある者、肉の欲求に従って歩む者は、神を喜ばせることはできません。


 9節。私たちキリスト信仰者は、心に聖霊を住まわせています。神からの賜物です。ですから私たちは意識して、自分の意思をもって、肉のうちにいることを止め、御霊のうちにいることを求めなければなりません。しかし13節。御霊によって生きる者とされたにもかかわらず、肉の欲求に従って生きることを続けるなら、死ぬことになります。だから御霊によってからだの行いを殺すことが大事だと言われます。私たちは生きるのです。


 再度今日のみことば。私たちは御霊によって生きるのです。これは決断です。そうして御霊によって生きているのだから、御霊によって生きる者とされているのだから、御霊によって進もうと促されるのです。私たちの意思による決断をして、一歩踏み出すことが大事です。パウロは、御霊に導かれて進みました。そうして主のご計画に参与し、主のみわざに用いられたのです。私たちも、地上生涯、信仰生活が、主のご計画に参与するものであり、主のみわざに用いられたいとは思わないでしょうか。祈りつつ、主に聞き、主が喜ばれることを求め、主が悲しまれることを避けながら、主が良しとされることを求め、主が良しとされないことは止めて、信仰生活を続けましょう。



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